ロンバルド伯爵邸
またある日のこと。この日も平穏に暮らしていたレミリアのもとに、魔王が現れた。
「レミリア。どうやら君は、モッチが相当気に入ったみたいだね」
魔王は、レミリアが抱えていたモッチの入った籠に目を止めた。
相変わらず、レミリアは飽きもせずにモッチの虜になっている。
ここへ来る前のレミリアは、やせこけた貧相な体型の少女だった。
でも、そろそろやめないと。本気で太りそうだ。
ルーナや料理長などは、たくさん食べるレミリアのことをもてはやしてくれているが、それもいつまで続くかわかったものじゃない。
「なんだか、レミリアのほっぺはモッチみたいな感触だね」
一抹の不安がよぎって暗い顔をしていると、不意に魔王が、レミリアの頬を片手でつまんで、フニフニと指先で撫でてみせた。
「……っ!」
魔王本人は、単に面白がっているだけではあろうものの。レミリアは、ほっぺたに触れた指先の感触が伝わって、思わず赤面してしまう。
またしてもぼうっとして、頭が真っ白になってしまいそうになった。
「――ところで、レミリア。また今度、私とともに町の外へ出かけてみないか?」
ややあって、魔王はここへ来た目的を思い出したように話題を変えた。
言われて、レミリアも我に返る。
「お出かけですか」
「今回は少し遠出になる。先日会ったアリシアの両親である、ロンバルド伯爵家の屋敷に招かれているんだ」
アリシア、と聞いて、レミリアは少しだけ警戒した。
先日町中で彼女と会った時、アリシアはなんだかレミリアのことを目の敵にしている様子だった。レミリアは少しだけ身を固くしたけれど、先日町へ出ていった時の興奮を思い出して、また新しい場所を見に行ってみたいという好奇心のほうが勝った。
「はい。アリシアさんとは先日、町でお会いしてよく覚えています。ご一緒したいです」
レミリアは快諾した。とはいえ、一抹の不安が残る。
(アリシアさんは、自分の方が魔王様の妃にふさわしいと言っていたわ。……魔王様は、アリシアさんのことをどう思っているのかしら?)
以前アリシアと会ったとき、彼女との会話の中で、レミリアには気がかりなことがあった。
それは、自分が花嫁になったことで、もともと想い合っていた魔王とアリシアの間を割いてしまったのではないか、ということ。
レミリアが魔界にやってきた経緯については、人間界で国王陛下からも説明があった。それ自体は仕方のないことだと、レミリア自身も受け入れている。――しかし。
魔王様もまたアリシアのことを心残りに思っているのなら、申し訳ない気持ちになる。けれども、それを魔王様に直接確かめてみる気にはなれなかった。
そういうわけで、再びアリシアと再会することに一抹の不安を抱えながらも、レミリアは訪問の当日を迎えた。
***
「レミリア。ロンバルド家のお屋敷はとても遠いから、今日は前回みたいに馬車では向かわない」
「えっ。では、どうやって向かうのですか」
レミリアは首をかしげた。
魔界は人間界の全土に匹敵する面積を誇ると、なにかの本で読んだ記憶がある。だから今回も、長旅になるだろうと身構えていた。
「足で向かうには遠すぎるから、ここから直接、向こうの屋敷まで転移する」
「転移」
転移魔法とは、人間界でも相当の魔力を持った者しか使えない超上級魔法だ。
上級魔法を扱えるような魔導士たちは、この転移魔法を使って人間界の全土を股にかけ、各地を渡り歩いていると聞く。現代でも数人しか扱えない魔法で、もちろん、レミリア自身が発動させることはできない。
「でも、私は転移魔法なんて、とても扱うことはできませんよ」
不安そうに魔王の方を見上げると、彼はレミリアを見下ろして微笑んだ。
「大丈夫。私が君と一緒に転移するから。レミリアは、私に掴まっているだけでいい」
