第7章 <1>
大津宮での役人生活も一か月余りが過ぎ、夏の予算編成やら人事異動やらのばたばたもようやく落ち着いた。主計寮の竜成も木工寮の陽一も残業時間がめっきり減って、最近ではオオシアマ邸で仲間内で飲む時間もできた。りらはヤマト姫の計らいで、同僚の采女たちと交代で五日間の休暇を頂き、こっそりとオオシアマ邸に戻ってきていた。
館の入口に続く石の階段を上りきったところで、りらは呼び止められた。
「桧枝さん、お帰り!」
振り向くと、階下から陽一がこちらをまぶしそうに見上げていた。視界に見慣れた顔が飛び込んできて、りらはなぜだか涙が出そうになった。
「長柄くん! ただいま、久しぶりだね」
陽一は階段を急ぎ足で上り、二人は並んでオオシアマ邸の門をくぐった。しばらく仲間と隔離され、慣れない采女の仕事をしていて緊張しっぱなしだったから、陽一が隣にいるだけで解放された気分になった。もちろん陽一はりらが同じ敷地内で働いていることはわかっていたが、後宮など下級役人が近づくことができる場所ではないし、大王や大后の采女にまとわりつく男はあらぬ疑いをかけられて、最悪の場合は死罪だ。
「元気だった?」
「うん。ちょっと心細かったけどね。木工寮……だっけ?そっちはどう?」
「一手に土木工事を引き受けてるから休む間もなかったよ。そうだ、蒲生野に遷都する話は知ってる?」
後半は声を落として訊いた。
「え、そうなの?だって、大津宮はそんなに古くないし、大王が代わるわけじゃないでしょ」
「じゃあ、詳しい話は明日の夜だね。ちょうど皆で近況報告と大津宮の内情を分析しようってことになってるから。もちろんオオシアマとサララの部屋でね」
「私も少しは話せることあると思う。あ、この前の打毬、かっこよかったよ!五十里くん相手に負けてなかったね」
思いがけない言葉に、陽一は驚いた。あの場にいたのか…… 見てくれていたことに嬉しくもあり恥ずかしくもあった。これで少しはイズモでの失態を挽回できただろうか。
「ありがとう。戦場でなければ、俺もそこそこ活躍はできるってことかな。……桧枝さんこそ、そういう服も似合うよ。イズモとはまた違った雰囲気で」
陽一はりらを褒めた。もちろんお世辞ではない。好きな女性を黙って眺めているだけなんてバカバカしい。りらが自分をどう見ているのかわからないが、いい加減、前に進まなければ。
「嬉しいな。私たちこっちの人間じゃないから、浮いてないかなって心配してたんだよね。ここの世界では色々見ることはできるけど、ずっと仮面を被ってるみたいで窮屈だし」
「ねぇ、桧枝さん、俺の前では素顔でいいんだよ。俺はコトシロヌシの妃やヤマト姫の采女なんか知らないけど、桧枝りらさんなら知ってる」
さらさらと心地良い言葉が、りらの胸に染み込んでいった。そして、なんとなく意地悪な質問がしたくなってしまった。
「どれくらい知ってる? 桧枝りらのこと」
なかなか刺激の強い問い掛けに、友人として無難に返答しようとした陽一は、開きかけた口をつぐんだ。笑みをたたえながらも、こんなに挑発的なりらの視線は初めてだった。
「……俺が知らない桧枝さんがいたら、おしえてくれるの?」
陽一がそう小声で返すと、りらは「私のこと、知って面白いかなぁ」と言いつつも、「じゃあ、何が知りたいか考えといてよ。ね?」と陽一を見上げながら微笑んだ。その時のりらはさっきの挑発的な視線が見間違いだったかと思うような、素直で楽しげな瞳をしていた。また、彼女の新しい一面を知ってしまったな……
それから陽一はりらを部屋まで送り、明日の集合時間を伝えて自室に向かった。
翌日、仕事はそこそこに切り上げてオオシアマ邸に帰ると、思わぬ事態が起きた。
竜成に誘われて、オオシアマ邸での同僚の舎人たちと中庭で徒歩打毬をして汗を流していると、外野が騒がしくなった。女性たちが見物にやってきて、きゃーきゃー言い始めたのだった。竜成は意に介さず、陽一はうるさいなと思わないでもなかったが、同僚たちは女性陣にいい格好を見せようと俄然張り切り出した。
そりゃそうだよな。周りを見回して、陽一はひとり納得した。舎人たちは陽一よりも10歳近く下の若い男もたくさんいて、もうちょっとでアラサーの仲間入りという陽一にはない血の気があった。要するに、男子高校生や大学の学部生たちと部活動をしているようなものなのだ。
競技中に水を飲もうと、中庭の端に置いてある竹筒の方へ向かおうとした時、陽一の目の前に竹筒と手拭いが差し出された。
「あれ、桜児。どうしたの」
いつの間にか炊女の桜児がやってきて、あたかも女子マネージャーのごとく、陽一が必要としていたものを手渡したのだった。特に何も考えもせずに、ありがとうと受け取ってしまった後で、陽一は自分たちがその場の注目を集めていることに気づいた。最近知ったのだが、そういえば、桜児は若い舎人たちのアイドル的存在だった。
