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オペレーションくしなだ  作者: 木葉
オロチの耳飾り、再び
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第6章 <3>

 随分と若いんだな、と初めてオオトモを見た潤は思った。そしてまだあまり慣れていないのか緊張した面持ちが見て取れる。長官である左兵衛督さひょうえのかみの指示に従って動いている感じだ。オオトモは端から端までゆっくりと馬を歩ませ、自分を護衛してくれる兵衛たちを眺めていった。

 この後、隊列は分かれ、弓と乗馬の展示が行われた。剣の試合もある。宮や大王たちの警護ということで潤は少し侮っていたが、各地方の体力に自信のある選りすぐりの若者で構成されているだけあって、兵衛府の実力は軍団に勝るとも劣らぬレベルに達していた。それでも近代的な方法で自衛隊で教育訓練を受けてきた潤は兵衛の中でも目立つ存在だった。

 全ての展示が終わり、再び整列する。オオトモは列の前に進み出て、訓示を述べた。

「諸君、すばらしい技の披露、ご苦労であった。私は非常に満足している。万が一のことがあった時、私が最初にそして最後に頼れるのは諸君の力である。今後も武芸に励み、私と私の家族、大津宮をいかなる危険からも守ってほしい。来月の打毬の会を楽しみにしているぞ」

 浜辺はしんと静まり返り、湖の波音が規則的に響いているばかりだった。オオトモはカヅラキ大王の代理として観閲を仰せつかっていたのだが、既に大王の立場を意識していることがわかる訓示と態度だ。若くたどたどしい部分もあるけれども、責任感と誠実さを兼ね備えた雰囲気が印象的であった。

 観閲の数日後、打毬の会の選抜組が発表され、思いがけず潤はリストに自分の名前を発見した。実は弓の展示の際にミスをしてしまったので、自分が選ばれるとは思っていなかった。剣道の経験から剣はそこそこできるし、乗馬もイズモでの練習のおかげでこちらの世界の武官の名に恥じない程度に乗りこなせたが、弓はどうも苦手だ。弓の腕前は貴子の方が断然上だろう。だがまぁ、打毬は乗馬の技術がものを言うので潤にもチャンスがあったということか。

 その日、下番の際に同僚と共に番長に報告を上げていた潤は幹部の一人に呼ばれた。

「どうかされましたか、少志しょうさかん殿」

「打毬の騎手に選ばれたのは君も知っての通りだが、恐れ多くもオオトモ様が君のことをお気に召されてね。直々にお会いしたいとのことだよ」

「は……?」

 気に入ったって、何がだろう。部下の怪訝な顔に気づかず、少志は自分が名誉を受けたかのように興奮して話を続ける。

「いや、実に光栄なことじゃないか。左兵衛督もお喜びだ、なんたって右兵衛府でお声がかかった者はいないからな。そういうわけで、明日は詰所に寄らずに、正殿に上がるように。左兵衛督が付き添ってくださる。くれぐれも粗相のないようにな」

 だから一体なぜオオトモが俺を呼ぶことになったのかおしえてくれよ……。肝心なことを言わずに、少志は上機嫌のまま立ち去ってしまった。

 このところオオトモは言いようのない不安に悩まされていた。今年の初めに太政大臣に任じられてからというものの、父や叔父それに大臣らの教えを学び、執政の勉強をしてきたつもりだ。しかし、何かが足りないと思う。父も叔父も偉大すぎるのだ。敗北したとはいえ、二人とも大戦をくぐり抜け、様々な制度を整備し、役人たちを動かしている。知識においては大臣や御史大夫にはとうてい及ばない。彼らだってお飾りの役職ではないのだ。

 だからこそ誰にも負けないように執政の勉強や武芸に励んでいるのだが、オオトモは決定的に自分に欠けているものが何か最近気がついた。

「俺には心を開いて話し合える友がいないんだ」

 自分が早くから次期大王として周りから大切に細心の注意を払って扱われてきたことはわかっている。どこに行くにも付き人がついてきて世話をしてくれるし、教師はその道を極めている百済の帰化人だし、文句を言ったら罰が当たる。それにもかかわらず、彼らはオオトモにとって距離のある臣下でしかなく、友人ではなかった。

 父カヅラキには二年前に死去してしまったが、秀才の中臣鎌足という腹心の部下がいた。鎌足は自ら積極的に何かを成し遂げることはなかったが、カヅラキの意を正確に汲み取り、調整能力に長けていた。叔父のオオシアマは昔から自由人で、あまり身分というものを気にせずいつもそばに友人のような舎人たちを置いている。それだけでなく、各地に連絡がとれる強い絆で結ばれた王族や国司らもいる。正妃でさえ子供の頃から知っている戦友のような女性である。オオトモの正妻はオオシアマの娘だがまだ幼く、難しい政治の話や自分の心の内を打ち明けられるような年齢ではない。

「オオトモ様、左兵衛督らが到着いたしました」

 舎人が左兵衛督と潤を御前に案内した。オオトモが仰々しい挨拶を制して、左兵衛督に告げた。

「君たちには本当に感謝しているよ。本来ならばジュンを鍛えて左兵衛府の要に育て上げてもらいたいと思うのだが、しばらくジュンを預からせてほしい」

「承知いたしております。私どもの兵衛を日嗣の御子のお傍に置いていただけるなど名誉なことです」

 上司の後ろに控えて頭を下げて二人の会話を聞いていた潤は、自分がオオトモに気に入られたために兵衛から雑用係の舎人に引き立てられたのだということを察した。ここでオオトモは左兵衛督に退出を促し、部屋にはオオトモと潤の二人だけとなった。

