表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
オペレーションくしなだ  作者: 木葉
オロチの耳飾り、再び
PR
11/31

第6章 <2>

「うん。実は俺もそう思ってた。うちにいてもなかなか面白いことはないし、カヅラキ大王の政策の一片を見聞きするいい機会だ。兄が敵かどうか、見極められるだろう」

「ちょっと待って。俺たち全員、大津宮の役人として働くってことだよね? 無茶だよ」

 陽一は腰が引けているようだが、しばらくオオシアマの私邸で働いたり、大津宮に出入りしていた竜成は親友を励ました。

「なんとかなるって。基本的なことは俺と黒部さんが教えられるし、どのみち新人扱いなんだし。大臣になるわけじゃないんだぞ」

「けどさ、役人って試験があるんだろ?」

 確か現代だと公務員になるには各種の試験と面接を通らないと採用されないはずだ。大学のクラスメートが何人か地方公務員を受験してたっけ。

「いや、試験はない。相応しい人物がいたら推薦して、欠員があれば採用される仕組みだ」

 オオシアマがにやにやしながら言うと、陽一はこの古代の日本で役人になる道を避ける術はなさそうだと観念せざるを得なかった。要するに、古代の役人は完全にコネの世界なのだ。

「俺の後ろ盾ってことになるとちょっと目立つし怪しいからな。まぁ、適当に美濃の評督(こおりのかみ。後の郡司)の推薦ってことにするか。希望するつかさがあったら伝えておくから言ってくれ」

 官というのは今の省庁のことだ。そうは言うものの、陽一たちはカヅラキ大王の治世に何の官があるかもわからなかったので、現代での職業に一番近い仕事に携われることを希望しておいた。

 その後、夕食が始まり、酒を酌み交わしながら各人の現代での職業について語り合った。子供たちは別の世界からやってきたらしい大人たちの仕事に興味津々である。特に武芸に秀でたタケチは潤の話を楽しそうに聞いており、クサカベは陽一が話す建築の技術に心を奪われていた。

 賑やかな食事の時間が終わると、既にオオシアマ邸の住人であった竜成と貴子がそれぞれの部屋に陽一、潤、りら、美輝を連れて行くことになった。ここでの身分はオオシアマとサララの舎人と宮人である。

 大王の弟という身分のことだけあって、オオシアマの私邸はかなり大きかった。二重に柵で囲まれた土地の西側区域に本殿があり、その後ろにコの字型に使用人の居住区や仕事部屋が配置されており、東側地区はその他の居住区、倉庫、衛兵の詰所などがあった。

 一度、これから住む三人一緒の自室に案内された後、陽一は厠に行くついでに建物の中をぐるっと見て回ることにした。執務室の隣は舎人たちが詰める部屋があり、奥にはオオシアマ夫妻の部屋と子供たちの部屋があるようだ。それから、宮人たちの仕事部屋、そして炊事場などを確認した。舎人や宮人の部屋は、空いている場所に隙間をぬって作られており、色々な場所に点在していた。その他の使用人は東側地区の別の建物に住んでいるらしい。

 そろそろ自室に戻ろうかと踵を返して数歩歩いたところで、急ぎ足でやってきた女性とぶつかってしまった。まずい、と思った時にはもう遅く、その女性が床に尻餅をつき、持っていたものが落ちて音を立てた。

「すみません、怪我ないですか?」

 慌てて陽一は落ちた物を拾い、女性の様子を伺った。幸い、落した物は木製のお椀や箸で、中身も空っぽだった。

「あ、こちらこそ、失礼しました。前を見てなくて……」

 すまなそうに詫びる女性の声は、かわいらしく、若い娘のものであった。立ち上がって陽一から食器を受け取った娘は色白で小柄で、木綿の服にたすきをつけ、腕まくりをしていた。美輝と同じくらいの年か、もう少し若いかもしれない。

「お見かけしないお顔ですね。新しく来た舎人の方?」

 そうか、やはりここで働いていれば見知らぬ人間はわかってしまうのだな。変な嘘をついても後で困ることになりそうだと思い、陽一は武蔵国から来た新人だと告げた。娘はにっこり魅力的な笑みを浮かべる。笑うとえくぼができるようだ。

「随分遠い国から来たのね。優秀なんだわ。これからよろしくお願いしますね。私、炊女かしきめ桜児さくらこです」

 どうりでどこかで見たことのある食器だと思ったら、先ほど、自分たちがいただいた食事に出てきたものだった。

「俺は長柄陽一。初めてこういうところで働くんだ。よろしく」

「私まだちょっと仕事があるから、またね」

 小さく手を振ると、桜児はまた急ぎ足で炊事場の方へ去っていき、陽一は西殿の自室へ戻っていった。自室には先輩風を吹かせている竜成と陽一と同じく不安を感じている潤が酒を飲みながら雑談をしていた。

「おう、お前も飲めよ。オオシアマからの差し入れ」

「あぁ、サンキュー」

「遅かったな、迷子になったのかよ?」

「屋敷を一回りしてきた。やっぱり俺たちは見知らぬ人ってわかるらしいよ」

「誰かと話したのか?」

 潤の問いに陽一が答えると、待ってましたとばかり、竜成が茶化してくる。

「早速、女の子とお見知りおきか。隅に置けないやつだな。ちなみに、この屋敷の中での恋愛は結構オープンみたいだからな、がんばれ」

 がんばれじゃねぇよ。ていうか、ここの世界でちゃっかり彼女を作ってるお前に言われたくないね。陽一は心の中でちょっと毒づいた。潤が貴子と美輝との間で板挟みになって苦しんでいるとはつゆ知らぬ陽一は、気づけば恋愛が思い通りに行っていないのが自分だけではないかと軽く落ち込んでいたのだった。