マズイなと逡巡していると、桜児は初めて会った時と同じようににっこり笑って、意外なことを口にした。
「こちらでは舎人、大津宮では木工寮の算師。2つのお顔があるのね。それに打毬もお得意で、本当に素敵……」
「え、君は俺があっちで働いてることを知ってるの?」
桜児はこくんと頷いた。そして、陽一につつと近寄り、オオシアマ邸の多くの若い舎人たちが欲している言葉をささやいた。だが、舎人たちの囃し立てる声や大ブーイングにかき消されてしまい、陽一は「え、何?」と聞き返すはめになった。桜児はめげずに、というよりもこれ幸いと自分の腕を陽一の腕に絡めて、さらに顔を近づけて告げた。
「桜児は、陽一様をお慕いしています」
さすがに今度ははっきりと聞こえた。
いやいやいやいや、慕われても困るよ、ていうか、なんなんだこの展開は。陽一の動揺をよそに、言いたいことを言ってしまうと桜児は自信たっぷりに陽一から離れていった。外野は相変わらず、この2人の関係がわからないまま大騒ぎしている。竜成に救いを求めようと視線を向けると、最悪なことに、竜成の横にはりらが立っていた。
うわっ、やべぇ。よりによって、最も慕われたい女性に大いに誤解を招くような場面を目撃されてしまった。竜成はにやにやしている。もしかしたら、りらに余計なことを言ったのかもしれない。
「おい、竜成。俺は別にあの子とは――」
弁解しながら二人に向かって歩いていったが、りらは「ちょっと用があるから、ごめんね」と竜成に言い残し、陽一と目を合わせることなく立ち去って行った。
恋する女性の後ろ姿を呆然と見送りながら、陽一はもしかして自分は恋愛の神様とやらに見捨てられているのではないかと考えた。しかし、竜成は立ち尽くしている親友に希望的観測を述べた。
「心配しないでいいと思うよ。今ので動揺したってことは、お前のことを気にしてる可能性大だろ」
「そんなもんかねぇ」
「早いとこ捕まえろよ。案外、オオシアマあたりが桧枝さんを狙ってるかも……」
それはあり得ないことではない。現に、オオシアマとりらは二人きりで会話をしたこともあったのではなかったか。励ましておいて不安にさせるとは、竜成らしいと言えばらしかった。
とうとう久しぶりに一同が揃う時がやってきた。オオシアマは関係者以外を執務室から下がらせて、さらに念入りに隣接の舎人詰所も人払いをさせた。まだ夜遅くはないということで、子供のタケチとクサカベも同席させることにした。
「みんな、元気そうで何よりだ。それぞれから時々報告を受けて、俺も色々考えてきた。この機会にそれぞれの報告を共有しておこうと思う」
一同は真剣な面持ちで頷き、まず、竜成から大津宮の財政状況の報告がなされた。
「……まぁ、そういうわけで、当分、オオトモ主導の新宮造営と百済再興に金が費やされるだろうね。新宮は百済人がたくさん住んでる蒲生評に造られるし、本国の再興も掲げられてるから百済人は支援を惜しまないと思うけど、このままだと財政危機も考えられる」
「それって首都移転事業と戦争を一度にやるってことよね?どうやって資金をまかなうの?」
もっともな疑問を口にしたのは貴子で、竜成はよく訊いてくれたとばかりに小ぶりの木簡を読み上げた。
「ちょっと聞いて。これは俺が職場でこっそりメモったんだけど……“未回収の調庸は美濃、阿波から、追加徴税は信濃、越、丹後へ。人員も同様。さらに必要な場合は出雲、豊後を対象に――”」
「つまり、これらの国々は俺に縁のある土地なんだ」
オオシアマの言葉に、少し興奮気味に美輝が付け足した。
「あたし、雅楽寮の人たちが、大臣たちがオオシアマの力を削ぐべきだって言ってたっていう噂をよく耳にしたんだ」
「随分と大臣や御史大夫たちはオオシアマの影響力を恐れているみたいだし、まぁ、オオトモ王子も周りがそんなんだから気にしてしまってるというか……」
潤は美輝と違ってオオトモの舎人として間近に仕えているため、かえって歯切れの悪い物言いになってしまう。
「俺を遠方に派遣しろとか、適当な理由付けて流罪にしろとか、本気とは思えないな。さすがにオオトモは賢いから、俺を大津宮から追い出したところで何の意味もないことはわかってる。だから、せいぜい美濃や信濃、越の財源を圧迫させるのが関の山だよ」
「そんなことしても、オオシアマを不快にさせるだけなのに」
「大津宮の役人たちは飛鳥を懐かしがってるみたいだね。新宮がすんなり行くかどうか……」
こうして大きな話が終わると、細かい事項の報告に移った。貴子は大津宮にある薬園の秘密を明らかにした。トリカブトをこっそり持ち出したあの日、多忙なオオシアマになんとか面会の時間を作ってもらい、薬園に大量の毒草が植えられていることを報告すると、オオシアマは苦々しく思うというよりも興味津々で貴子の話を聞いていた。
「貴子は行動力があるな。これが、トリカブトだそうだ」
オオシアマは貴子が持ち帰り、既に乾燥保存されたトリカブトを一同に見せながら言った。
