第7章 <2>
「その通りだ。ジュンの時代にも不破と鈴鹿に関所があるのか?」
「たぶん、跡地として残ってるだけじゃないかな。俺たちの時代は、国内なら出入り自由だから関所は必要ないんだよ」
俺たちの時代、という言葉に、吹負とオヨリが怪訝な顔をしている。オオシアマは未来からの旅人を、実は仙人みたいなもので後の世からやってきた者たちだと説明した。現代の若者からすると、余計に混乱するのではないかと思うが、吹負もオヨリも「やはりオオシアマ様は仙界にも力を発揮できるお方なのだ」と納得したようであった。
とどのつまり、鈴鹿と不破を封鎖してしまえば大津宮は東国で兵を集めることが不可能になり、越と飛鳥もオオシアマ軍で溢れることになるため、行き場がなくなるのであった。念のために若狭湾と伊勢湾に水軍を配置すれば大津宮の軍勢はまず出入りが不可能になる。
「質問していいかな? 私、あんまり軍事はわからなくて……」
貴子が遠慮がちに言った。
「何だ?」
オオシアマは笑顔で素人の質問を促した。
「戦いを始めるとしたら、東国を拠点にするのよね? そしたら、私たち、大津を離れることになるの? 足や食べ物はどうするの?」
オオシアマが答える前に、オヨリが口を開いた。
「黒部郎女は賢い! しかし、心配はご無用です。もう一人、オギミっていう美濃出身の舎人が飛鳥にいるんですがね、俺とそいつで湯沐邑にちょくちょく調整に行ってますから、入用なものは揃いますよ」
いつの間にか、貴子はオヨリに黒部郎女などと呼ばれている。潤はオヨリをブラックリストに入れた。もちろん彼女に寄り付く悪い虫という意味だ。
「皆には申し訳ないけど、その時が来たら大津宮を離れてもらう。頃合いを見計らって、まず、吉野に引き上げて兵力を充実させようと思う。どうだろう?」
オオシアマは最も信頼する同志であるサララを見た。美しい妃は夫を真っ直ぐ見つめ力強く頷いた。
しかし、現代の若者たちはなぜか竜成を除いてきょとんとしている。
「吉野って、どこ?」
「え、仙界から来たのに吉野を知らないんですか」
オヨリは意味がわからないといった風に言った。
「まぁまぁ、俺の蘊蓄を聞いてくれよ。吉野はここにある」
竜成は地図の飛鳥から少し南下した場所を指さした。
「吉野は山で、仙界に近いと言われてるらしい。吉野川沿いに宮が建てられてるから、住むこともできる。それに吉野には役小角ってすごい修行者がいるんだよ」
「竜成、何でそんなに詳しいんだよ。行ったことあるのか?」
「いや、シュナが前に吉野は素晴らしいって力説しててさぁ」
「シュナと仲良くしてるみたいで良かった。確かに、俳優や謡女たちを連れて吉野に遊びに行ったことがあったな」
「楽しかったわね。また皆を連れていきたいわ」
「そうだな、ひと仕事済ませたらな」
ここの人間が口をそろえて良いところだという吉野には、期待が高まる。なぜオオシアマが吉野に下ろうと考えているかというと、大津宮から遠く離れている山里で密かに挙兵の準備をするのに好都合だからである。それに、竜成がシュナから教えられた通り、吉野一帯がパワースポットだということも大いに関係する。紀大人の息子の命を救った役小角が現在の拠点にしていることも心強い。短期にしろ長期にしろ、出雲再興の牙城として籠るには相応しい場所と言えよう。
しかし、東国封鎖には一つ重大な問題が発生する。オオシアマはそのことで頭を悩ませていた。
「ちょっと皆の知恵を貸してほしいんだが…… 鈴鹿関と不破関を封鎖することはそれほど難しいことではないと思う。けど、その前にどうやって東国の兵を集めて訓練させるかが問題なんだよ」
「そうですね、訓練には数か月かかりますし、勝手に多数の人夫を集めて何かを行わせたら目立つというか、すぐに大津宮に報告されてしまうでしょうね」
この時ばかりは、オヨリも真面目な顔で言った。
「大津宮に気づかれずに徴兵、訓練する方法かぁ……」
「東国を封鎖してしまえば、その後、行動しても大丈夫なんじゃないの?」
「そうはいかないんだ。もし明日から東国を封鎖するとしよう。すると大津宮も異変を知って日頃訓練されている精鋭部隊をすぐに差し向けてくるだろう。同時に各地で募兵や訓練が始まる。とすると、条件はこちらに不利になってしまうってことだ」
精鋭部隊というのは潤が勤務していた左右兵衛府などの武官たちのことだ。態勢が整わないうちに、少数でも将兵が派遣されてしまえばオオシアマ軍はあっけなく追いつめられるに違いない。もし塞ぎ切れても、その後、募兵をして訓練をするということは大津宮と同じ条件になってしまうのである。これでは勝利できるかはなはだ心もとない。
「じゃあ、その土地の偉い人に協力してもらって、訓練してることは黙っておいてもらったら?」
「たとえそれができても、東国には大津宮の役人なんかが仕事でしょっちゅう出入りしてるから無理だね」