「悪かったな、突然、職務から引き離してしまって」

「いえ、私のような者に目をかけていただいて光栄です」

「来月の蝦夷饗応が終わるまでは左兵衛で勤務してもらおうと思う。その後は、舎人として俺の補佐をしてほしい」

「……わかりました。ところで、なぜ私を?」

 疑問に思っていたことを直接、オオトモに尋ねる。オオトモは先日の観閲の中で、特に剣や乗馬に優れているとは思われないが、全てにおいて無駄のない洗練された動きの兵衛がいることに気づき、興味を持ったのだった。左兵衛督にその兵衛について尋ねると、諏訪出身の新人だという。潤としては適当に左兵衛府で勤務している方が気楽なのだが、この急な人事異動は大津宮の中枢を見られる絶好の機会である。

 この日から潤は通常勤務の後に、よくオオトモに呼ばれるようになった。雑用や武芸の相手をするだけでなく、何ということはない雑談や遊びに付き合わされることも多かった。主人に近侍する舎人とはそういうものなのだ。

「ジュン、お前大変だよなぁ。下番したらすぐにまた仕事だもんなぁ」

 当初、ヘッドハンティングされた潤を羨ましがっていた左兵衛府の同僚たちであったが、朝から晩まで働きづめの潤を見て、今では同情の念に変わっている。しかし、意外と面白い仕事であることも確かだった。

 政務に同席して記録を取る役目も与えられているので、様々な役所の長官の報告を聞くことができる。民官長たみのつかさのかみは今年は大和の支配領域が少し北上したことや天候が安定していたことから税収が上がる見込みだと言っていた。また、理官長おさむるつかさのかみが内裏で行う仏事に関する相談にやってきたこともあった。大王なども参加する政務の場で、オオシアマと鉢合わせた時にはなるべく目を合わせないようにして他人のふりをしなければならなかった。オオシアマにはヒロを通じて事情を伝えてあったので、オオシアマも甥の近くに侍っている新しい舎人などにわざわざ関心を示すことはなかった。

 ある日の午後、オオトモは突然泳ぎたいと言い出し、潤のみを連れて琵琶湖へ出かけることにした。

「暑いなぁ」

「もう八月ですからね」

「このところ執務室に籠りっぱなしでおかしくなりそうだったよ。法官大輔のりのつかさおおきすけはいい奴だけど、仕事熱心すぎて集中すると休みなしだからね」

沙宅さたく殿ですか? 確かに真面目そうな方だ」

 法官というのは人事などを司る役所で、最近は夏の考課でお祭り騒ぎのような忙しさである。オオトモの舎人になってから潤は多くの役所の長官が亡命百済人が当てられていることを知った。沙宅紹明しょうみょうもその一人で、毎日のようにオオトモに人事の報告を上げに来ている。他にも医学や軍事に関することが特に亡命百済人に任されていた。

 適当な浜辺を見つけて馬を下り、オオトモと潤は早速、湖に飛び込んだ。透き通った水が火照った体を冷やしていく。

「なぁ、ジュン。可婁かるが言ってたこと、どう思う?」

 二度三度、潜っていたオオトモが先日、大陸に帰っていった高麗の高官による援助の申し出について尋ねてきた。

「正直言って、今の我が国には百済だけでなく高麗の再興まで支援する国力はありませんよ。大王が導入された庚午年籍の運用を軌道に乗せることを優先させたらいいんじゃないですか。それに、執政の勉強をされるなら国が落ち着いているうちが最善だと思いますよ」

 この頃、潤は遠慮なくオオトモに物申している。それはオオトモが単なる雑用係の舎人ではなく、意見を言い合える部下の役目を潤に求めているということがわかったからだ。

「驚いた。君は叔父上と同じことを言うんだなぁ」

 潤の発言は、オオトモを動揺させた。外交に関して、父と叔父との見解が合わず、父は今では叔父に意見を求めることがなくなっていたことをオオトモは知っている。それだけでなく、祭祀や朝政や地方支配のあり方など国政の重要点についても父と叔父の意見の相違が顕著であることもオオトモの悩みの一つであった。やはり叔父は大和の人間になりきれていないのか。

「俺は時々、叔父上が王位を継ぐべきだと思うことがある」

「何言ってるんですか」

「いや、聞いてくれ。……俺は叔父上に憧れてる。そんなに年も違わないのに、外国を恐れず、国内でも多くの部下をとりこにして、あんなに堂々と振る舞ってるじゃないか。父上だって俺より若いうちから苦労してきた。叔父上はそんな父上と互角の力を持ってる。俺が即位しても、この二人を凌ぐことはできないだろう。それどころか比較されるに決まってる。俺は叔父上に憧れてるけど、嫉妬もしてるし、何よりも怖いと思うんだ」