「確かに毒草は薬として服用できるけど、大王に毒草を処方することはないよ。戦か暗殺に使うんだろう。使われる日が来るかどうかはわからないけどな」
「オオシアマは大津宮の動向が不安じゃないの?」
陽一はオオシアマが皆の報告に驚いたりせず、悠長に構えていることが意外だった。
「あんまり心配はしてないね。俺が凡海郷の王位を継いだことは向こうも知ってて、俺たちの出方を注視してるはずだけど、自分たちから何か仕掛けるほど強い意思があるとは思えない」
「そうね……四六時中、ヤマト姫のお世話をして、時々、大王やオオトモ王子がメインの会議でも後ろに控えてたけど、ほとんどが新宮造営や外交の話だった気がするな。オオシアマの話題が出たら、私、記憶してるはずだし」
采女として仕えるようになってからの出来事を思い出してみたが、りらはカヅラキやオオトモやヤマト姫が不穏な言葉を発したことはなかったと断言できた。むしろ、オオシアマという存在などないかのように、政務が進められていたことが気にかかった。
「だろうな。オオトモが太政大臣に任じられてからもう半年以上も経つんだ。子供たちの後見が主な仕事の俺に、いつまでも頼ってる方がおかしいよ。大津宮では、俺は知らぬ間に引退ってわけだ」
「基本的には、オオトモもカヅラキと同じ路線で行くのかな」
竜成の疑問に答えたのはりらだった。
「あくまで私の想像だけど、オオトモはもしかしたらカヅラキを一歩踏み越えるような政策をとるかも。ヤマト姫はね、カヅラキは子供たちのために、今は他国を頼ってでも国力をつけようとしてるんだって言ってた。自分は子供たちの踏み台でも構わないっていう考えみたい」
オオシアマはりらの発言を聞いてしばし考え込んだ。ある意味、オオトモもクサカベやオオツ、そしてその子供たちのようにさらに若い世代が大王になるための中継ぎの役割があった。カヅラキとオオシアマの血を引く特殊な子孫が大王となって初めて、王位継承を安定させるというカヅラキの目論見が達成されるのである。だが、実際にオオトモがどのように舵を切るかは全く不明だ。夫が沈黙を続けていたので、代わりにサララがりらの主張を評した。
「オオトモは父の築いた道を壊したり、逆走することはないと思うわ。でも、父がやらなかったことに手を出す可能性は否定できないわね」
「例えば?」
「凡海郷のオオシアマ王を亡き者にするとかね」
「……ひどい妻だな、お前は」
あからさまに言ってのける妻に呆れつつも、オオシアマも同じことを考えていたので内容は否定できなかった。出雲王国の生き残りで構成される凡海郷を滅ぼすということは、より完全な大和に近づくことになる。オオシアマと後継者のタケチを葬ったとしても、クサカベやオオツが大和の大王になればカヅラキの意思に背いたことにはならないし、オオトモはオオシアマの娘トオチを妃としているため、特殊な濃い血統が絶えるわけではない。なにより、不安要素がなければ大和の大王の地位は安定するのである。
今まで話し合ってきたことは全て仮定に過ぎない。大津宮がオオシアマの力を抑制したがっているという以上のことを考えているとは言えない状況だ。当面はオオトモの政治能力を成長させることが優先されるに違いない。
「それなら、現状維持になるのかな?」
陽一は、クシナダ姫から言われた「オロチの耳飾りの主の敵を排除しなさい」という指示を思い出した。明らかに敵対する勢力が存在するのかと思ったが、そうではないようだ。では、クシナダ姫の指示はどうするのだろう。
すると、オオシアマは陽一の納得していないような表情を読み取って自分の意志を語り始めた。
「昔は、俺の役割は子供たちの後見だって受け入れてた。兄の苦労は知ってるつもりだし、それが凡海郷を守る手段だと思ってた。出雲と大和の両方の血を引く者として、釣り合いを取ることが最善だと思ってたが、今は違う。リラがオロチの耳飾りを持ってやってきて、出雲滅亡の話を聞かせてくれて、俺の役割は何だと自問するようになった。おまけに、クシナダ姫の命まで告げられた。リラはアレオトメしゃないかと思ったよ」
「アレオトメって?」
「神や霊の意向を伝える神聖な乙女のことだよ。出雲の滅亡を語るリラは何か神がかっていたな……ともかく、出雲が支配する中つ国は突然、奪われたことがはっきりした。」
会合が始まってからかなりの時間が経ち、大人たちの難しい話を一生懸命に聞いていたタケチとクサカベが欠伸をし出したため、オオシアマは簡潔に話を終わらせることにした。
「今まで俺の正義は均衡を保つことだった。だが、今日からは違う。後の世にオオシアマは野心を持ったと言われようが構わない。中つ国に出雲を取り戻すこと、タカミムスヒを追い出して中つ国の神を祀ること、俺がその王として中つ国を采配すること、どれも俺の野心なんだろう。……実はカヅラキ大王は最近、体の調子が良くないらしい。タカコとリラの報告は一致してたな。遅かれ早かれ、いずれ大王は病に倒れ、オオトモが玉座につく日がやってくる」