「琵琶湖北部には羽田矢国がいて、飛鳥には吹負がいるでしょ。この兵力はもともと大和のものなのよね。それがある時、こっちの軍として動けるようになる…… 東国も同じようにできないのかな」
地図とにらめっこしながら貴子が言う。しばらく、執務室はお手上げの雰囲気が漂い悲しげな沈黙が続いた。
兵力を秘密裏に集めて訓練するというのは、規模が大きすぎて逆立ちしても不可能だ。そう、それなら堂々と実行することはできないか――
「あのさ、ちょっと思いついたことがあるんだ。大津宮にあって不審がられずに東国で徴兵指示ができる人物がいると思う……」
陽一は地図から顔を上げて、眉間にしわを寄せているオオシアマの目を見た。
薄明りの中、サララは客人の前に酒を置き、自ら夫と客人の杯に酒を注いだ。客人、紀大人はひたすら恐縮している。大人がオオシアマ邸に呼ばれたのは、作戦会議から数日後のことだった。
「多忙な中、来てもらって悪いな。麻呂はその後どうだ?」
「はい、お陰様で元通りやんちゃが過ぎて困るほどです。しかし、病回復からオオシアマ様にお仕えしたいと、日夜勉学にも励むようになりました」
「そうか。あと五年もすれば俺の新しい国を支えてくれる若者の一人になるな。楽しみだ。ところで、折り入って頼みがある。いや、命を下すということかもしれないが……」
大人は居住まいを正して平伏した。オオシアマの命ならどんなことでも喜んで受けるつもりだった。
「何なりと」
「時期はまだわからないが、ある時、大王もしくはオオトモに東国での人集めと武装化を進言してほしい。俺の存在が危険だ、美濃や伊勢の湯沐邑に圧力をかけた方がいいとか何とか適当な口実をつけて。赤兄や金なら二つ返事で賛同するだろうな」
「承知いたしました。しかし、これはどういうわけなのですか?」
大人が首をかしげるのももっともだ。自分の首を絞めるような指示なのだから。ここで、後ろに控えていた陽一が大人に一礼をして、自分がオオシアマに提案した作戦を述べた。
「私はオオシアマ様の舎人の長柄陽一という者です。こちらは同じく舎人で新羅の帰化人、鄭竜成という者。以後お見知りおきください。早速ですが、この作戦はオオシアマ軍が勝利するために最も有効な手段なのです。大津宮で疑いを抱かれずに東国の武装化を指示することができるのは、御史大夫しかいません。その武装化した農民たちは、しかるべき時に、そっくりそのままオオシアマ軍の配下に組み入れることになります」
「つまり、途中から指揮権が大津宮からオオシアマ様に変わると……」
「その通りです、御史大夫」
「時期は、俺が東国を封鎖しろと命じた時だ。封鎖するその時まで、大津宮の監督の下で東国の兵士たちは訓練が完了していなければならない。だからこの作戦を実行するにはある程度、時間がかかる」
「今、カヅラキ大王は病で臥せっていることが多く、いつ何が起きるかわからない状態です。本人もオオトモ王子も気を揉んでいることでしょう」
作戦会議では、ヤマト姫とオオトモに近侍しているりらと潤に情報収集してこちらに伝えるよう指示があった。伝達の仕方は、後宮に出入りしやすい美輝を通じてやりとりする。それだけでなく、紀大人からの情報も頼ることができた。他にもオオシアマに通じている臣下は何人もいる。カヅラキの健康状態の変化や大津宮の微妙な動向の察知が死活的なのだった。
まずは吉野に下るタイミングを考えなければ。今のところ、病が篤くなりつつある大王のために、吉野で仏道修行に励みたいという口実を使うのが一番もっともらしいのではないかと思われた。
読書に熱中しているクサカベが、大きなくしゃみをした。そろそろ部屋に火を入れた方がいいかしらなどと考えていると、サララの元に客人が間もなく到着するという知らせが入った。誰だろう、あらかじめ連絡を寄越さないなんて、何か緊急なことでもあったのか。
サララは少し気を引き締めて、女官に問うた。
「で、どなたの訪問なの?」
「オサカベ王子でございます。数名の舎人を連れてお一人で……」
訪問者の名前を聞いて、サララは拍子抜けしてしまった。オサカベはクサカベと同じ年のオオシアマの息子である。当然、母親はサララではなく、別の妻だ。
「何かあったの?」
「いえ、それがただオオシアマ様にお会いになるためにお越しのようです」
要するに、オサカベは父の本拠地に遊びに来たということだった。
オサカベたちが到着し、しばらくしてから客間に移動すると、オサカベが行儀よく座っており、サララに礼をした。
「突然の参上にて、失礼いたしました。皆様のお顔をしばらく見ていなかったので、ご挨拶に参りました」
オサカベは少し緊張した様子だったが淀みなく述べた。それに対しサララが返答する前に、クサカベが言った。
「前もって連絡がなかったから、母上が驚いておられるよ」
するとオサカベは心底申し訳なさそうに小声で謝った。だが、クサカベはオサカベに気まずい思いをさせるつもりはなかった。むしろ逆である。クサカベは母親が同じことを言って、本気でオサカベを恐縮させないためにサララよりも先に声をかけたのだ。クサカベはサララがオサカベの母親カジメをあまり好いていないことをなんとなく理解していた。