「怖い……?」

「叔父上の潜在的な力だよ。俺はカヅラキ大王の後継者として、やり方をそのまま引き継ぐことになる。だけど、その時、オオシアマが黙ってるっていう保証はないよな」

「杞憂ですよ。オオトモ様の力がどのくらいかなんて、今決めつけることではないと思いますよ」

 潤は主人の気を休めるためにそう言ったが、オオトモが意外とオオシアマとの関係を憂慮し、あるいは警戒していることがわかったのは収穫だった。

 王位とは関係なく気の赴くままに暮らしているようなオオシアマと、子供の頃から次期大王として制約の元に育てられてきたオオトモとは真逆の境遇にある。オオトモはずっと次期大王というプレッシャーを受けながら生きてきた。オオトモの孤独は成長するにつれて深まっていき、頼りにしてきた兄のような叔父が、王位の重さと責任を考えるにつれ脅威となって迫ってくるというのは悪夢に等しい。

「この前、左大臣が今のうちに叔父上の力を削いでおくべきだと進言してきた。右大臣は蝦夷討伐の将にするか、何か理由をつけて配流するのが賢いとまで言ってきたよ」

「……それは大王も同じお考えなのでしょうか?」

「暗に警戒しろとは言ってる」

 大津宮の上層部はオオシアマの出自を知っており、凡海郷のトヨカネ王が薨去し、その後をオオシアマが継いだことも当然把握していた。その頃から、カヅラキ周辺はオオシアマと距離を取り、警戒心を強めている。

「俺は大臣らに言ってやったんだ。叔父上を近江から遠ざけたとしても、目の届かないところに叔父上を追いやるだけで意味がないってね。こんなこと言いたくないけど、もし本当に叔父上の力を無力化したいのなら……その存在そのものを――」

「消せということですね」

 オオトモのためらいがちな言葉を、潤は臆することなく引き継いだ。しばらくの沈黙の後、オオトモは再び水の中に潜り、岸に向かって泳いでいった。

「もう戻ろう」

 泳いでさっぱりしたような、まだ気持ちのもやもやが晴れないようなどちらともつかない表情を、若い日嗣の御子は見せていた。


 軒下は大きく開け放たれ、時折入り込む風が寝ている子供たちの髪や頬を優しく撫でていった。

 やっぱり子供はかわいいなぁ。先ほどまで大津宮の後宮は運動会のような騒ぎで、宮人たちは誰もが心の中でこのクソガキども!などと思っていたが、お昼寝の時間になったとたんクソガキたちは天使に変身するのだ。

片手で団扇をゆっくり動かしつつ、りらもアエの隣に横になりうたた寝をしていた。

「君の名前は…… 悪いな、もう一度おしえてくれ」

「桧枝りら、です」

 夢の中でオオシアマとの会話が再現されていた。初めてオオシアマと対面した日の夜、廊下ですれ違った時に声を掛けられたのだ。それからぼんやりと次の場面に変わった。出仕することになる前日の夜、オオシアマは博打大会の合間にりらを中庭に連れて行った。

「俺は君がイズモを旅したことを信じてるよ。この世には不思議なことが山ほどあるからね」

「不思議なこと……?」

「朝になると太陽が昇って、夜には沈む。雨が降り、雷が鳴る。大地が揺れる、星が空を流れる」

「そういうことね。自然はあなたたちには不思議なことなんだね」

「おまけに魚は水に深く潜るし、鳥は羽ばたく。人だって飛べるんだぜ。天を操ることもね」

「え、それどういうこと? オオシアマはそんなの見たことあるの?」

 オオシアマは「まぁね」と空を見上げた。超高層ビルもなければ深夜まで煌々と光る明かりもない古代の空は煙たいくらいに星が輝いていた。

「俺もサララも子供の時から星を見るのが好きだった」

 オオシアマは何かを空に探しているように視線を動かしている。

「あの赤い星、見えるか?」

 南の空の下方を指したオオシアマの指先の延長をたどっていくと、確かに大きな赤い星が光っていた。さそり座の一等星アンタレスのことだったが、オオシアマは竜のしっぽの一部だと言った。

「俺、あの赤い星が好きなんだ。天空を飛翔する竜の情熱を表してるんだって、サララが教えてくれた。サララが言うと、そうかもしれないって思えてくるから不思議だよ」

 イズモでコトシロヌシを失ったりらは、オオシアマの惚気に面食らったが、この夫婦には分かちがたい絆があるのだということを認識するのには十分だった。

「なんか羨ましいなぁ。私もいつか星の話をする相手に巡り合えるのかな、なんてね」

 りらが小さく笑うと、オオシアマは真剣な顔つきになり、「じゃあ占ってやるよ」と袖口から何かを取り出した。竹串のようなもので、昔、テレビで見たことのあるような中国の占いっぽいのかなとりらは考えた。

「いつもそんなの持ってるの? あなたって、何か、面白いよね」

「そう言われるのは心外だなぁ。俺、真剣なんだぜ。まぁ、今日たまたま博打大会があったから筮竹ぜいちくを持ち歩いてただけなんだけど」

 そう言うとオオシアマはしばらく占いに集中して黙ってしまった。竹串を両手でさばいていく様子を見ても、りらにはどんな手順なのかどういう意味があるのかなどさっぱりわからない。作業が終わり、オオシアマはりらに笑顔を見せた。