 日に日に暑さが増していき、蝉が近くの森で大合唱している。採用の知らせが来るまで、竜成と貴子はこの時代の作法などを後から来た仲間に教え、オオシアマ邸で雑用をこなしていた。

 ある日、各々が舎人の詰所と宮人の詰所で仕事をしていると、さらに下級の使用人が「オオシアマ様がお呼びです」と声を掛けにきた。

 執務室では夏用の衣服でくつろぎながら、妻に団扇であおいでもらっているオオシアマが木簡の束を持って座っていた。

「ようやく君たちの働き先が決まったよ」

 その言葉に陽一たちは居住まいを正した。全て下級役職だということだが一体どこに配属されるのか。まず、美輝の勤務先が告げられた。

「ミキの官は理官おさむるつかさ雅楽寮うたりょう、役は舞生まいのしょうだ。舞を習得している者がいると言ったら喜んでいたよ。これは舞を習う身分だが、そのうち教える側の舞師まいのしになれるかもしれない」

「やったね。机に向かう仕事じゃなくてほんとよかった」

 とりあえず、美輝は安堵した。次は竜成の官と役が読み上げられた。

「タツナリは民官たみのつかさ主計寮かずえりょう史生ししょう。主計は官の中で最も重要なんだ。税の管理や歳出に関わるからね」

 国家予算と税収を所掌するこの組織は、後の大蔵省のような役目を果たしていた。

「その史生ってのは?」

「タツナリの仕事は基本的に文書の管理で、四等官の署名をもらったりするから幹部と話す機会も多いと思う」

 これは一から勉強しないと仕事についていけなさそうだな、と思ったが、考えようによっては機密文書に触れることもあるのではないか。

 竜成と違って、貴子は適材適所の配置が与えられた。太政官の内薬司ないやくしという薬を扱う役所で、貴子は薬の調合を担当する薬生を拝命した。当然、薬の調合といってもこの時代は化学物質ではなく薬草であるが、貴子は大津宮にやってきてから既に内薬司や外薬寮がいやくりょうの職員と交流を持ち、薬草の知識を教えられていた。

 陽一もまた馴染みのあるポストが見つかった。宮内官木工寮もくりょうの算師である。読んで字のごとくの内容で、宮や公共施設の造営の際に計算・設計を行う技術職だ。

「ヨウイチ、希望通りだと思うけど、相当忙しいから覚悟しておけよ」

 どうやら木工寮の扱う建築は大小様々なものが対象のようで、大津宮やその周辺では常にどこかで何か造営されているのだった。

「それから、ジュンは左兵衛府さひょうえふの武官」

 この時代も国の役人は文官と武官に分かれていて、潤はイズモにも軍があったのだからと、体を動かすことができる職種を希望していた。ただし、左右の兵衛府は大津宮の警護や反乱の監視を担っているので、軍というよりむしろ警察の性格が強かった。

「ジュン、君が考えていたような役ではないと思うが…… 地方には軍団もあるし、大宰府の防人司への配属もないわけではないが、君だけ大津宮から離れた地に遣るのは心もとない」

「いや、兵衛府も面白そうだよ。俺にとっては、民官よりマシだからな」

「かもな」

 潤とオオシアマは笑いあった。そして、最後はりらの配属先である。

「リラは采女うねめの役が見つかった」

「采女?」

「後宮に勤める宮人くにんよ。大王たちの食事や身の回りの世話をしたり……」

「カヅラキ大王の妃ヤマト姫の采女に欠員が出ていたそうだ」

 つまり、六人の中ではりらが最も大王に近づける立場だということになる。カヅラキの妻の世話役であれば雑談から色々な話を聞くことができるかもしれない。

 翌日から大津宮に出仕することになったのだが、古代の役人の朝は早く、夜明けとともに出勤し、正午には一日の務めが終わると言う。確かに朝五時から正午まで勤務すると七時間になり、十分に働いたと言えるが、やはり場合によっては超過勤務もあるらしい。特に大蔵省や木工寮にその傾向があるようだ。また、采女は交代制ではあるが一日中、大王や妃の世話をしなければならないし、武官も宿直や夜の見回りなどをしなければならない。休みの日も午前中は武芸の訓練が課せられている。しかし、その他の職員は正午で仕事が終わると、自分の家の仕事をしたり、比較的自由に過ごせるようだった。

 位のない下級役人ということで、陽一と竜成に支給された朝服、つまり役所の制服は黄色の衣と黒い冠と帯、皮の靴であった。宮人は深緑や紺色の衣、武官は全身黒の衣に白い袴、刀と弓を帯びるというものだ。

「くそー、全然似合わねぇよ」

 自室に戻って、支給された朝服を着てみると学芸会か何かのように、とってつけたようにしっくりこない。衣と袴は簡単に着ることができたが、皮の靴がどうも履きにくい。これで歩いたり走ったりするのかと思うと、げんなりした。