「でも、それを待つ理由はないわ。例え、父と異母弟であっても、あちらの物事が着々と進むのをじっと見守る必要はないもの……一刻も早く中つ国の玉座に出雲の王を据えるべきよ」
サララは大和の血を引くにも関らず、夫以上に夫の意志を強く主張した。
「じゃあ、我々から動くということでいいんだね?」
「ああ、そうだ。今、大津宮は凪の状態だ。造営と百済再興派兵が本格化する前に準備を整えたい。皆は引き続き大津宮での勤務を続けてくれ」
六人は深く頷いた。いよいよイズモが高天原に一矢報いる時がやってくるのだ。
会合の後、わらわらと皆が部屋の外で出てしまうと潤が陽一を呼び止めた。
「お前に朗報だ。女子部屋、わかるよな?」
「ああ」
「明日の夜、美輝は泊まりの仕事で朝まで帰らない。貴子は俺の部屋に来ることになってる。竜成も外出するみたいだし。つまり、桧枝さん一人ってことだよ!」
それは未知の情報だ。りらの休暇があと二日しかないことを考えると、潤の情報はありがたかった。この休暇が終われば、また長期間、りらの顔を見ることはなくなってしまう。
「まぁ、うまくやれよな」
「ありがとう」
陽一は友人の励ましに頷いた。
りらは相変わらず、積極的に陽一に話しかけようとはしなかった。多少の気まずさを抱えながらも、陽一は舎人の仕事が終わった後に例の女子部屋へ向かった。既に邸内は薄暗く、就寝している者も多かった。聞くところによると、この時代の男たちは気になる女性や恋人の部屋には声をかけずに入ってしまうようだったが、さすがにそれは躊躇われた。りらたちの部屋からまだ薄明かりが漏れている。話し声はしない。
「誰かいるの?貴子ちゃん?」
中からりらの問い掛けがあったので、陽一は「あ、長柄だけど、入るよ」と答えた。返事はない。しかし、陽一はこれを承諾と受け止めた。拒否はされていないのだ。
りらがラフな服装で座っている姿がぼんやりとした明かりの中に浮かび上がった。
「どうしたの?」
「あ、いや、廊下を通りかかったからさ……」
我ながら白々しい言い訳だった。陽一は敢えて対面ではなく、自然な感じでりらの隣に座った。
「また、しばらく会えなくなりそうだね」
「……私、こんな特殊な状態だから、長柄くんがいつも気にかけてくれてるって勝手に思い込んでた。でも、そんなわけないよね」
中庭での徒歩打毬の一騒動を目撃して、りらは軽くショックを受けていた。陽一が桜児というかわいい女の子に慕われていたことにではない。りら自身がその光景から視線を逸らしてしまったことにだ。
嫉妬してるんだ、と気づくのにそう時間はかからなかった。そして、いざ目の前に陽一が現れるとおかしいほど息が詰まるような心地がするのだった。
ふいに陽一がりらの肩を引き寄せ、空いている片手でりらの髪をそっと撫でた。イズモで負傷した陽一の看病中に寝てしまったりらの髪に触れた時と同じ、やわらかで艶やかな感触が、陽一の鼓動を速めた。今ではもう、ピアスの穴はすっかり埋まってなくなっていた。
りらは身じろぎせずに、陽一の腕と肩にもたれかかっている。自分を抱きかかえている男の表情を見ようと、りらが顔を上げた時、二人のくちびるが重なり合った。心の中に引っ掛かっていた嫉妬という氷が一瞬にして溶け去り、甘い蜂蜜に絡め取られたような感覚に変わった。時が永遠に止まったようだった。りらは夢を見ているのではないかと、少し体を離した。
「俺と同じ気持ちかな? それだけが知りたい」
りらが身を引いてしまったため、陽一は短い間、恐れと焦りに襲われた。しかし、りらは質問に対して何も言わず、そろそろと指を陽一の手に絡めていった。
それが、りらの答えだった。
爽やかな風が縁側で客人を待つサララの裳裾を揺らめかせた。夫は普段通りに大津宮で政務を行ったり、自由人らしく芸能集団を招いて宴を催したりしている。一見すると出雲復興に向けて、特に動きはないように思われるが必要な手は打っているつもりだった。
「申し上げます。お見えになりました」
トヨハヤの先導に従って、サララの私室に若い女性が現れた。サララがにこやかに迎え入れる。
「すっかり秋ね」
「ええ、過ごしやすくなった。そういえば、こちらに遊びに来るのは初めてよね。遠慮せずにくつろいで」
「ありがとう。で、相談ってなぁに?」
客人は世間話や子供の話をすることなく、早速、本題に言及した。さすが、オオシアマが初めて妻にしただけのことはある、とサララは思った。
「ねぇ、ヌカタ、今から話すことは口外無用よ。あなたの協力が必要なの」
「わかった。約束します」
こういう時、あれこれ聞いてこないさばけた性格のヌカタが、サララは好きだった。夫のかつての妻だが、ともすると自分よりもドライなヌカタは女友達として付き合いやすかった。