「陽と陰がきれいな組み合わせだ。きっと、君に相応しい男がいるんだろうね」

「だといいけど!」

 りらはそれほど占いにこだわることはなかったが、良い結果のものはありがたく信じることにしていた。そういえば、八重垣神社の占いは何て言ってたっけ――。

 オオシアマは舎人が主人を探しているような姿を見つけて、筮竹を片付け、そろそろ館に戻ろうとりらを促した。歩きながら、オオシアマが言う。

「明日から君たちが出仕するのでなければ、本当はもっと皆でゆっくり話がしたかったよ。それに、イズモの話が聞きたい。その目で見てきたんだろう、俺の遠い祖先の国と戦を。遠い昔の神々の話が知りたい。この世から俺の故郷の記憶がなくなってしまうのは悲しいからね」

「もちろんイズモの話はいつでもしてあげる。また時間を見つけて必ずね」

「あぁ。サララも子供たちもすごく興味を持ってるから。それと、時間があれば吉野へ君たちを連れて行って、会わせたいやつがいるんだ」

 いつもより多めに酒が入っているせいか、オオシアマは何だか楽しそうに見えた。しかし、結局、オオシアマが会わせたいと言っていた人物が誰なのかはわからずじまいだった。賭けに勝って上機嫌になった大伴吹負がオオシアマに近づいてきて、大声で雑談を始めてしまったからだ。平和だなぁ、とりらは空を見上げた。この時、近い将来起こることを、まだりらは知る由もなく、さそり座、いや龍の情熱の星がいよいよ赤く瞬いていた。

 軽く体が揺さぶられた気がする。そうだ、子供たちの昼寝の時間だった。りらは、はっと飛び起きた。隣にちょこんとアエが座っている。

「リラもお昼寝してたねー。起こしちゃってごめん」

 不覚にも子供たちと一緒に寝てしまったようだ。男児たちは既に目を覚まして、剣の稽古の支度にとりかかっている。アエの姉であるミナベがりらの傍へ寄ってきて、しばらくしたらおばあ様たちがやってくると告げた。おばあ様とはヤマト姫のことだ。ヤマト姫は子供らの母親よりずっと年齢が高く、祖母のようなものだから血縁関係がなくても「おばあ様」と呼ばれていた。ヤマト姫には子がないまま高齢になってしまったので、夫の他の若い妻の子たちにそう呼ばれて、むしろ喜んでいる節があった。

 ヤマト姫の采女として大津宮で働くようになったりらは、オオシアマの関係者だと知られないよう細心の注意を払いながらいかにも忠実に振る舞っていた。時々、大津宮に遊びに来るオオシアマの息子たちとは当然、顔見知りの仲だが、彼らも心得たもので、りらとは大津宮で初めて会ったかのように接してくれる。

 昼寝の片付けをして部屋を整頓し、冷たい飲み物を用意する。部屋に残っている子供たちは縁側に座りながら、生意気にもガールズトークに花を咲かせていた。

「あ~あ、アエはいいな。クサカベもあなたのことを好きでしょ?」

「うん! この前、クサカベが私のこと大好きって歌をくれたの。クサカベはすっごく優しいし、たくさん難しい本を読んでて頭が良いんだ」

 妹の惚気話を聞いて、ミナベは大きくため息をついた。なぜなら、ミナベはタケチの婚約者であったが、一向にタケチが仲良くしてくれないからだ。

「タケチだって、走るの速いし、漢詩作るのうまいってみんな言ってるし、一番かっこいいもん…… どうしたらタケチは私と仲良くしてくれると思う?」

 恋に悩めるミナベの質問に、トオチがうーんと唸って提案をしてきた。トオチの母は今は大王の妃となっているが、かつてオオシアマの恋人であったあのヌカタである。

「お母さまが言ってたよ、男の人は追いかけられるとつまらないと思ってしまうから、ちょっと冷たくした方がいい時もあるって。だから、ミナベもしばらくタケチに話しかけないっていうのはどうかな」

「それってうまくいく? トオチもオオトモ様に冷たくしたことあるの?」

「ううん」

「だよね…… だって、オオトモ様はいっつもトオチに優しいものね。でも、私、ちょっとタケチに知らん顔するの試してみる」

 ミナベもトオチもなぜタケチがミナベに近づいてこないのか、本当の理由を知らない。タケチ少年は別にミナベを嫌っているわけではなく、寝ても覚めてもトオチ姫のことばかり考えているので、他の女の子など目に入らないだけなのだった。

「ねぇ、オオクは誰か好きな人いるの?」

 にこにこと会話を聞いていたオオクは突然、アエに自分のことを尋ねられて「えっ」と驚いてしまった。しばらく考えていたオオクはこう言った。

「私はお父様とオオツが好き」

「えー、他にいないの~?」

 ミナベとアエが不満の声を上げたが、一部始終の会話が耳に入っていたりらはオオクの健気な返事にそっと心を痛めた。母のいないオオクは弟のオオツの世話をしなければならないし、頼れる父は大津宮ではなく別邸にいて自分たちの傍にいてくれるわけではない。だから家族でない男の子なんかより、父と弟が一番なのだった。

 ガールズトークは延々と続きそうだったが、おばあ様ことヤマト姫がオオトモとメイ姫を伴って部屋に入ってきたところで、おしゃべりは中断した。小さな姫たちは行儀よく部屋の中に並んで正座した。