「久しぶりだね、オサカベ! 僕は最近、体が強くなってきたから剣の稽古をしてるよ。君はどうしてたの? ねぇ、母さん、外で遊んできていいでしょ?」
クサカベはいつになくうきうきしているように見えた。
「いいけど、もうすぐ父様がお帰りだから少しだけにしなさいね」
「はい!」
「失礼いたします」
オサカベはサララに丁寧に頭を下げると、クサカベの後に続いた。この二人の仲が良いのはオサカベがおっとりした素直な性格だからであろう。
母親のカジメものんびりしているような印象だ。オオシアマの個性的な妻の中では、とりわけ平凡で取り柄と言ったものがなかったが、それが彼女の強みでもあった。
オオシアマはサララと大喧嘩をすると、必ずといっていいほど、宇陀にあるカジメの実家、宍人邸に行き、彼女と一夜を過ごすのだ。
要するに、カジメは個性が強くない代わりに、何事にも控えめで夫に癒しを与える存在であった。既に息子が二人、娘が一人いるということが何よりの証拠だ。正妃のサララとの間にはクサカベしか生まれていない。現時点でオオシアマには九人の子がいたから、そのうちの三人ももうけ育てているカジメは、やはりサララにとっては良い感情を抱くことができなかった。オオシアマが最も愛しているのは自分において他はないと信じていたし、カジメに非がないことは頭ではわかっていても、心にさざ波が立つのは抑えられないのである。
オサカベが遊びに来たということで、タケチも勉強を中断して仲間に加わったようだ。楽しそうな笑い声やいたずらをたしなめる女官の声が聞こえる。そうこうしているうちに、彼らの父が大津宮から戻ってきた。
「お久しぶりです、父上」
「そうだな、忙しくてなかなか宇陀に足を運ぶ時間がなくて、悪いな。皆は元気にしてるか?」
「はい。じじ様もばば様もつつがなく、母上も変わりありません。僕は手習いが上手くなりました。あ、そうだ、あれを渡さなきゃ…… 祢麻呂!」
オサカベは何か思い出したように、伴の舎人を呼んだ。祢麻呂と呼ばれた精悍な若い舎人は小さな主人に封がされた紙を手渡した。
「父上、これは母上からのお手紙です」
「ああ、ありがとう」
オオシアマは受けとると、一瞥しただけですぐに懐にしまってしまった。サララはそれを子供たちや自分の前では開けないような妻からの恋文なのだと思い、嫉妬心が沸き起こった。居心地が悪くなり、大人気ないと思いつつ、サララは客間から出ていった。
その夜、子供たちは三人一緒の部屋で寝ることになり、随分賑やかだったのでトヨハヤに早く寝てくださいと叱られていた。
サララは落ち着かない気分で自分の寝所に入ったが、オオシアマからこっちに来いと呼ばれ、別室にいる夫の元へ赴いた。
「珍しく私を御召しなのね」
サララの言葉には嫌味が含まれていた。
「今日はおかしいぞ、サララ。オサカベが来て、不機嫌なのか」
図星を指されて、サララは黙るしかなかった。どうやら妻はオサカベを通じて、カジメのことが気になるようだ。オオシアマはやれやれと苦笑し、昼間、オサカベから預かった手紙をサララに見せた。
「君は勘違いしてるみたいだけど、恋文の類いではないぞ」
サララは手紙を黙読し、内容が色気の欠片もない軍事的なものであることがわかると溜め息をついた。
「私、馬鹿みたいね。今はそんな時期じゃないことはわかってるのに、嫉妬しちゃったわ……」
手紙には、オオシアマからの指示に対する回答が書かれていた。実はオオシアマはカジメの実家に以下のことを指示していた。近々、大量の食糧を継続して必要とする事態が発生するので、食糧の収集と備蓄をしてほしい。運搬手段も用意すること、云々。つまり、宍人氏に食糧に関する兵站を担わせたのだ。
「これから冬になって活動できなくなる前に、食糧を確保すべきだと思ってね。連絡をやりとりするにも、オサカベが遊びに来たということにすれば怪しまれないだろ?」
妻の機嫌が直ったと見るや、オオシアマはサララを抱き締めた。
「お願いだから、オサカベも可愛がってやってくれよ。俺はどの子も、全て君から生まれたものだと思ってるんだ」
「あら、そんなこと初めて聞いたわ」
「君は近い将来、大和の大王の弟の妃ではなくて、出雲の王の妃になる身だよ。君なしでは出雲の復活は成り立たない。だから、他の妻や子供たちのことで悩んだり気を悪くしたりしないでくれよ。俺と君の間では、そんなことは些細なことだよ。いいね?」
なんだか上手くはぐらかされてしまったような気がしたけれど、オオシアマの甘いささやきと口づけに降参してしまったサララであった。
数日おきに、大津宮からオオシアマの元へカヅラキの病状の詳細が報告されてくる。あまり食事が喉を通らないらしく、お粥などのやわらかい食事が増えていると書かれていた。内薬司に勤める貴子によれば、カヅラキは胃腸を患っているとのことだ。