サララはオオシアマが自ら王として、この国を統べる意志があり、そう遠くはない日に実行に移すであろうことをヌカタに告げた。
「なぜ私にそんな危険な話を…… 私はもう大津宮の人間よ。大王を愛しているわけではないけど、娘が日嗣の御子の妃なのよ」
何事にも動じないヌカタでさえ、サララの告白は青天の霹靂だった。
「だからこそ来てもらったんじゃない。おそらくオオシアマは挙兵すると思う。でも、あなたは立場上、大津宮を離れられないでしょう。トオチはオオトモの妃、あなたはトオチの母」
「あなたとオオシアマは、カヅラキとオオトモの敵になるのね。板挟みになるトオチをどうしろと?」
「トオチはとてもオオトモを慕っているわね。まだ、男女の仲でなくても……」
「最近、あの娘は母親の私の言うことよりもオオトモの言うことを受け入れたり、擁護したりするようになってきたわ。オオトモに敵対するなら父親でも憎いと思うでしょうね」
「仕方ないわね。だって、私も父親でなく夫と一緒の運命を選んでいるんだから」
「サララ、私にできることはトオチの身を守ることだけよ。たぶん、事が起こったらオオトモはトオチや私を安全な場所に避難させるはず――」
「それで十分よ。トオチは出雲の血を受け継ぐ大切な娘だから、何があっても守ってほしいの」
出雲の血、という言葉にヌカタははっと顔を上げ、サララを見つめた。
「あなた、知ってたの? 私が出雲と関わりがあるって」
ヌカタが驚いたのも無理はない。表向きヌカタはカガミ王という王族の娘ということになっていた。しかし、ヌカタは出雲の意宇に拠点を持つ豪族の娘でオオシアマの母タカラ大王が息子の最初の妻にと選び与えたのだ。もちろん、ヌカタが出雲の娘と知ってのことである。
「私をなめないでね。あなたがただの才女でないことはわかってるんだから」
サララが冗談めかして言うと、ヌカタも顔をほころばせた。
「私は私でやるべきことをやるわ。出雲のために立ち上がるんでしょう?」
「ええ、出雲の正義よ」
「……オオシアマが大王になる日が来るかもしれないなんて夢にも思わなかった」
ため息をつきながらヌカタが感想を漏らすと、サララは少し真面目な顔に戻って答えた。
「彼は大王にはならないんじゃないかしら」
「え?」
ヌカタは意味がわからずに怪訝な顔をした。サララが続ける。
「だって、大王は大和の称号よ。出雲の王が大和と同じ称号を使うと思う?」
「なるほど……」
「オオシアマは自分に相応しい称号を考えるはずよ」
「楽しみね。……サララ様が新しい王の妃になっても、私と娘をよろしくお願い申し上げます」
ヌカタは改まって手をついてお辞儀をした。サララはけじめをつけてくるヌカタのこういう態度も好ましく思っていた。
「もちろんよ。オオシアマに惚れた女同士、仲良くやっていきましょう」
ある意味、恋敵に対してなんだかおかしな言葉だと思いつつも、サララがヌカタを信頼しているのは事実だったし、ヌカタもまた、オオシアマの正妃であるサララを羨ましく思うことはあるけれども支援を惜しむつもりはなかった。少なくとも、二人ともオオシアマの他の妻たちより気が合うのであった。
しばらく自宅に戻れてないな、子供たちは元気だろうか。まぁ、サララがいるから平気か……などと、オオシアマは大津宮の執務室の机に積み上げられた書類をぼんやりと見つめながら考えていた。このところ、政務が溜まりに溜まってこの有り様だ。本来なら御史大夫や大臣らが処理するような仕事がオオシアマに回ってきているのだ。新宮造営と百済対応にかかりきりという証拠である。
夜食がほしい時間だ。舎人を呼んで、何か食べ物を運んでくるよう頼み、オオシアマは廊下に出た。サララがいれば肩でも揉んでくれるのだが……
座りっぱなしなのも辛いので、少しの間、オオシアマは廊下を歩き回ることにした。まだ仕事をしているのか、内裏の政務庁は所々、明かりがついていた。そろそろ引き返そうと思った時、薄暗い廊下に人影が現れた。 その人影はオオシアマに気付き、恭しくひざまづいて挨拶をしてきた。
「大人じゃないか。こんな遅い時間までいたのか」
カヅラキの信任厚い御史大夫の一人、紀大人だった。
「恥ずかしながら、なかなか昼間には終わらせられないくらいの仕事がございまして」
「お前も真面目な奴だな。しかし、かなり無理してるんじゃないのか?やつれたように見えるぞ」
紀氏は代々、武門に優れた家柄で大人も体格が良い。それに、大人は他の重臣よりも若く、普段からちょっとのことでは疲れを感じさせない男なのだが、どう見ても疲労困憊といった感じである。オオシアマは大人を自分の執務室に連れていき、夜食と酒を振る舞った。
「なぁ、大人。何か悩み事でもあるんじゃないか?」
世間話などが一段落ついたところで、オオシアマは尋ねた。大人は話すのをためらっているように見えたが、やがて口を開いた。