「まぁ、珍しく四人揃って。このところお裁縫の練習をしてないようだからちゃんとメイ姫におしえてもらいなさい」

「はい、おばあ様」

「じゃあ、みんな別の部屋に行きましょう」

 メイ姫が子供たちを連れて行ってしまうと、ヤマト姫はりらや他の采女たちに団扇で風を送らせながらオオトモと話を始めた。

「オオトモ、ところでミミモ姫とはどうなの? 幼いトオチのことを気遣うのは良いけれど、他の妻も大事にしてやらないと。鎌足の娘でもあるのだから」

「はぁ。ご心配には及びませんよ、ちゃんと足しげく通っています。気が強い女なので、放置してると機嫌を損ねてしまいますからね」

「そう。それなら良いけど。いずれ大王になった時、妃たちの間で無用な争いなど起こさせてはだめですよ。そろそろトオチにも正妃になる教育を受けさせた方が良いわ」

「それも考えてますよ」

 オオトモが話を続けようとした時、ヌカタが部屋に入ってきた。

「ちょうどあなたの娘の話をしていたところなのですよ、ヌカタ姫」

「トオチの?」

「この前相談していた教育係のことです」

 オオトモがヌカタに話しかけた。将来、大王の正妃になるトオチには今から格別の教育を受けさせる必要があるという認識では一致していたのだが、母親のヌカタは唐の宮廷に仕えていた僧侶を迎えるべきだと言い、夫のオオトモは亡命百済貴族を任命すべきだと主張していた。ヤマト姫を交えてそれぞれの主張を論じ合ったが、結局この日は平行線のまま結論には至らなかった。

 りらは初めてヌカタと対面したが、論理的に物事を言う女性だなという印象を受けた。美人というほどの外見ではないものの、肌は明るく清楚な雰囲気からはちょっと想像できない。

 オオトモは姉のような年の近い姑が少し苦手だった。物怖じせずに自分の意見をぶつけてくる上に、「オオシアマだったらそんな考えはしない」とか「あなた、オオシアマから何を学んだの」とか、何かにつけて別れた叔父の名を出してくる。しかも、現在の夫であるカヅラキがいる前でもそのような発言をするので、オオトモは一度、ヌカタに激怒したことがあった。それでもヌカタは悪びれた様子はないし、カヅラキも特に咎めはしなかった。

 トオチの教育係の次は蒲生野での新宮造営の進捗状況が話題に上った。

「造営は来春から開始できると思います。この前、主計頭が予算と人員見積もりを持ってきたのですが、人員が足りないような気がして増額が認められないか再検討するよう命じたところです」

 オオトモが報告するとヤマト姫はいくばくかの懸念を表した。

「新宮造営はあなたが大王になる手前の最初の大事業なのだから、不測の事態にも備えておきなさいね。それから何か負担を増やす場合は、どこかで負担を軽くする措置をとるべきだわ。そのことは考えてあるの? 些細なことで人心は離れたり、ついてきたりするものよ」

 口調は穏やかだが、長年つぶさに夫の政治を観察し支えてきただけに的確な指摘である。カヅラキとの間に子がなかったとしても、ヤマト姫の正妃としての立場は決してお飾りではなく、誰から見ても揺るぎはなかった。ここでもまた、オオトモの前に超えるべき壁が立ちはだかっていた。

「……わかっています。民官長とよく相談します」

 うるさいおばば様だと思わなくもないが、これまでヤマト姫が間違ったことを言ったことがないのはよく知っていたし、オオトモは素直に他人の意見や忠告を受け入れる若者だった。子供の頃、亡くなった母が「誰かの上に立つ人間は、まず目と耳を一生懸命に使うものですよ」と言っていた。

 新宮造営の問題点や伯耆国での疫病発生などをヤマト姫に報告し終わると、オオトモとヌカタは引き続きトオチについてああでもないこうでもないと言い合って収束しそうになかったので、ヤマト姫は采女たちを連れて政務に戻ることにした。

「本当に心配だわね……」

 若い後継者たちを見て、ヤマト姫は一抹の不安を覚えて溜め息をついた。しかし、あと五年もすれば若い頃の夫カヅラキのように安定し風格も備わるだろう。最近では親しい近侍の舎人もいるというではないか。鎌足のように支えとなってくれると良いが。


 いつになく寝苦しい夜だった。りらは真夜中に目が覚めてしまい、冷たい水で体を拭こうと洗い処に行った。すると同僚の采女たちも暑さをしのごうと、洗い処で雑談をしながら涼んでいた。りらが近づくと、足音に気づいたらしく采女たちのひそひそ話がぴたりと止んだ。そろりと顔を出し、同僚の一人と目が合った。

「なぁんだ、リラか。見回りかと思ってびっくりしたじゃない。ここ座る?」

 同じ仲間だとわかると、采女たちはまた話を再開した。ひそひそ話の内容は彼女たちの主人であるヤマト姫とカヅラキ大王のことであった。

「ヤマト姫様は辛抱強いわね。私だったら耐えられない」

「夫を殺してしまうかも……」

 りらはどういう意味か尋ねた。普段見ているあの夫婦は長年連れ添ってきた安定感があり、和やかな雰囲気なので、同僚たちの会話は奇異に聞こえたのだ。

「そっか、リラは知らないのね」

「ヤマト姫様の父上は、大王に政治的に追い詰められて滅ぼされたのよ」

「私もよくは知らないんだけど、蘇我入鹿が暗殺された時に続いて粛清されてしまったんですって!」

 つまり、ヤマト姫は実父や兄弟の死を作った政敵である男カヅラキと結婚し、二十年以上も連れ添ってきたのだった。彼女の心中は誰にもわからない。しかし、他人の目にもはっきりわかることは、ヤマト姫が自己の意思を持ってカヅラキを公私にわたって支えているということである。カヅラキには多くの妻がいたが、最も信頼されている女はこのヤマト姫なのではなかろうか。そして、ヤマト姫は賢く、自分の意見を隠さずに言うタイプだったが、夫に対して怒りを表した姿を見た者はいなかった。