そしてヤマト姫に仕えているりらは、最近よくヤマト姫がオオトモを呼び出し、カヅラキに代わってあれこれと政務の指示を出していることを知った。
カヅラキは何とか気力で大王としての威厳を保とうと、医師の反対にもかかわらず執務室に入り、左右大臣らからの報告を受けていた。しかし、長い間、座して話を聞くのもしんどいようで、正午に報告を聞くだけで、その後、自ら考え臣下に指示を与えることまではできない状態である。そこで、また床に戻って時間をかけて報告を飲みこみ、傍らに控えているヤマト姫に自分の考えをぼそぼそと伝えていくのであった。
まるでヤマト姫が大王みたいだなぁ、とりらは感じた。だいぶ政務に慣れてきたとはいえ、ヤマト姫の前ではオオトモは説教される子供のように思われた。そもそもオオトモはりらたちよりも若く、言ってみれば、大学卒業後に就職したばかりの新人くん同然なのだ。
この前は、オオトモにとって初めて大きな仏事が内裏で行われた。百体の大仏の開眼供養という大王の回復祈願も兼ねた行事で、大津宮はいつになく僧尼の姿と新しい仏像がせわしなく行き交っていた。同時に、様々な珍宝を飛鳥寺の仏に奉ることになっていたのだが、結局、オオトモの代理ではなくカヅラキ大王自らが指示して遣いを送ることになった。まだまだ全てをオオトモに託すというわけにはいかないと思ったのだろう。
以前に比べると、オオシアマが政務に関与する機会は減っていたものの、大津宮には出入りしており、子供たちの様子を伺ったりしていた。ある時、オオツとオオクと他愛もない会話をしていると、オオトモがやってきた。
「叔父上、このところゆっくりお話することがなくなりましたね」
「そうだな。大王の健康状態が厳しいと聞いてるが……」
「呪禁師や僧侶を集めてはいるのですが、なかなか効果が見られません。それより、大王を見舞っていただけないでしょうか。俺はまだ太政大臣としても未熟だし、叔父上が顔を見せたら大王も安心されると思います」
オオトモの真意はわからないが、対面が制限され、隔離されているカヅラキの様子を直接見ることができそうだ。
「大王が承諾されるなら、見舞いに行こう。俺も仏道を頼って、大王の回復をお祈りするつもりだ」
「それは良いですね。本当は俺も神仏に祈りたいところですが、政務から離れることがなかなかできなくて……」
オオトモが残念そうに言うので、オオシアマはさらにダメ押しした。
「そう言えば、吉野には立派な修業者が住んでいるというな。俺が吉野に行って、修業者たちに大王快気を祈らせるというのはどうだ」
「心強いですね。ぜひ、そうしてください。吉野は聖域だから、祈りも強められると思います。ヤマト姫も付きっ切りで看病されていて、倒れてしまわれないか心配なんですよ」
それから、オオトモとは外交問題について少しばかり話し合った。オオシアマは唐とは同盟するなという考えであったが、カヅラキもオオトモも唐の力を頼ろうとしていた。それでも、無条件で同盟国となるわけにはいかないという防波堤を築こうとはしているようだった。ところが、唐は何も言わずに同盟しろと、こちらと言い分を受け付けないらしい。ともかくもっと粘れ、とオオシアマは言うに留めた。
オオトモは別れ際に、四、五日以内に大王の見舞いに行けるよう伺いを立てておくとオオシアマに告げた。自宅に帰ると、早速、オヨリやヒロに吉野行きの準備を指示し、私邸の整理や解雇せざるを得ない舎人や女官たちの再就職先を手配させた。
二日経っても、大津宮から大王への見舞いの許可の連絡は来なかった。多忙なのか、大王が拒否しているのか、もどかしい時間が過ぎていった。
ところが、三日目の夜、正門の方で馬の嘶きと慌ただしい人の出入りの音が聞こえるや否や、「オオシアマ様、大事でございます!」とチトコが執務室に飛び込んできた。
「どうした。随分騒がしいな」
「そ、それが、大王が吐血して倒れられたと……!!」
青天の霹靂とはこのことだ。その先に続く展開を想像して、オオシアマは血の気が引いた。吉野に下り、余裕を持って挙兵準備をすることがもはや不可能になってしまうのではないか。
しかし、チトコが「ご意識はしっかりなさっているようですので、薬師が安定薬を施しているとのこと」と続けたので、オオシアマは別の意味で安堵した。とはいえ、大王が倒れたと知らせが届いてからその夜は、そわそわとして落ち着くことができなかった。
翌朝、大津宮から遣いがあり、大王自らがオオシアマを病床に呼んでいるとのことだった。オオシアマは、細心の注意を払って大王との面会に臨むことを決意した。
カヅラキの寝所は薬や香の匂いが混じって、なんとも言えない雰囲気が漂っている。ヤマト姫とオオトモがカヅラキの傍らに座っていた。大王の枕元には真新しい上質の紙が掲げられている。
――天の原振り放け見れば大王の御寿 は長く天足らしたり
ヤマト姫による回復の祈りをこめた一首である。
「倒れられたと聞いて、俺の心の臓が縮まった気がしましたよ」