 女性陣はそれなりに着替えを楽しんでいた。特に美輝は役人というよりは踊り子なので、朱色を基調とした舞踏用の衣で華やかである。

「いいわね! 皆、かわいいじゃない」

 サララの宮人で、貴子たちの先輩として色々教えてくれるトヨハヤとシヒが、初めて着た朝服を整えたり、髪を結い上げたりしながら「かわいい」や「いいわね」を連発していた。

「リラはしばらくヤマト姫様のお近くで寝泊まりするのよね。タカコとミキは仕事が終わったらここに帰ってくるでしょ。色々と不安でしょうけど、がんばって」

「困ったことがあったら言ってね」

「ありがとう」

 この日、オオシアマ邸では夏の博打大会が行われており、オオシアマの直轄領である美濃や尾張の豪族、飛鳥にいる臣下らが中心として呼ばれていた。りらたちは客人が連れてきた子供らの世話をすることになっていた。飛鳥の豪族で、大伴吹負ふけいという人物が甥の安麻呂を伴って博打大会に参加していたのだが、安麻呂が息子の旅人を連れてきていたのだ。旅人はすぐにタケチとクサカベと仲良くなった。というのも、旅人は小学校に上がるか上がらないかくらいの年だったが、武芸が大好きという一方、読み書きも得意であり、少し年長の二人と遊ぶにも不足はなかったからだ。

 ちょっとした騒動もあった。貴子がうっかり目を離したすきに、子供たちが大人の集まる会場に出向き、入り口近くに置いてあった酒を飲んでしまったのだ。「だって、父さんたちが美味しそうに飲んでるから僕も飲んでみたかったんだよ」というのが旅人の言い分であった。後に旅人が歌人として、酒を讃える歌も多く詠むことになるなどとは誰も知る由はなかった。

 宴は夜通し行われていたが、役人生活が待っている陽一たちは早めに下がらせてもらい、明日に備えて寝ることにした。

 オオシアマ邸から大津宮までは歩いて二十分ほどで行ける。臨時の採用ということなので、一斉の案内などはなく、自分で各役所まで向かう。大津宮は東南端がほとんど琵琶湖と接する位置にあり、南門のすぐ傍にも波が打ち寄せていた。造営されてからまだ数年しか経っていないため、新しい印象を受ける。官庁街は大王の私的空間と政務空間がある内裏の外側に分散して建っていた。

 民官は南門よりもさらに南側に位置し、その一部に主計寮と主税寮が置かれていた。

「おはようございます……」

 そろそろと建物の中に入ると、竜成に気づいた何人かが頭を下げて挨拶してくれた。近い年の職員もいれば、年配の職員もいる。

「新人の鄭くんだね?」

「あ、はい。よろしくお願いします」

 机に案内してくれた中年の職員は史生の先輩にあたる人で、秦輿果はたのこしかと名乗った。驚くべきことに、竜成も含めて在籍している下級職人の半数が帰化人とのことだった。税収を扱うということで算師も何人か在籍しており、彼らも帰化した百済人である。

 仕事の終わりを知らせる正午の鐘が鳴っても、主計寮の職員は誰も帰ろうとせず、それどころか支給される食事もろくに手を付けずに作業をしていた。竜成はまず文書の管理方法や誰が何を扱っているか、決裁の順番はどうするのかなどの基本を学んだ。文書と言ってもほとんどが木簡である。内容は全国から集められた調という税の詳しい計算や帳尻の確認、配分などで、現在の財務省や霞が関の予算担当者と同じく夏は最も忙しい時期であった。

「今、七月半ばだろ、各地の税は来月から一斉に運ばれてくる。計帳が届いたら庸の数量を計算して武官や采女に配るんだ。あぁ、今月中にやらなければいけないのは、丁の雇用数の審査だよ」

 部屋の半分の机は算師たちが黙々と計算に励んでおり、終わった計算は竜成たちが幹部に上げていく。だが、困ったもので長官にあたる主計頭は数日おきにしか出仕しない上に、数時間で退出してしまう。意外と決裁に時間がかかるのだ。

 こんな調子で夜まで働き、木簡の束を捌いていく日々がしばらく続いた。竜成の仕事は単純作業だったが、それでも忙しいことに変わりはない。

「あれ、主計頭のところに見かけない顔の人たちが来てますけど……」

 竜成は自分の机で支給されるたいして美味しくない昼食をつつきながら、輿果に話しかけた。

「ん? あの方たちは、大蔵長おおくらのかみと木工頭だよ。来年度は大掛かりな造営をするみたいだから、頭どうしの調整もよく行われてる」

 人手も金もかかるというわけなのだが、問題はどこからそれらを持ってくるかだ。畿内はできるだけ課税は軽くということになっているので、それ以外の土地が対象になる。

 幹部らによって様々な検討がなされた後、算師たちが計算に取りかかり事業の予算や新しく必要な税の量を弾き出していく。竜成はその補助として木簡の整理や清書を行い、上司たちに決裁を求めていった。

 算出と調整の期限が数日後に迫り、七割くらいの作業を終えた段階で、竜成は不要になった木簡をきれいに削って、こっそりと徴税の強化対象や追加課税対象そして人員の強制雇用対象地域を書き付けていった。私邸に持ち帰りオオシアマに報告するためである。