頼もしく微笑むと、魔王はレミリアと、その後ろにレギュラスや数人の側近たちを従えて、城の中央にある広い広間へと入っていく。
そこは、初めてレミリアが魔界を訪れた際に、魔王との婚姻の契約を結んだ場所だった。
見上げるほど高い天井には、一面に神話を模した絵画が描かれている。ピカピカに磨かれた大理石の床には、大きな魔法陣が敷かれていた。
「しっかり掴まっていてね」
魔王はそう言って、いきなりレミリアの両脇を抱えると、軽々と抱き上げた。
びっくりしてレミリアが魔王にしがみついている横で、彼は何やら呪文を唱える。
すると、床に広げられた魔法陣がにわかに光りだし――次の瞬間には周囲の景色が反転して、気がついたら、まったく知らない場所の中にいた。
***
「魔王様。ご来訪を心待ちにしておりました」
レミリアが地面に下ろされると、そこはさっきいたホールに似ているけれど、部屋の作りの異なる別の場所だった。天井には、絵画の代わりに大きなシャンデリアが吊るされている。
キョロキョロとあたりを見渡していた時、部屋の奥で待機してこちらを出迎えていた一団が、レミリアと魔王の方へ歩み寄ってきた。
先頭に立っていたのは、白髪に黒い瞳をした魔族だった。
彼は優雅な身のこなしをした初老の男性で、見た目は人間っぽいけれど、尖った耳と、縦に裂けた黒い瞳孔は、人間とは相容れないような危険な香りを秘めていた。
その後ろには、先日出会ったアリシアが控えている。彼がアリシアの父である、ロンバルド伯爵なのだとわかった。
「ロンバルド伯」
「魔王陛下。遠路はるばる、ありがとうございます。お妃様にも、お初にお目にかかれて光栄です」
ロンバルド伯爵は魔王の前に進み出る。続いて、隣に立っていたレミリアにも一礼をした。
「はじめまして。レミリアといいます。お会いできて嬉しいです」
「ほう。なんと神秘的で麗しいお妃様でしょう。人間のお妃様にお目にかかるのは、何年ぶりでしょうか。たしか、先代の魔王様がお妃様を娶られて以来ではなかったかと」
ロンバルド伯は、意味深に目を細めて笑った。
言われて、レミリアは思い出す。
たしかに、人間と魔族が契約により婚姻を結ぶのは、百年に一度と言われている。魔王様が今年で百十七歳ということは、それはちょうど、先代の魔王がおられた時に起こったはずだった。
***
一行は部屋をあとにして、応接室のようなところに通された。
「魔王様。覚えていらっしゃいますか。私たちが幼い頃、よくこのお屋敷でご一緒しましたね」
到着早々、アリシアは魔王の方に身を乗り出して、彼にすり寄った。
アリシアが言うには、魔王と彼女は幼馴染なのだという。両親同士も親戚だというし、魔王がくつろいでいる様子からも、二人が幼い頃から親交の深いことがうかがえた。
「あそこの庭に植えてある石楠花の木を覚えていらっしゃいますか。毎年春に美しい花を咲かせるので、よく二人で眺めて遊んでいましたよね」
「たしかに、そうだったかも知れない。でも、もう昔のことなのでよく覚えていないな」
アリシアの熱量に対して、魔王は若干冷静だった。
会話を隣で聞きながら、レミリアはここへ来るまでに募らせていた不安を思い起こす。
(やはり……アリシアさんと魔王様は幼馴染で、とても親しい間柄だったのね)
レミリアはうつむいた。
だとすれば、いきなり魔界にやってきたレミリアのことを、アリシアがよく思わないのも当然だ。魔王様を横取りするような形になってしまったことを、レミリアは負い目に思い始めていた。
(それにしても……アリシアさんもあの魔王様と同年代ということは、少なくとも百歳は超えているっていうことよね。若々しいし、見えなすぎるわ……)
魔王に対しても、アリシアに対しても、レミリアはどちらも同年代くらいだと思っていたので。改めて、魔界の年齢感に驚かされていた。