「情けない話だが、体が思うように動かなくなってしまった。また何事か起きる前に、お前に伝えておく。何よりも、お前に協力してきてもらった大王家の安定的な継承方法を守り、若年、幼年の大王候補者たちの庇護を頼みたい。まぁ、今までやってきてもらっていることではあるから言うまでのことではないが…… 要するにだ、私亡き後はオオトモが大王として一人前になったと認められるまで補佐してくれということだ」
考えてみれば都合の良いお願いではなかろうか。権力の安定のためという目的は理解できるし、オオシアマが出雲を復興させた暁にも権力の安定は最重要課題となるが、一度中枢から遠ざけた者に再び頼ろうとすることはそれこそ基軸がふらついているという証拠だ。
大津宮では、経験においてカヅラキと互角なのはオオシアマ以外存在しない。しかし、オオシアマが大和の大王に選ばれる可能性はゼロだ。なぜなら、オオシアマは大和が攻め滅ぼした出雲の王だからである。その後継となるであろうタケチもまた大和の大王たりえない。オオクニヌシの子孫は永久に大和の人質なのであった。
大きく深呼吸するとオオシアマは前々から考えていた戦線布告を告げた。
「兄さん、俺はここでの自分の役目はもう終わったと思ってる。ずっと、考えてきたことなんだ。オオトモの教育や子供たちの後見に相応しい人物が大津宮にいるじゃないか」
「どういうことだ?」
オオシアマはこの部屋にいる唯一の女性を見やった。
「ヤマトか……」
カヅラキは唸り、オオトモは不安げに成り行きを見守っている。突然、名前が挙がったヤマト姫は、わずかに眉を動かしただけだ。
「大后ほど大王に近く、御心を理解し、政務を支えてきた方はいないでしょう。それに、オオツもオオクもトオチも皆、この宮でヤマト姫の情け深い心によって育てられているんですよ。事後を託すべき人物は俺ではありません。諸政は引き続きオオトモに行わせてください。良い勉強になりますから」
オオシアマはひと息に言った。明らかにカヅラキは動揺していた。しかし、弟の言い分は理にかなっており、馬鹿なこと、と一蹴するわけにはいかない内容であった。オオトモと子供たちの後見を、オオシアマに任せなければならない絶対的な理由があるわけではなかった。
「では、お前はどうするというのだ?」
「今日をもって、仏道修行の身になろうと思います。大王の病回復と大津宮の安寧を仏にお祈りして暮らしますよ」
予想外の返答に、カヅラキはしばらく二の句を継ぐことができなかった。オオシアマが仏道修行だと……! 火照って朦朧とし始めている頭を必死に動かし、カヅラキは弟の真意を読みとろうとした。衝撃を受けている父を見て、オオトモが叔父を引き止めようとした。
「出家するなんて、どうかしてます。吉野行きをお願いしたのは、一時的だと思ったから――」
「いや、事後はヤマトに託そう。オオシアマ、お前は好きな道を行け」
大王の許しを得たオオシアマは、撤回される前に素早く立って一礼をすると内裏の仏殿に向かった。
突然、オオシアマが仏殿に現れ、僧侶たちは慌てふためいた。しかも、どういうわけか今すぐに法体になりたいと言っている。仏の道とは如何なるものかをとくとくと説教してくる僧侶たちに痺れを切らして、オオシアマは「俺は真剣だ! 誰も手を貸さないなら、自分でやるぞ」と一喝した。しぶしぶ僧侶たちがオオシアマに従い、剃髪の儀を行った。カヅラキから急ぎ送られた袈裟を纏うと、すっかり僧侶の姿に変わった。
そのまま宮を退出し、舎人たちに二日後に吉野へ出立するから準備をするよう命じた。また、仏の道には武器は無用と、自宅に保有していた弓矢やなど全て、大津宮へ運ばせ返納した。
「いよいよね…… こんな風に父と弟に反旗を返す日が来るなんて想像しなかった」
サララはまだ見慣れぬ修行僧姿の夫の手をとってしみじみと言った。
「今ならまだ夫を敵にしてもいいんだぜ?」
「オオシアマのいじわる!」
サララは大袈裟にむくれてみせた。そんな両親を見て、クサカベはふふと微笑んだ。クサカベの隣にはしばらく滞在していたオサカベの姿があり、彼もまた吉野に同行することになっている。しかし、兄弟が全員集まり吉野へ下るわけではなかった。
タケチは別行動を取るように命じられている。行き先は凡海郷である。戦が始まるまでの数ヶ月、凡海郷で見聞を広めてこいということであった。
タケチは凡海郷の次期王となるはずだが、もしオオシアマが大和に勝利すれば凡海郷の王は存在する意味を失い、一人の王に統合されてしまうことになる。だから、タケチもクサカベもオオツも等しくオオシアマの後継者としてスタート地点に立っていると言っていい。
王になるかならないかはさておき、オオシアマは長男のタケチを旅に出すことにした。吉野で万が一のことがあった場合を想定して隔離するという意図もある。
「明日からしばらく、父さんや母さんと離れて知らない土地で過ごすことになるけど、お前ならがんばれるよな?」
「はい。僕はずっと大津にいたからちょっと別の場所にも行ってみたかったんだ。タツナリも一緒だから寂しくないよ」