「未回収の調庸は美濃、阿波から、追加徴税は信濃、越、丹後へ。人員も同様。さらに必要な場合は出雲、豊後を対象に――」

 木工寮が要求してきた人員は七百人であったが、 主計寮の査定で認められたのは六百五十人となっていた。外部の人間も使用しなければならないほどの造営が予定されているのだった。

 同僚たちから酒でも飲まないかと誘われたものの、久しく顔を見ていないオオシアマに近況を伝えねばならない。私邸には寝に帰るようなもので、どうやら陽一も潤も似たような勤務形態らしく、部屋に戻っても先に寝ているか夜勤でいないかで、大津宮に出仕し始めてからまともに話をしていなかった。


 出勤初日からその日に出発する出張を命じられた。しかも五日間の泊りがけの出張らしい。どんだけブラック企業なんだよ……と、陽一はため息をついた。しかし、成り行きに任せるしかあるまい。挨拶もそこそこに上司にあたる人が声を掛けてきた。

「助かったよ、君は設計に明るいと聞いてるんだが」

「いえ、少し故郷で勉強する機会があったもので、木工寮の先輩方に比べればまだまだです」

 とりあえず謙虚に答えておいた。出張に行く同僚たちが、馬の用意ができたと陽一を呼んだ。まだ朝の六時を回った頃か。夏の日差しがじわじわと加速していく。行先は飛鳥、タカラ大王が住んでいた後飛鳥岡本宮である。

「初めまして。私は身毛むげつ智麻呂さとまろです。現場の監督補佐をやってるんでよろしく。あなたは飛騨の人間なんですか?」

 四十代くらいの人懐っこそうな男が馬上で話しかけてきた。「現場」というのは造営の工事現場という意味らしい。

「こちらこそ、よろしくお願いします。私は元々、武蔵の出です。どうして飛騨だと思ったんですか?」

「いや、算師として即戦力があるっていうから私の故郷の飛騨から来たのかと思いました。うちは税が免除されてる代わりに木工寮に匠を多く送ってるんでね」

「それは知らなかった。ところで、珍しい名前ですね。私の知り合いに同じ名前でヒロというのがいますよ」

 身毛という名前は一度聞いたら忘れられない。陽一の知り合いとはオオシアマの舎人のヒロである。

「あぁ、オオシアマ様にお仕えしてる… 彼は美濃にいる親戚ですよ。実は私もオオシアマ様にお仕えしようと思ってたんですが、飛騨匠として徴収されてしまいまして」

 智麻呂は少し寂しそうな顔をしたが、陽一としては見知らぬ人々の中で信頼できそうな先輩同僚を見つけることができてほっとした。こちらも智麻呂に信用してもらえるようになれば色々と話が聞けるのではないかと思ったのだが、智麻呂はあまり警戒心がないようで自分から話を提供してくれる。

「ところで飛鳥は初めてですか?」

「はい。東国から大津宮へ来たので飛鳥がどんなところか想像できません」

 本当は奈良県には何度も足を運んで神社仏閣の勉強をしているし、当然、明日香にも遊びに行ったことはある。大和三山に囲まれた穏やかな田園風景が広がる場所だ。以前付き合っていた彼女は何もなくてつまらないと不満を言っていたが、陽一は在りし日を想像に掻き立てる古都が好きだった。

 大津宮からつながる北陸道沿いに馬を走らせて宇治橋で少し休息を取り、さらに南海道を下っていくと、なんとなく雰囲気が変わったのを感じる。前方に大きな寺院が姿を現し、西へ進むと左方向に小高い山が姿を見せた。

「あれが香久山ですよ。で、あっちが耳成山。香久山の手前にあるのが磐余いわれ池。どうです、飛鳥は美しいでしょう?」

 まるで故郷を目の前にしているかのように、智麻呂が自慢げに言う。飛騨匠として何年も飛鳥の建築に携わってきたため、この土地に愛着があるのだ。よく整備された大路が南北に伸び、陽一の目に飛び込んできたのはまさしく都そのものだった。

 大路の東側に主要な官庁街と飛鳥宮の内裏が配置されている。屋根は朱色で塗られた板葺で、柱も朱色だ。壁は真っ白い。寺院は瓦葺で重厚な構えである。今でこそ残っている寺院の外観はモノトーンだが、これらの寺院が生きていた頃は瓦もつやつやと輝き、朱色の柱に囲まれた緑色の窓が一層の華やかさを添えていた。

 なぜだか目頭が熱くなった。新人の頃、会社の研修で飛鳥に連れてこられた時、山と田畑の風景を見ても今一つここに建築物があったとは想像ができなかった。しかし、飛鳥は今、目の前で息をしているのだ。

「驚きましたか?」

「ええ、こんなに素晴らしい都があったなんて……」

「我々は早く飛鳥に戻りたいと思ってるんですよ。確かに大津も風光明媚で交通の便も悪くはないが、飛鳥に勝る場所はありません。カヅラキ大王が大津に遷都するって決めた時は猛反発がありましてね。最初の頃は大津宮に不審火もちらほらあったくらいです。あっ、今のはここだけの話ですよ」

 話好きの同僚は小声で本音を言った後、首をすくめた。

 出張の目的は、飛鳥宮が建設された当時の様々な資料を集めること、現在の都の配置を書き取ること、測量することなどである。

 飛鳥宮には当然、今でも住んでいる人々がおり、留守司として都の管理をする官人たちが多く生活をしていた。留守司に出向いて挨拶をしてから飛鳥宮の木工寮で打ち合わせや作業を行うことになった。