「ご明察の通り、心を痛めていることがございます。私事にて、申し上げて良いものか……」
「気にするな。有能なお前の悩みが続くと、大王の政務に差し障るだろ。俺に何かできるかもしれないから話してくれよ」
「はい、では……私には麻呂という12歳の息子がおります。元気で手におえないくらいの子供ですが、今は一月以上も原因不明の病で臥せっているのです」
詳しく聞くと、麻呂は自宅近くの野原で遊んでいた時に突然倒れ、発熱や痙攣が続いたり、意味のわからない言葉を発したり、とにかくどうにも手の施しようがない状態だという。薬湯くらいしか口にしないため、だんだん痩せ細り、このままでは消えてしまいそうだと大人は言った。そろそろ成人に近づく大事な長男を失うことは、大人にとって身を切られるような苦しみに違いない。同じ年頃の息子がいるオオシアマは大人の心痛がよく理解できた。
「麻呂は今どこに?」
「平群の自宅におります。妻が看病しているのですが、妻も憔悴しているようで……」
「わかった。平群なら吉野と近いから好都合だ」
「吉野、ですか?」
「ああ」
オオシアマは急いで二つの伝言をしたためると、舎人に渡し、私邸にいる舎人に持っていくよう指示した。ここでの舎人はいわば公設秘書のようなもので、プライベートな依頼や指示は自分自身の舎人、つまりチトコやヒロなどに言い渡さなければならないのだ。チトコかヒロはオオシアマの伝言を受け取った後、すぐに大津を発って吉野へ向かうだろう。そして、オオシアマのもう一つの伝言を吉野に住むある人物に手渡しするはずだ。
「麻呂のことはあまり心配するな、大人。じきに病は癒えるだろうから。お前こそちゃんと休めよ」
「ありがとうございます。一体、吉野のどちらに連絡を取ったのですか?」
「役小角という者を知ってるか?山に籠って厳しい修行をしててな、徳のある男だ。人々の苦しみや邪悪な気を払うことができる」
小角は葛城山の麓で生まれ育ったが、両親は出雲出身の賀茂氏で、祭祀や陰陽道や呪禁を担っている氏族であった。秘めた力を持つ修行者が吉野にいるということは、おぼろ気ながら大人も知っていた。
「小角は孔雀明王の真言や陀羅尼を修得してるから、お前の息子の病も消滅させてくれるだろう」
実は大人は、霊験を信じていないのではないが、公の外にいる修行者を恃むことに幾ばくかの抵抗があった。しかし、オオシアマが信頼しているということは当てにしても良いということだろう。
「オオシアマ様はその小角とお知り合いなのですか?」
「10年くらい経つかな。サララを妃に迎えて、二人で吉野に遊びに行ったことがあったんだ。その時に偶然、謎の修行者に会って、それが小角というわけさ。何しろ俺たちはまだ若くて政務に本格的に関わるには早かったし、あの頃は今よりずっと気ままに出歩いてたからな。吉野で小角から学んだことは大きいと思ってる」
オオシアマは懐かしそうに語った。そのうち、未来から来た若者たちを吉野に連れていき、小角と引き合わせたいものだ。
「長々と引き留めて悪かった。よく休んで、しっかりと大王をお支えしてくれ」
「はい、そのつもりでございます」
大人は深々と礼をしてオオシアマの御前を退出した。
五日ほど後、オオシアマの執務室に飛び込むようにやって来た者がいた。大人である。オオシアマは人払いをさせて、大人を招き入れた。
「良い知らせか?」
オオシアマはまだ大人が何も言う前から微笑んでいた。
「は、はい。今朝、妻から手紙が届き、息子が、すっかり、回復した、と――」
途切れ途切れになっているのは、声をつまらせているからだ。大人は最後まで言うことなく泣き出してしまった。滅多に感情を表に出さず冷静沈着な大人が男泣きを見せるほど、麻呂の病回復は奇跡といっても過言ではなかった。
あの日、深夜であったが、オオシアマの伝言を受け取ったヒロは即座に馬を走らせ、吉野に向かった。小角は突然の使者に驚いたようだったが、オオシアマの頼みを一読すると、「何とかお救いしましょう。オオシアマ様には、安心召されよとお伝え願う」と言葉少なにヒロに告げた。小角はその足で麻呂の待つ平群の紀邸へ急いだのだった。
大人は落ち着きを取り戻すと、文字通りひれ伏してオオシアマに言いつのった。
「この御恩は生涯忘れません。また、我が不祥の息子もオオシアマ様にお仕えしたいと申しております。私と息子は本日よりオオシアマ様の忠実な臣下として、身を賭してもお仕えいたします」
大人の予想外の態度に、オオシアマは面食らってしまった。自分は気軽な思いで、子を持つ父親に手を差し伸べただけのつもりだったが、大人にとってはオオシアマはもはや大王の弟ではなく、紀家の恩人なのであった。
「そう畏まるな。俺は単に苦しんでいる臣下を助けたかっただけなんだから。これでまた憂いなく大王を補佐できるな」
しかし、大人はこれまでお役目第一に大王に奉仕してきたが、今や忠誠の対象はカヅラキではなくオオシアマとなっていた。大人は真っ直ぐオオシアマを見つめた。