「僕はタケチ兄さんがいなくてつまらないよ」
クサカベはできることなら自分も凡海郷とやらに行って冒険をしたかった。父さんは吉野でも面白いことがたくさんあるって言ってたけど…… でも、オオツとオオクは吉野にも来られないんだからかわいそうだな。どうして、一緒に連れていかないんだろう。
子供心にも、クサカベはオオツとオオクが自分たちと異なる扱いを受けていることを気にしていた。
「さて、そろそろ行くか」
タケチに別れを告げ、オオシアマは妻と二人の息子と共に、大津宮に赴いた。一人で再びカヅラキの元へ参上し、これから吉野へ向けて出立することを報告した。
「あちらから定期的に近況を伝えます。まずは大王の病平癒祈願に専念するつもりです」
「お前が剃髪して袈裟を着るとはな…… 未だに信じられんが」
「本当に宮の子供たちは連れていかなくていいのかしら?」
そう口では言っているものの、ヤマト姫はオオクとオオツを孫のように可愛がっていたので、オオシアマが連れ出すつもりがなさそうなことに内心喜んでいた。
「俺の子供はたくさんいるから同じ場所で育たなくていいんですよ、大后。その方が独自の視点が身に着くと思いますから」
では、と静かに微笑むと、オオシアマはカヅラキとヤマト姫の前から姿を消した。その足で、別室に向かう。途中、後宮に勤めているりらに出くわした。
「オオシアマ! まさかほんとにお坊さんになっちゃったんだ」
「そうだよ。以前の俺じゃないぜ」
「どうせまた元のオオシアマに戻るんでしょ」
「さぁ、それはどうかな」
意味深な言葉をつぶやいて、オオシアマは行き先が同じだったりらと共にある部屋に入った。「父さん!」と中にいた男の子が驚きと喜びが混ざった声を上げた。別人のような姿の父に戸惑いを隠せないようだが、オオクもオオツも駆け寄り、オオシアマに抱きついた。やっぱり迎えに来てくれたんだ!
「話は聞いてるな?」
「はい」
「私たちも一緒に吉野へ行くのよね?」
オオクのすがるような瞳がオオシアマの心を突き刺した。今、彼らを迎えに来たわけではないのだ。慎重にそのことを告げたのだが、一瞬にして子供たちはうつむいてしまった。
「お前たちを見捨てるわけじゃないよ。離れ離れになるのはほんの少しの間だけだ。約束する。絶対に迎えを遣るし、それに…… 父さんはこれから戦をするんだ」
「戦……? どうして? 僕、知らなかった」
「今はまだわからなくていい。だけど、お前たちを迎えに来て、一緒に戦をする。父さんが絶対に勝つ。そうしたらもう別の家で暮らすことはないんだ。だから少しだけ待っててくれ」
「ほんとに? クサカベやタケチの兄さんたちは僕たちを仲間はずれにしないかなぁ」
「一緒に遊ぶのを楽しみにしてるよ。クサカベの母さんもお前たちのことが大好きなんだぞ。それに、この采女も仲間だからな」
この采女というのは、もちろんりらのことである。子供たちはひとまず父の言葉を信じることにした。後で色々、采女に聞いてみよう。
オオシアマは子供たちに、父がこの部屋に来たことも今まで話したことも全て誰にも言ってはいけないと注意した。戦の話をしていい相手は大津宮ではりらだけだということも付け足した。こうしてオオシアマは一抹の不安を残しながらも、出発の準備を整えて待っているサララたちの元へ急いだ。
南門には既に馬が並べられていた。私邸で働いていた舎人や女官たちは先に出発している。意外なことに、南門で待機している一行の中には左右大臣と御史大夫の一人、蘇我果安も交じっていた。
「私どもも宇治までお見送りいたします」とのことであったが、監視の意味合いも多分にあるだろう。だが、挙兵のその瞬間まで大人しくしているつもりだったオオシアマにとって、大臣らの目など気になるものではなかった。
秋晴れの下、オオシアマとその家族、重臣たちは大津宮を後にした。すぐに標高300m程度の山を越えると山科に出る。そこから宇治川にかかる宇治橋までは目と鼻の先くらいの距離であり、小一時間もすれば到着した。大臣らはここで引き返すという。
「またお目にかかる日まで息災でお過ごしください」
左大臣が形式的に挨拶をし、オオシアマも「大王を頼む」と答えた。ここからは完全に大津宮の連中はいなくなる。カヅラキの腹心たちは、オオシアマの姿が見えなくなるまで宇治川の辺で見送った。
「虎に翼をつけて野に放つようなものだな……」
大きなため息とともに、ある者が言った。
嶋宮という飛鳥の南に建てられた離宮に到着したのは夕刻のことであった。既に篝火がなければあたりの様子が見えないような暗さとなっていた。なかなかの広さで、趣向を凝らした人工池が複数作られ、珍しい鳥や色とりどりの魚が飼われていたが、今はゆっくりと眺める余裕はない。
「母さん、面白い鳥がいるね。僕、動物好きだからここに住みたいよ。大きい池もあるし、うちにいた亀の子供を連れてくれば良かったな」