「今頃、どうして以前の都の測量や情報を集めることにしたんですか? 大津宮を拡充するのでしょうか?」

 保管されている昔の木簡や文書を引っ張り出して必要なものを選り分ける作業に取り掛かった陽一は、智麻呂に尋ねた。

「あれ、言ってなかったかな? 新しい宮の造営のためですよ。これでまた飛鳥に戻るのは夢のまた夢ですねぇ」

 同僚はさらっと言ってのけたが、大津宮が機能を開始してからまだ五年も経っていないにもかかわらず新たに宮を考えているとはどういうことか。

「大津宮は小さすぎるし、外国使節を饗応する空間もないからね」

「今回の出張の意味を考えると、飛鳥のような都を造るんですか?」

「その通り」

外国使節を饗応する空間というのは、通常、内裏南門の外に設けられるが、大津宮の南門は琵琶湖の渚が迫っていて相応しい空間がなかった。

「そもそも、大津宮造営が構想されて着工した当時は饗応するべき外国はなかったから、小さくても仕方なかったんですよ」

 今から十年も前は唐や新羅と戦をしており、百済は国としては滅亡、高句麗も長引く戦乱で大和へ大がかりな使節団を派遣する余裕はなかった。しかし、今再びカヅラキ大王は百済を救援すべきだと考えており、百済再興の暁に必要となるであろう外国使節を饗応する朝庭を有する新しい宮を計画しているのだった。

 飛鳥での文書収集と調査が終わり大津へ戻るとすぐに別の出張を命じられた。次の行先は琵琶湖の東部にある蒲生評がもうのこおりである。

 開発はあまり進んでいない土地なのかと思ったが、蒲生評には既にそれなりの集落が形成されていた。そして地形を見ると、なるほど飛鳥のように周囲をなだらかな山に囲まれた広い平野で、琵琶湖を通じて北陸へ、陸路からは東国などへ行きやすい位置である。

「意外と栄えてますね」

「ほとんどが百済人なんですよ」

「えっ、そうなんですか」

 陽一が驚くと智麻呂が経緯を説明してくれた。数年前からカヅラキ大王は命により、百済の亡命貴族を始めとする百済人を近江東部へ移住させてきた。蒲生評の近隣の神崎評には四百人、蒲生評には七百人が暮らし、独自のコミュニティを形成している。そして、昨年、大王自ら出向いて新宮の造営地として蒲生評を視察していたという。

「何をするにも百済人を頼るしかないなんて…… オオトモ様の治世になられても側近たちは百済人でかためられるんでしょうねぇ」

 他の同僚から少し離れた地点で測量を始めた智麻呂はいつものように陽一にぼやいた。

 また三日間の滞在が終わると、次は報告書の作成と主計寮との調整が待っていた。陽一は技術者なので現地での報告書作成にだけ携わり、主計寮へ赴くことはなかったが、調整の間にも大津宮内の施設の修理や倉庫の造営など次から次へと仕事が舞い込んでくる。オオシアマの私邸に戻っても竜成も潤も不在なことが多く、まして仲間の女性たちとは一度も顔を合わせていない。


 比較的落ち着いた雰囲気で仕事に取り組むことができているのは貴子だった。よくサララや子供たちに同行して大津宮に遊びに行っていたので、勝手はわかっているし、大王家のメンバーだけでなく外薬寮や内薬司の中にも知り合いがいた。

 貴子の出番は多くの場合、大王家の子供たちが体調を崩したり怪我をした時であった。オオツは活発な男の子で時々、父のオオシアマと剣術や相撲の稽古をする。舎人たちと鬼ごっこのような遊びをすることもある。

「また転んじゃったよ、タカコ。ガマの粉塗って!」

「わかりました。今日はどこを怪我したの?」

 こんな感じで、オオツはやんちゃが過ぎると転んで膝や掌を擦り剥いたりして、騒ぐことはないけれども顔馴染みの貴子の元へやってくるのだ。

 この前は、カヅラキの娘アエが夏風邪をひいてしまい、食事が喉を通らないと言う。アエは布団の中から小さな声で、「あのね、喉が痛いの……」と訴えた。貴子は喉の炎症を和らげるヒオウギとキキョウを煎じた茶を持ってきた。しかし、アエは口をつけると思い切り顔をしかめて茶碗を貴子に返してしまった。

「だめよ、苦くても飲まないと」

 母親のメイが飲ませようとするが、アエは「苦いの嫌だ」と言って布団をかぶってしまったので、貴子はアエの大好きなクサカベの話を持ち出した。喘息を持っているクサカベも同じ薬を我慢して毎日飲んでいるのだ。

「クサカベもこれ飲んでるの?」

「ええ、そうですよ。アエ様のために元気になりたいって」

「……じゃあ、飲んでもいいかな」

 もぞもぞと布団から這い出ると、アエはメイから茶碗をもらい大きく息を吸うと、一気に飲み干した。あまりにも苦そうにしているので、貴子は念のために用意した甘味料のアマズラを一匙すくってアエに食べさせてやった。