「恐れながら、私はオオシアマ様に身を賭してもお仕えすると申し上げました。どうか、この言葉の真意を御察しくださいますよう――」
執務室に軽い緊張が走った。オオシアマは大人の大王への裏切りと覚悟を感じ取った。
「承知した。今まで通り、大津宮で格別な働きをするよう」
「かしこまりました」
こうして、紀麻呂の一件により図らずも御史大夫の一人がオオシアマの懐に入り、その意志を大きく前進させる事となるのであった。
黄金の稲穂の季節が終わり、過ごしやすい日々が続いていた。大津宮では病気がちなカヅラキを慰め元気づけようと、しばしば舞の宴や琵琶湖に船を浮かべる宴などが催され、何となく仕事を真面目にしようという雰囲気が薄れていた。
雅楽寮や後宮は大忙しであったが、タフな美輝は舞の練習をこなした後、オオシアマ邸に戻って仲間たちの会話に加わることも忘れなかった。私邸で見聞きしたことは、ヤマト姫の采女として宮を離れることができないりらに紙にメモをして伝える役目も買って出た。宴が頻繁に行われるので、雅楽寮の職員が大王たちの采女や舎人と顔を合わせたり、すれ違ったりすることはいくらでもあった。
ある夜、チトコが陽一たちに重要な会合を開くと告げた。もちろん主催はオオシアマである。潤はオオトモに頼んで正午から日暮れまで自由時間をもらうことに成功した。嘘も方便というやつで、どうしても蒲生に住んでいる恋人に会いたいと訴えると、「それなら早く言ってくれたらよかったのに」と快諾してくれた。もちろん蒲生に恋人などいない。
りらにとって、ヤマト姫が弱っているカヅラキの傍を離れようとせず看病に忙しいため、外出することは無理な話だった。ついこの前、陽一に抱かれて心地よい時間を共にしたのが夢のように思われた。陽一がりらの勤務先によく通っていたのが、自分に会いに来ていたからだとわかった時は、恥ずかしさで顔が火照った。「鈍感すぎだよ」と陽一はりらの頬を軽くつねりながら言ったのだった。りらは正直言って、早くヤマト姫の采女を辞めて私邸に戻りたいと思っていた。
采女は大王の私有物なのだ。そして、たとえ妃に仕えていても大王の目に留まれば妻になる可能性がある。カヅラキの腹心であった鎌足が、皆の憧れの的であったある采女をカヅラキから直接賜り、歓喜の歌を詠んだことがあるくらい、采女の存在は神聖である。陽一がりらに会いに来ることはできないし、万が一、二人の関係が露呈したら少なくとも陽一は死を賜ることになるだろう。そういう危険な恋に身を焦がすことは遠慮したかった。
例によって、執務室の周辺は人払いをしてある。オオシアマが会合の趣旨を言った。
「今日は戦い方を考えたい。もちろん、大和の大王に勝つためだ」
初めに発言したのはなんと美輝だった。
「カヅラキは今、病気なんだからチャンスなんじゃないの? それに、潤に頼んでオオトモを暗殺してもらえば? そしたら、多くの人が巻き込まれることはないでしょ?」
いきなり爆弾発言である。潤は相変わらず頭の回らない、という中途半端な平和主義の恋人に呆れてしまった。潤に代わって陽一がオオシアマの意図を汲んで説明する。
「確かに、暗殺は手っ取り早いよ。だけど、それじゃあ、誰の仕業かは隠されてしまうよね。意味ないんだ。オオシアマは出雲を復活させて王になろうとしてる。これは天下に知れ渡らないといけないし、今まで大和の大王に仕えていた人々をも納得させなきゃいけない。だろ?」
「ご明察。俺は正面から大和に戦いを挑むつもりだ。カル大王は兄を使って蘇我を暗殺したけど、結局長くは続かなかった。力がなかったからだよ。俺は新しい国を作るために軍事力をもって戦う」
よくわからないようなわかったような顔の美輝は、ふぅんとつぶやいた。
「オオシアマの軍って、あるの? 私、屋敷の門にいる衛兵くらいしか見たことないんだけど」
さすがに貴子はよく見ている。しかも、どうやって軍を集めるかという問題は今回の戦いを左右する本質的なものだ。兵力をどこから持ってくるかについては、サララが見込みを話してくれた。
「タカコが言うとおり、私たちには常備の兵力はないわ。各地で徴兵して訓練を施さないと戦えない。これは大津宮でも同じ条件よ。だから彼らより早く多くの兵力を押さえないといけないわね。幸い、オオシアマには湯沐邑があるし、出雲や海人族を通じて動員できるはずよ」
「ヨウイチ、この前、作ってくれた地図を皆に見せてくれないか」
何枚も継ぎ足して大きくした紙が、中央に広げられた。そこには九州から関東地方あたりまでの日本が筆で描かれていた。陽一の力作である。
「じゃあ、遠方から考えようか。まずは大宰府。栗隈王には中立を保ってもらう。それから吉備国宰の当麻広嶋も中立だな」
「そんな遠くから兵を集めなくても何とかなるってこと?」