寝所に案内される時に、廊下から庭を見たクサカベが興味深そうに言った。だが、ササラは特に歩みを緩めるでもなく、「じゃあ、大きくなったら住むといいわ」と適当にあしらって進んでいった。今日ばかりは、明日からの吉野入りのことで頭がいっぱいで、息子の会話に付き合っていられなかった。
翌朝、再び馬に乗り飛鳥を南下すると、清流吉野川に行きついた。川沿いに進むにつれ、人の気配も民家も少なくなり、静寂な山と川の音が聞こえるばかりとなった。燃えるような紅葉とエメラルドグリーン色の川と透き通る青い空に包まれた吉野の宮は、政治色を帯びた大津宮とはまるで別世界の宮殿である。
「ここは昔と変わらないな」
「ええ。ほっとするわね」
新婚時代にこっそり吉野に遊びに来て過ごした日々を、オオシアマもサララも鮮明に覚えていた。何の政治的制約もなく、最も自由を謳歌していた時期だった。
一日前に到着していた舎人や女官たちのおかげで、吉野宮は整えられ、物資も暖を取るための薪もふんだんに蓄えられていた。オオシアマは遥々、大津から吉野宮へやってきた舎人たちを正殿に集めて、労いの言葉をかけた。
「俺はこれからこの地で仏道修行に勤めるが、一緒に仏に仕えようと思う者は留まってほしい。だが、他の道もある。大王に仕えて名を成そうと思う者は、遠慮なく大津へ引き返して役所に戻ってくれ」
誰も何も言わなかった。おそらく迷っている者はたくさんいるだろう。オオシアマはよく考えろと言って、再び日が落ちた後に同じことを述べた。すると、半分の者が退去を申し出た。彼らは家族を大津に残してきていたり、病がちだったりする者であった。オオシアマとしては、宮の最低限の管理ができる人数と作戦のための側近たちさえいれば問題ないと考えていたので、むしろ留まることを選んだ舎人が半分もいたことに驚いた。
オオシアマが大津宮を去ってからというもの、左右大臣は疑心に駆られていた。あの男が大人しく大王の病気平癒と国家安寧のために仏道修行に励むわけがない。
なぜ大王がやすやすと弟の吉野行きを許してしまったのか、理解し難かった。
カヅラキはこのところ小康状態を保っていて、頭が冴えているうちにとヤマト姫やオオトモに政務の報告をさせ、指示を与えている。オオシアマが去ってしまった以上、未熟な息子を支えられるのは妻しかいなかった。
ある日、カヅラキは五人の重臣たちを呼び集めた。
「今のところ我が弟は、私のために真剣に仏に仕えているようだ。お蔭ですこぶる調子が良い。しかし、将来どうなるかはわからない。諸君も知っての通り、オオシアマは大変頭のキレる男だ。武勇にも秀でている。おまけに、出雲の王位を継承している……」
「タケチ様を凡海郷にお送りしましたね。オオシアマ様はその年頃、大和に引き取られましたが」
「つまり、オオシアマ様は人質でありましたが、タケチ様はもはや大和の人質たりえない、ということですな」
赤兄と金は不安を共有していた。続けてカヅラキが言う。
「あれの母親は宗像の娘だ。もし、オオトモの後継者がオオツでもクサカベでもなくタケチとなったら、大和の特殊な血統から外れてしまう。さらに、タケチが出雲の血を引く娘を正妃に迎えたとしたら――」
「大和は大和でなくなってしまいますぞ」
それは大王にとっても重臣にとっても恐怖であった。
オオトモは潤との会話を思い出し、息苦しくなった。不安材料のオオシアマの存在を消すしか完全に安心する方法がないようだ。あぁ、これが権力につきものの後継争いと正統性確保の闘いなのだ。カヅラキは意識的に安定と強固な権力を目指して努力してきたが、そんなカヅラキの目論見も空前の灯火となりつつあった。大津宮側からすれば、オオシアマが後継者候補の後見を放棄したことは裏切り以外の何物でもなかった。
「さて、そこでだ」
カヅラキは五人の重臣とオオトモを見回した。
「私の詔を述べる。私亡き後、大后に万事を任せ、時宜叶えばオオトモを即位させよ。また、オオシアマを討伐せよ」
「ははっ」
詔を承った六人は恭しく頭を下げた。ただ紀大人のみ、従順な仮面を被っている。
オオトモは憧れていた若き叔父との戦いが不可避となってしまい、絶望の淵に立たされた。次期大王としての責任を逃れることができない今、オオトモに許されたことは己の心を堅く閉ざし、権力を見据えることだけであった。
それから慌ただしくひと月が過ぎた。
潤はオオトモが次第に寡黙になり、一人で思い詰めたように部屋に閉じこもりがちなことに気づいた。父の病が改善されないからかと考えたが、それだけではないようだった。
「なぁ、ジュンは尊敬する人と戦わなければならなくなったら、どうする?」
その質問で、潤はオオトモの抱えている苦悩の発端を理解した。いずれ、オオシアマと軍事的に対立する日がやってくるということだ。
「私が諏訪の国にいた頃、剣の道の師匠がいました。私はこの人を尊敬していますが、勝負から逃げたいと思わないし、尊敬するからには勝ちたいと思っていますよ。ただ、その師匠はもう黄泉の国に旅立ってしまいましたけど」