 こうした仕事は何ということはなかったので、貴子はさらに大津宮の医薬事情を知るために外薬寮にいる知り合いの薬園師に頼んで薬園を見せてもらうことにした。

友背ともせさん、無理言ってごめんなさい」

「なぁに、これしきのこと。内薬司の職員が薬園に出入り禁止になってるわけではないからねぇ」

 友背はもう四十年近くも大王家の薬園管理に関わっており、自分の庭を歩くように薬園を案内し、今までに蓄えてきた豊富な知識を伝授してくれる生き字引的存在だった。この年齢ならもっと高い地位にいるか、引退しているかというところだが、友背は昇進を拒み今でも薬園師として勤務している。

 薬園での自主研修は内薬司の勤務が終わった後ということで、正午の鐘が鳴ると貴子は急いで薬園に向かう。特に約束をしていなくても友背はいつも薬園にいるので、貴子がやって来ると内薬司の仕事のことや世間話をしながら少しずつ薬園を案内してくれる。園内は薬草や植物の大きさごとに三つのエリアに分かれていて、さらに効能ごとに分類されていた。だいたい十日かけて説明を受け終わった頃には、貴子にとって新しい薬の知識がたっぷり加わっていた。

 ただ一つだけ、貴子には気になっていたことがあった。それは薬園の奥、背の高い植物や木が植えられている区域のさらに後ろに鍵のついた高い柵で囲まれた小さな一角である。およそ十五畳くらいの大きさだ。

「あの、あそこには何があるんですか?」

 貴子が尋ねると、友背は「やはり気になるかね」と答え、しばらく考え込んでいた友背だったが、「よし、見せてやろうかな」と腰に下げていた鍵を取り出した。柵の中に入ると側面は鉄格子で囲まれ、頭上の空間は外から侵入できないように棘の付いた格子が取り付けられているのがわかった。友背は貴子にここで見たものは口外しないようにと約束させた。

「薬園の奥にあるものは、薬園師、医博士それに呪禁師じゅごんししかその存在を知らないんだよ」

そう言って、友背は奥に向かって歩きながら手前から植物の名前を上げていった。

「シラギムクゲ、ヤマヂサ、ドクコラウ、ドクゼリ、ドクウツギ、そしてトリカブト―― さてさて、この植物たちが一体何かわかっただろう?」

 貴子は息を飲んで頷いた。自分の周りに生えている植物は全て強い毒性を持つものだった。

「あなたも知ってはいるだろうが、毒があるものの中にはごく少量であれば鎮痛薬などに使えるものがある。当然、多量を服薬すれば精神錯乱に陥ったり、死に至る」

「はい。でも……この毒草は薬としてだけ使われるんでしょうか?」

 つまり、貴子はここにある植物の毒を用いて人に害を与えることありえるのかと尋ねたのであった。思ったよりも好奇心旺盛な娘に、友背はやれやれといった風にため息をついた。

「まぁ、一つ言えるのはここで厳重な管理の元で毒草を育てているからには、意味がある、ということだね」

「じゃあ、やっぱり……」

 毒草は戦の時にも大いに利用される。よく知られているのはトリカブトの毒を矢じりに塗りつけて確実に敵を仕留める方法だろう。戦だけでなく、もし大王が命じれば、誰かの命を毒をもって秘密裏に殺害することだって可能なのだ。貴子は身震いをした。そして何となく気分が悪くなったような感じがして、しゃがみこんでしまった。

「どうしたんだい?」

「友背さん、ちょっと気持ち悪くなってしまいました」

「早く外に出なさい。悪臭を放ってる草もあるからね。こんなところ、長居するもんじゃあないよ」

 薬園を離れると貴子は清々しい空気を目いっぱい吸い込み、何度か深呼吸をすると気持ち悪さが消えていった。森林ではないにもかかわらず、大津宮の空気はおいしかった。

「もう大丈夫です。今日はどうもありがとうございました。勉強させていただいたおかげで、先輩から新人なのに知識が豊富ですごいって褒められるんですよ」

「それは教え甲斐があったなぁ。しっかり務めを果たしてくださいよ」

 会釈をして友背と別れ、貴子はオオシアマ邸へ向かった。途中、袖の中に隠してあるものを落とさないように確かめながら、帰路を急ぐ。袖の中には、トリカブトが数本、身を潜めている。あの薬園の奥で、具合が悪くなったのは本当だったが、友背が後ろを向いている隙にしゃがみこんで近くにあった草をもぎ取ったのだ。

 大津宮の奥でひっそりと栽培されている毒草の存在を、オオシアマに報告しなければならない。貴子の鼓動は速まっていた。


 何度やってもゆったりした動きが舞師の気に入らず、美輝は一人だけ居残り稽古をさせられていた。

「どうしてあなたは優美に舞うことができないのですか! 動きが男のようですっ」

 こんなのイジメだよー。自分はちゃんと踊っているつもりなのに悔しくて、でも古代のおばさんなんかに負けたくないと、美輝は飾りの団扇の柄をぎゅっと握りしめた。そこがまた舞師は気に食わなかったようだ。

「ほらまた力が入りすぎてますよ!」

 力を入れずにどうしてこの衣装で舞うことができるのか。雅楽寮の朝服は軽やかだったが、実際の舞踏衣装は動くのに適さない重さがあって、団扇を手にしながらゆったり動くのは至難の技だった。