 ある日、ヤマト姫の私的な部屋でヤマト姫も含めて、何人かの采女たちと裁縫をしている時、りらはヤマト姫が心の底からカヅラキを愛しているのだということを知った。

「大后様、何だか随分と楽しそうでいらっしゃいますね。良いことでもございました?」

 ヤマト姫は始終にこやかに、時々ハミングをしながら秋用の衣服を縫っている。古株の采女の問いかけに、ヤマト姫は恋する若い娘のように答えた。

「この色は大王にとても似合いそうだわと思って。あぁ、大王のお召し物は私が完成させますから、刺繍は任せてね」

「本当に大王は幸せですね!」

「あら、私も幸せよ」

 次は別の小さめの衣服を手に取り、ヤマト姫は愛おしそうに出来上がり具合を確かめた。それはオオツの服だった。オオツはオオシアマの息子にもかかわらず、カヅラキの娘の子でもあり、ヤマト姫にとっては孫のように愛すべき存在である。ヤマト姫はカヅラキの全ての子と孫を受け入れ愛情を注いでいたが、特に大津宮で暮らしているオオツは格別だ。

「大后様はオオツ王子がお気に入りなんですね。だいぶ、わんぱくに育ってるようですけど」

「あれは母親がいなくて不憫だわ。元気に振る舞っているけれど、とても寂しい思いをしているんでしょう。何でもできてしまうし、頭の良い子だから余計にかわいそうよ。いずれ大王を継ぐことになるでしょうから、大切に育ててやらないと……」

「オオツ王子が大王を継承することはもう決まってるのですか?」

「いいえ、クサカベと色んなことを争わなければならないわ。あの子だって、大人しいけど聡明で気概があるもの。どちらが大王になるにせよ、カヅラキ大王は彼らのために必死なのよ」

「王子たちのため、ですか?」

「ええ、オオシアマは大和は自力で強くなるべきだと言うのだけど、今の大和にそんな力はないと思うわ。だからこそカヅラキは、百済や唐から学ぶだけ学んで、その力で大和を最大化させようとしているの。子供たちが成長した頃、大和が十分に力を蓄えて自力で成熟した国家を運営できるようにするためにね」

 このところカヅラキ大王は、頑なに己の決めた道を歩み、臣下の意見など聞き入れないように見えたが、妻はそれで良いと考えていた。大王がふらふらと他人の意見に左右されて進むべき道を変えたり後戻りしたりしてはいけないのだ。実はカヅラキは自分の治世に、何か目に見える形のものを変えたり作ったりするつもりはなかった。己は次の大王やそのまた次の大王たちの踏み台であればいいとさえ思っていた。変えつつあるものと言えば、後継者そのもの、後継のあり方という目には見えない下地だけといっても過言ではない。それが整うまでは百済だろうが唐だろうが、外国に寄りかかっていても良いではないか。

 反対に、オオシアマは具体性と即時性を大王に求めていた。今この治世で自国の有り様を変え、確固たる内外の安定と繁栄を作り出すべきだ。結局のところ、二人の目指す理想に大きな違いはなかった。それならば、夫のやり方に従ってみようではないか、とヤマト姫は考えていた。

「私はね、カヅラキ大王が国内で争いを起こさせていないことが一番の手柄だと思っているの」

「今度、また百済復興に力を貸すというお話は?」

「まぁ、よく気づいたわね。私もそれは心配していること。十年前のような敗退は許されない。次は唐と同盟して少数精鋭でやるしかないわね」

 いずれにせよ、百済に援軍は出すということか。

 基本的にヤマト姫は夫の方針に対して真っ向から反対することは避けていた。それは、もしカヅラキの歩む道を否定してしまえば、父の死を無駄にしてしまう、間違った男に嫁いでしまったことになるからではないか、というヤマト姫の恐れをりらは感じた。もちろんそんなことは口には出さなかったけれど。


 一大イベントを祝うかのように、天は鮮やかな青を広げていた。

 大津宮の役人やオオシアマの舎人たちは、前日までに大津宮から飛鳥入りをし、飛鳥寺の西側にある槻の木の広場で催される蝦夷饗応の準備に追われた。槻の木の広場は南北200m、東西120mというサッカーフィールドよりもなお広い空間で、国の祭事や外交使節の饗応などに利用されている。この広場の特徴はその名の通り、大きな槻の木がつややかにそびえ立っていることだ。

 大王の代理としてオオトモが臨時にたてつけられた小殿に座している。初春に大和に服属した蝦夷の代表二十五名が小殿の前に額づき、飛鳥寺の鐘の音が厳かに鳴り渡った。

 まず、理官長が挨拶を述べ、この度の蝦夷服属を歓迎し喜ぶというオオトモの言葉を代理で読み上げた。次に、蝦夷の長が返礼をし、部下たちがオオトモに対し様々なミツキを捧げた。この蝦夷は越と出羽の境に築かれた都岐沙羅柵つきさらのさくの監督下に置かれ、漁業から鉄の生産まで請負い、北方開拓に欠かせない集団である。ミツキは鯛、鰈、岩牡蠣、スルメイカ、紫黒米、麹、カブ、イノシシの肉、材木、鉄、織物など多彩な品々で、オオトモたちを驚かせた。