それは潤の本音だった。オオトモが想定するような命がけの勝負ではないが、尊敬する相手が失われたからといって、彼の強さや正しさまでもが自分の精神から消えてしまうとは思わない。
オオトモは神妙に舎人の話を聞いていた。まだ気持ちの整理はつけられないようだが、潤と話をしてから後は、もう何かを一人で抱えて押し黙ってしまうことはなくなった。
とうとうカヅラキは機械のネジが壊れてしまったかのごとく、床から動くことができなくなった。食事を摂取できないのでもはや動く力を出すことができないのだ。一日中、目を閉じて寝ていることも多くなった。
11月23日、オオトモは内裏西殿の仏像の前に座っていた。日に何度も父の病床を見舞うが、精力的に活動していた頃の面影は全く見えず、父は別人なのではと疑うくらいにやせ細っていた。どんな手を使おうとも、父が回復し今まで通り大王として君臨する日が来ることはないだろうということは目に見えてわかった。
五人の重臣が揃って西殿にやって来た。オオトモは香炉を手に取り、その場に立ち上がった。そして、仏像の目をしっかりと見つめながら、誓いの言葉を述べた。
「我々の心は一つ、大王の詔を承り実行に移すべし。背く者あれば、必ずや天罰を受けるべし」
次に左大臣の蘇我赤兄がオオトモから香炉を受け取り、同じように誓った。
「我々臣下五人も、大王の詔を謹んで承ります。この誓いに背けば、四天王がその者を打ち砕き、天地の神々の罰が下るでしょう。三十三天におかれましても、この誓いをしっかりとお聞きください」
最後に、重臣の中で最も若い紀大人が偽りの誓いを述べ終わると、香炉は再びオオトモの手に戻った。ここで、オオトモと重臣らは近い将来におけるオオシアマの武力による打倒を神仏に誓い合った。
西殿は宗教的な空間であった。仏像の周りの壁には仏の守護者たる四天王や三十三天の姿などが刺繍で施されたタペストリーが所狭しと掲げられている。仏を守るため重厚に武装した軍神たちが、誓い合うオオトモたちを大きく見開いた目で見下ろしていた。
さらに、11月29日、大王が目を覚ました隙に、急いで重臣らはオオトモを奉じて大王の御前に侍り、西殿で誓った言葉を繰り返した。カヅラキは頭を動かさずに目で息子や重臣たちの言動を追った。
「それで良い。安心した」
と、カヅラキはつぶやくと再び深い眠りについた。
やけに寒いなと思って外を見ると、粉雪が舞っている。りらはヤマト姫の私室の火鉢にくべる炭を継ぎ足すことにした。大津宮に出仕した時はまだ残暑が厳しく、早く現代に戻って練乳をたっぷりかけたイチゴ味のかき氷が食べたいと毎日のように思っていたものだった。今はフリース素材の部屋着とオニオングラタンスープが恋しかった。
りらはヤマト姫からいただいた毛皮の羽織りものを着た。蝦夷のミツキで何十枚もあるらしく、無地の毛織物なども近くに侍っている采女たちに下されるのだ。これは高級官吏と同じような破格の待遇と言ってよかった。
部屋が暖まってきた頃、りらの女主人が戻ってきた。静かに涙を流している。それでりらは、あぁ、とうとう大王がお亡くなりになったのだと悟った。12月3日の昼過ぎのことだった。
「皆よくお聞きなさい」
目尻に溜まった涙を人差し指でそっと拭い、ヤマト姫はいつものように背筋を伸ばして采女や舎人に言った。
「先ほど、天の下を知ろしめす大王がお隠れあそばしました」
ヤマト姫の知らせを聞いて、覚悟はしていたものの何人かのすすり泣きが聞こえてきた。やはり近くで長く仕えていると、喪失感が沸き起こるのは避けがたい。
「大津宮は悲しみに包まれますが、普段通りにお勤めなさい。それがカヅラキ大王への何よりの弔いになります。いずれ、宮の外に大王崩御の知らせが広まるでしょうが、それまでは静かにお過ごしなさい。これから殯の宮を設営しますから、皆も協力して事を進めるように」
この時のヤマト姫は痛々しいほどに気丈に振る舞っているように、りらには見えた。単に夫を亡くした妻ではなく、そのか細い中年女性は、国家を支えなければならない立場の人間として何か大きなものを一身に背負わざるを得なかったのだ。
翌日、ヤマト姫は喪服のまま正殿において称制を執ることを告げ、承認された。大和国の大王は不在となり、ヤマト姫が事実上の最高権力者となった。オオトモは引き続き太政大臣の地位にあった。
「陵墓は山科に、大きく立派なものを造るのです。人と時間を惜しんではなりません。しばらく新宮造営は中断してかまいません」
ヤマト姫はオオトモに指示を出した。オオトモがなぜ近江に葬らないのかと問うと、山科にはカヅラキの盟友の縁の地だからだと答えが返ってきた。
「父上らしいですね。死してなお鎌足と語り合いたいってことですか……」
オオトモは、何かにつけて「おーい、鎌足はいるか?」と腹心の男を呼びつけていた父親の姿を思い出し、微笑ましく思った。また涙が出てくる。妻よりも鎌足を優先していた父親だった。