 なんとか踊りきって舞師から帰ってよしとの言葉を引き出すと、美輝は私服の浅黄色の薄衣に着替えて左兵衛府の詰所に立ち寄った。ちょうど潤は下番したところで、これからオオシアマ邸に戻る支度をしていた。

「潤、一緒に帰ろ!」

「また居残りさせられてたのか。お前の師匠、奈都郎女なつのいらつめとかいうおばさんだろ? 評判悪いぜ」

「何で潤のとこで評判悪いの?」

「それがさ、この前、乗馬訓練をしてたんだけど、掛け声がうるさくて拍子がとれないって兵衛府にクレームつけてきやがった」

いかにもあの人のやりそうなことだ。

「ねぇ、聞いてよ。奈都郎女があたしの動きは力が入りすぎて男みたいって言うの。ひどいよね。百済舞がすごく難しくて… あたしはもっと動きが多い踊りの方が好きだなぁ」

 雅楽寮に初出勤した日、同僚である舞生たちが大勢いる中で、美輝は奈都郎女の指示で単独で舞うことになった。あなたの実力を見せてごらんなさい、というわけだ。美輝は自分なりに頭を働かせて、さすがにこの場所で得意なストリート系のダンスを披露するわけにはいかないと思い、出雲の市民ホール公演での神楽舞を選んだ。ところが、場の反応はどう考えても芳しくなかった。

課業が終わると、同僚の一人が美輝にこっそりと忠告をしてきた。

「ミキ、あなたが披露したのは神楽でしょう?」

「そうだけど… 出雲の舞だよ」

「じゃあ、尚更、もうあの舞は大津宮では踊ってはだめよ。ね、もしかしてミキはオオシアマの漂流芸能集団にいたの?」

「それは違う…」

「よかった。彼らの舞や音楽は邪道だもの! 落ち着きがなくて、騒がしくて、淫らで…どうしてオオシアマはあんな集団の味方をして、各地にのさばらせておくのかしら」

 同僚は忌々しそうに大王の弟と芸能民を批判した。雅楽寮は大王家の正統な舞と楽を担っているという自負と誇りがあり、どこの馬の骨ともつかない漂流民の感情を露にした踊りを卑下していた。

 すると美輝たちの会話を横で聞いていた別の同僚が口を挟む。

「オオシアマは海人族に養育されたから、あいつらの趣味に共感するんでしょうよ。それよりも毒されてるって言った方が適切かしら」

 本当は自分がオオシアマ邸に住み込んでいて、そこの主夫妻に仕えているなどと知れたらこの雅楽寮では即座に爪弾きにされてしまうだろうということを、美輝は初日から学んだ。

 別の日には酒の席で男性の同僚たちがこんな会話を交わしていた。

「詳しくはわからないが、大王が百済を救済されるお考えにも関わらず、オオシアマは全て反対するとか」

「その話は俺も右大臣様の宴で聞いたぞ」

「オオシアマの奴は直轄領が広いから私腹を肥やし、地方豪族に金品をばらまいている。謀反については蘇我の御史大夫様も懸念されていたよ」

「カヅラキ大王は早くオオシアマを処刑してしまえばいいんだ。きっと謀反を起こすに違いないからな」

 随分と物騒な内容だったが、美輝は自分の素性が何としても明らかにならないよう黙って話を聞きながら、同僚にさり気なく酒を注ぎ、気持ち良く内部の話をさせることに集中した。

 こうした宴や普段の何気ない雑談からわかったことがいくつかあった。

まず、これまでずっと大和の外交政策はオオシアマに託されてきたが、オオトモが本格的に政務に加わるようになった時から外交に関する情報は大宰府とは別のルートで蘇我赤兄が握っていること。御史大夫らが何かと理由をつけて、次期大王であるオオトモがなるべくオオシアマと顔を合わせないようにしていること。大津宮で育てられているオオシアマの息子オオツの教育係に百済の亡命貴族がつけられたこと。そして、近い将来、オオシアマを北方の蝦夷地に派遣し、開拓させようと左右大臣が計画しているということであった。

 政治的な動きにほとんど興味がない美輝でさえも、大津宮の中でオオシアマを政務の中心から排除し、あわよくばその存在を何年も遠方に追いやってしまおうという目論見が渦巻いていることは明白であった。

 居残りの帰り道、舞師に対する愚痴をこぼしていると、潤が尋ねてきた。

「つーか、何でそんなに早くから厳しく仕込まれてるわけ?」

「来月十八日に蝦夷を招いてパーティーを開くんだって! それの余興みたいな感じで、雅楽寮の舞生たちが踊ることになってるから……」

 蝦夷とは北方に住んでいる人々のことを指していて、タカラ大王の時代に阿倍比羅夫という豪族が遠征して蝦夷を服属させており、その後は武力でなく商業上の交渉や懐柔によって大和は蝦夷を管理下に置いていった。今回の宴も新たに懐柔された蝦夷の部族長らを招くために開かれるのだ。

「何だ、お前も行くのか。俺も大王の護衛でついて行くことになったよ。飛鳥寺だろ?」

「そうだったと思う。大津宮には接待する場所がないって言ってたなぁ」

 仕事で潤と同じ場所に行くことができるとわかった美輝は潤とつないでいた手を離し、嬉しそうに歩き出した。そろそろオオシアマ邸の入口に近づくので、二人とも単なる同僚のフリをしなくてはいけないのだ。