 蝦夷からのミツキ献上が終わると、オオトモから服属を認める祝いの品が贈られた。理官長が蝦夷の長にオオトモの言葉を伝えた。

「蝦夷の長ラヨチ、その子コンル、チュクよ。日嗣の御子はおぬしらの奉ったミツキとおぬしらの心にたいそう感銘を受けていらっしゃる。出羽の地が一層豊かになるよう今後も力を貸してほしい」

 広場が少しざわめいた。それというのも、理官長が蝦夷たちの名前を言って呼びかけたからだ。通常は「蝦夷よ」とか「蝦夷の長よ」など簡単に済ませてしまうのだが、初めて蝦夷饗応に立ち会ったオオトモは思い切って名前を言わせることにしたのだ。これで蝦夷たちは大和の大王に親しみを抱きやすくなり、初めての出来事は噂となって広まるに違いない。後ろに控えていたオオシアマは、甥の外交術に舌を巻いた。成長してきたな、オオトモ。いずれ、オオトモは誰の力も借りずに大和を動かしていくだろう。このところオオトモに面会していない。自分はもう教育係としてはお払い箱かもしれない。弟のように可愛がってきた甥がいつの間にか自力で梶を取ろうとしていることに、嬉しさと同時に一抹の寂しさがよぎった。

 形式的儀礼が終わり、メインイベントである百済舞が始まった。槻の木の下に舞台が設置され、雅楽寮の歌生、笛生、舞生らが一斉に登場すると、皆が息を飲んだ。顔立ちの整った男女のきらびやかな衣裳は見る者を圧倒した。一見優雅な舞は、軍隊と同じく内外への威圧であった。資金がなければ豪奢な衣装は作れず、大王家への忠誠心がなければ統制のとれた舞は踊れない。大和の百済舞を見せられた蝦夷の代表たちは、何を思っただろうか。

 兵衛として小殿の脇に控えている潤は特等席で、恋人の晴れ姿を見ることができた。居残りまでさせられていたと言うが、潤には美輝の舞は完璧に思えた。彼女の姿をいつまでも見ていたいと思うものの、さっきから首と肩が疲れて仕方がない。兵衛も儀式用の武官服を着用しているため全体的に重いのだ。これでは何か起きた時に素早く動くことはままならないだろうが、左兵衛督は真面目な顔をして、「飛鳥寺の釈迦如来の加護があるから何も起こらんだろう」と言うだけであった。

 釈迦如来と言えば、広場でのイベントよりも後方の飛鳥寺の方が気になる人物がいた。陽一はなぜか今日行われる打毬会の選手に推薦されており、役人関係者席に座っていた。推薦された理由は「お前、俊敏だろう? 出てみろ。うちの寮が注目されるぞ!」ということで、気分転換に同僚たちとサッカーやバレーボールの真似事をしていたのが上司である木工頭の耳に入ったらしい。だが、陽一は建築士として自分の背後に盛大にたたずむ大寺院に心を奪われていた。まさか飛鳥寺の完全な姿を間近で拝むことができるとは! 飛鳥寺式という建築様式は当然知っているし、復元予想図面も何度も見たことはある。研修で明日香に来た時も飛鳥寺に立ち寄っていた。だが、現在残されているのは江戸時代に再建された講堂のみで、周りものどかな田園風景が広がっているため、本当の飛鳥寺を思い描くのは至難の業だ。木工寮の算師として何度か飛鳥宮に足を運んではいたが、いつも仕事の都合上、飛鳥寺は通り過ぎてしまっていた。視界に迫る塔を三つの金堂が囲み、さらに回廊が巡らされ、北側に講堂が配置されている。色鮮やかな壁や柱に黒光りする瓦の一つ一つが感動的であった。

「おい、次、出番だよ」

 同僚が声をかけてようやく陽一は我に返った。槻の木の舞台はいそいそと撤去され、広場の東西の端にゴールポストが置かれると馬の嘶きが耳に入ってきた。打毬は乗馬しながら毬杖をふるって自陣のゴールポストに入れるという競技だ。

 陽一は栗毛のかわいらしい馬を与えられた。陽一のチームは東軍、大和の役人と蝦夷の若者の混合で、対戦相手の西軍は強者揃いの左右兵衛たちであった。その中には潤がいた。互いに競技に参加することになったと告げてあったので驚きはしなかったが、対戦相手なのでやりにくさはあった。しかも、知らないふりをして手を抜かずに戦わなければならない。特に西軍は兵衛府の名誉がかかっていたから本気でぶつかってくる。しかし、東軍も負けてはいなかった。蝦夷の人間は馬と共に育っているので、殊更に練習しなくても馬を器用に操れるし、体力的にも兵衛と同等かそれ以上であった。

「がんばれー」

 オオトモとオオシアマ以外の大王家が見学している天幕から子供の元気な声が聞こえた。トオチ、タケチ、クサカベ、オオク、そしてオオツがヤマト姫やサララや宮人たちと並んで饗応に参加していた。女性陣の中にはヤマト姫の采女であるりらと炊女の桜児もいた。陽一は声援を受けて、目立たぬように子供たちに毬杖を振って応えた。