「それもあるし、大津宮が筑紫と吉備で募兵できないようにするためでもあるよ。当然、出雲はこちら側につくことになる。オオクニヌシの末裔は凡海郷にいるけど、出雲には杵築大社を守る人々が生きてるからな」
出雲との連絡は凡海郷のアラカマとハルネ兄妹を通じてすれば良い。次にオオシアマは地図上の若狭湾東部に指を進めた。この辺りから北陸は越と呼ばれる地域であり、かつてはオオクニヌシの妃のヌナカワヒメが女王として君臨していた土地だ。
「越には羽田矢国っていうオオド大王の子孫がいる、というか今はカヅラキ大王の元で近江の将軍として仕えてるんだが、いざという時は俺の配下に移ることになってる」
つまり、近江の軍勢は号令一つでオオシアマの兵力に転換されてしまうということだ。これで若狭湾沿岸と近江の北部を押さえることができる。
近江を包囲していくとすれば、飛鳥はどうするのだろう。潤が尋ねると、突然、執務室に二人の男が入ってきた。
「待ってたぞ。ちょうど飛鳥や東国の話をするとこなんだ」
一人の男は見覚えがあった。夏の博打大会に招待されていた大伴吹負という豪族だ。
「おや、また会いましたね。ここにいるということは、あなた方は重要人物というわけですな」
吹負は一人一人の顔をよく見ながら、空いている場所に腰を下ろした。もう一人の男は少しばかり若く、ヒロやチトコのような見た目であったので、オオシアマの舎人だということがわかった。
「久しぶりですね、王子。あ、もう王子ではないですね。いやー、あまりに放置されすぎて俺のこと忘れてしまったかと思いましたよ」
「馬鹿言うなよ。定期的に飛鳥に遣いをやってただろ」
「そうでした、そうでした。あれ、いいんですか? 美しい宮人なんか侍らせてサララ様がお怒りになりますよ」
どうやらこの男は軽口が得意な陽気な人物のようだ。
「オヨリ、まぁ座れよ。彼らは仲間だ。そういえば、タカコは美濃出身だな。オヨリは各務評の出で、今は飛鳥の俺の邸宅を管理してくれてる武芸に秀でた舎人だ」
「お褒めに預かり光栄の至り。それに、美しい郎女と共に戦えるとはなおさら光栄だ」
初対面のオヨリのために簡単に自己紹介をすると、一同は再び地図に視線を落とした。
「飛鳥の兵力確保はお任せください。留守司の官人らを味方に引き入れるのです。宮が大津に移り、また蒲生に遷都となれば彼らは宮から離れた、日陰の存在となってしまいます。現に、不満を漏らしている者も少なくありません」
吹負の言葉に、陽一は木工寮の先輩である智麻呂が飛鳥の地を懐かしがっていたのを思い出した。それに……と、吹負が付け加えた。
「飛鳥には三輪高市麻呂や賀茂蝦夷などもいますからね」
吹負が言及した両氏は、実はオオクニヌシの血を引く豪族であった。古くから飛鳥、大和の地において大王に仕えてきたが、元はと言えば出雲が故郷なのだ。
「飛鳥の豪族は動いてくれそうか?」
「もちろん。内密に調整していますよ。私と兄は本件に集中したいので、近々、病ということにして大津宮を退去しようと思います」
吹負の自宅は飛鳥の磐余の池の付近にあり、そちらにいた方が都合が良いのである。オオシアマは頼んだぞと吹負に声をかけると、地図の上をコツコツと叩いた。琵琶湖の東側、すなわち東国と呼ばれる地域であった。
「いよいよ、戦いを左右する地域の兵力だ」
大まかに言って、三重県、岐阜県、愛知県以東が東国という概念で、三重県名張市に足を踏み入れると、飛鳥や大津のような大王が住む土地とは別世界なのである。
「俺の作戦の肝は、東国を手中に収めることだ。ヨウイチ、もう一枚の地図を出してくれ」
今度は日本が見渡せる地図ではなく、琵琶湖から愛知県西部あたりを拡大した紙が広げられた。奇妙なことに、愛知県西部の一部が欠けている。濃尾平野の桑名、大垣、熱田区を結んだ部分がないのだ。
「何これ、愛知県ってこんな形してた?」
美輝ですら気づくほどの描かれ方だった。
「この時代は大垣の近くまで海だったらしいんだ。あはちまの海って呼ばれてる。で、海岸付近にオオシアマの私有地があるんだよ」
後に陽一が調べてわかったことだが、かつてあはちまの海であった21世紀の土地には、海津市、津島市、あま市という海に関する地名が存在する。あま市を漢字表記すると海部市となる。
「俺の湯沐邑は安八磨評と鈴鹿評にある。つまり、東国は俺の裏庭ってわけだな」
東国の拡大図を見ながら、潤は安八磨と鈴鹿の地形がある作戦行動に適していることに気がついた。どちらも山脈の外側にあり、幅が狭くなっているのだ。
「確か、安八磨の西は関ケ原だよな」
「せきがはら…… あぁ、その辺りは不破だよ」
「不破か。ここにも鈴鹿にも関所があるんじゃないのか?」
潤は自衛隊の戦史教育課程の中で関ケ原の戦いが取り上げられた時のことを、おぼろげながら覚えていた。戦いそのものの内容は忘れてしまったが、教官がついでに関所の話をしていて、それは面白いと思ったのだ。