 部屋に入ると髪を梳かしていた貴子が「おかえり。遅かったね」と声を掛けてきた。貴子はまだ自分の恋人とルームメイトが頻繁に密かに夜中に会っていることを知らず、仲間として笑顔で接してくれているのだが、それがかえって美輝の心を突き刺した。「ただいま。貴子ちゃんは今日何してたの?」などと努めて平静を装うが、うまく微笑むことができていないに違いない。しかし、この世界では貴子と同じように頼れるのは潤だけなのだ。今更、あの力強く真っ直ぐな瞳を手放してなるものか。

 後ろめたさというよりも罪悪感に苛まれていたのは潤である。オオシアマ邸のすぐ西側には森があり、いつも二人はそこの祠で夜を過ごしていた。神が祀られているのかもしれないが、そんなことはおかまいなしだ。

 ある時、美輝を先に帰して夜明け前に屋敷に戻ろうとすると、突然声を掛けられた。

「潤、おはよう。こんな朝早く何してんの?」

 それは陽一だった。

「お前こそ随分朝早いな」

「走ってたんだ。怒涛の出張の後は一日中座りっぱなしだから、運動した方がいいかと思ってさ。……見間違えかもしれないけど、さっき、徳永さんと一緒にいなかった?」

 ここで「いや、一人だったよ」と白を切ることも、あるいはもっと大胆に「下働きの女の子だけど」などと煙に巻くこともできない潤である。隠し通さなければならない苦しさを、誰かに告白してしまいたいという矛盾が一瞬持ち上がり、潤は暗闇に紛れて罪悪感を陽一に吐露し始めた。

「見間違いじゃないよ。あれは美輝だ。さっきまであの森で一緒にいた」

 陽一は何となく予想していた返答にさして驚くこともなく頷いた。イズモで美輝が高天原側に捕えられ、潤が連れ戻した日から、二人の間から口論がぱったりなくなったのだ。

「俺は貴子を裏切ったんだ」

「…まぁ、確かにそうかもしれないな。実はさ、俺も昔付き合ってた彼女を裏切ったことがあるよ」

「お前が?」

「彼女がいるにも関わらず、いつの間にか桧枝さんを好きになってて、それをこともあろうに彼女に指摘されてしまったんだ。彼女に申し訳なくて苦しかった。けど、そのまま彼女と付き合い続けてても、彼女のことも俺自身も裏切ることになってしまうよね。だから、きっぱり別れたよ」

「そうだったのか。お前も意外と波乱万丈な奴だな。だけど正直言って、俺はまだどうしたらいいかわからない。お前の例に習うなら、貴子と別れるべきなのかもしれないけど、今この世界で貴子を捨てて美輝だけを取ることはできないよ」

「だろうな。これから何が俺たちを待ち受けてるかわからないし、貴子さんはきっと絶望的になる」

「……俺は一体何やってんだ。自分には貴子しかいないと信じてたんだぜ、これでも。今だって貴子が好きだ。なのに、美輝を抱かずにはいられないなんて…!」

「割り切らせてくれるほど愛の神は優しくはないってことだよ。こういうこと、頭で考えても悪い方向にしかいかないんじゃないかな」

 他人の恋愛事情に口を挟むことなどできるわけがないのだが、陽一はほんの少しだけ潤の立場が理解できた。陽一の場合、悩みはしたが考えるまでもなくりらを選んだ。しかし、気紛れな愛の神がどんな道を用意してくれるのかは誰にもわからないし、それに逆らってはいけないのだ。

「話したところで苦しいのは変わらないけど、聞いてもらってよかった」

 東の山の端がほんのりと白み始めた。潤は結局、一睡もしていないがいつものように早朝から鍛錬の時間があり、陽一もまた新規に作成しなければならない設計図がいくつも待ち構えている。陽一は今の潤の告白を他言しないと言い添え、二人はそれぞれの役所へ向かうことにした。

 左兵衛府の詰所は大津宮の東側、塀を隔てればすぐ近くに琵琶湖が迫っている位置にあり、宮の東半分の警護と水路からの人や物資の確認を担当している。西側を担当する右兵衛府は大通りと西中央門の出入りの確認を行う。

 急いで詰所で朝服に着替え身なりを整えると、兵衛たちは朝礼のために整列した。番長が挨拶と今日の宮中行事や注意事項をきびきびと述べていく。

「――諸君には以前から伝えていたが、本日は日嗣の御子ひつぎのみこが左兵衛府を観閲される。課業終了後だからといって気の緩みのないようしっかりと務めよ。右のやつらより良い評価を取れ。来月の蝦夷饗応で打毬まりうちの会に参加する者を選抜する意味もあるからな」

 今日の午後はちょっとした行事だ。オオトモ王子が定期的な視察にやってくる。大津宮の北側の浜辺で行われる観閲は左右兵衛府の士気と規律を競う場でもあり、今回は打毬という馬に乗りながら杖で毬を打って自陣のゲートに入れるという競技の選手を決めるおまけつきだった。もちろん選ばれれば名誉なことだ。

 問題なく課業を終え、昼食を兼ねた休息もそこそこに北の浜辺に集合し整列する。番長による号令がかかった。左方から馬に乗ったオオトモが、左兵衛府の幹部たちを引き連れて現れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