 今回の競技は明らかに東軍に不利であった。役人たちと蝦夷の若者たちは初めて顔を合わせたので、練習もしていないし作戦を立てることもできないのだ。だが、陽一は序盤で蝦夷たちの馬捌きと、力強い動きを観察し、むやみに自分たちが前に出る必要はないと判断した。仲間の役人には、パスを繋ぐ程度に動けというアドバイスを伝え、陽一は西軍の潤をマークすることにした。

 天幕で打毬を観戦していたりらは、陽一の機敏な動きに感心していた。今でも竜成とバスケをやっているらしいし、馬に乗りながらの競技でもなんとなくこなせるのだろう。イズモの時は陽一までも戦場に駆り出され、火矢で射られた時は恐ろしく心配したが、今はせいぜいこういう競技に参加させられるくらいなのだから安心していられる。りらの斜め後方に控えていた桜児は、オオシアマの舎人と言っていた陽一がフィールドで巧みに馬を操って、相手方の主将の動きを封じ込めていることに少なからぬ驚きを受けていた。それだけでなく、普段のちょっと頼りなさげな雰囲気からは感じられないほどの勇ましさと凛々しさに胸が高鳴った。聞けば、あの男は木工寮の算師として勤務しているというではないか。何か理由があるのだろう。オオシアマの舎人でありながら、大津宮でも大王に技量を捧げる陽一に、桜児はすっかり恋に落ちていた。

 結局、打毬の競技は左右兵衛の西軍が勝利した。しかし、その差は一点だけであり、オオトモやオオシアマは面白がっていたが、圧勝できなかった左右兵衛督は面目を失って大層ご不満な様子であった。確かに兵衛たちは強いのだが、左右兵衛府は互いのライバル心が邪魔をして足並みを揃えた戦い方ができなかったのだ。

 潤が同僚に、パスを指示してもその相手が右兵衛だと全く別の位置を走っている左兵衛に毬を投げてしまったり、その逆の行動も何度かあった。兵衛督は治安を神仏頼みに考えるわ、左右兵衛は協力体制を築こうとしないわ、これじゃあ大津宮は守れないなと潤はため息をついた。

 飛鳥寺の鐘が再び鳴り響いた。オオトモの計らいで至れり尽くせりだった蝦夷饗応は滞りなく終了した。まだ日が高いうちに大王家は輿に乗り、ぞろぞろと伴の者たちを引き連れて飛鳥寺を後にした。

 香久山を右手に見ながら輿は進み、山の北側で進路を右へ変えると前方に大きな池が姿を現した。磐余池いわれのいけだ。ヤマト姫が采女の一人に何事かを告げると、オオトモ以下他の輿にもその言葉が伝達され、やがて輿は池の付近で止まった。

「皆はこの辺りでお待ちなさい。好きに過ごしてて良いから」

 ヤマト姫は輿から下りると数名の采女を連れて整備された池の堤に上がっていった。その後を、オオトモ、オオシアマとサララ、そして子供たちが続く。

 堤の上から一望する磐余池の美しさは格別だった。艶やかな蓮の花の周りをふっくらとしたつがいの鴨たちが時々水中に顔を沈めながらくるくると泳いでいる。空は遮るものなく遠く高く広がっていた。

「こうして皆が揃う機会はなかなかありませんものね」

 ヤマト姫は誰一人として自分とは血の繋がらないカヅラキの子や孫たちを集め、同じ景色を見せようと思い、磐余池に立ち寄らせたのだった。オオシアマはクサカベとオオツの背後に立ち、しゃがんで視線を同じくしながら二人の息子の方を左右の腕で抱いた。

「いいか、お前たち。二人は兄弟だ。今も、これから大人になってからも互いに助け合って、誰からも羨ましがられるような兄弟になるんだぞ」

「うん」

「わかった」

 クサカベもオオツも、大好きな父と一緒に同じ景色を見ているのだということがただただ嬉しかった。オオツは母を黄泉の国から甦らせ、強くて優しい父をこのまま独り占めしたかった。いつかきっと、父が自分と姉オオクを傍に置き、今まで以上の愛情を注いでくれる日がやってくるに違いないと思った。しかし、オオツがその健気な望みを叶えることはついぞなかった。そして、青年となり再び磐余池でこの景色を涙と共に眺め、兄と並んで父に肩を抱かれたこの日を思い出す時が来ることになるのであった。

 弟や父たちと少し離れたところで、タケチは偶然隣同士に並んだトオチの耳元にそっとに話しかけた。

「この景色に誓って、僕はいつか君を迎えに行くよ……」

 トオチはきょとんとして、タケチを見つめ返したが、何か言おうとする前にタケチはふいとその場を離れてしまった。オオトモの視線に気づいたからだ。

 オオトモは常に優しい眼差しで子供たちを見ていた。そして、きっとタケチは自分の妻となったトオチのことが好きなんだろうなと感じるようになり、本当ならば年の近い者が結ばれるべきであるのに、政治的理由でタケチからトオチを引き離すことになってしまったことに心を痛めた。

 俺には何ができる? 誰にどんなことを与えられる? 誰かを幸せにすることができるのか? オオトモは磐余池に映し出された空と叔父オオシアマの影をじっと見つめた。


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