第1話:前線なき日々の残光
光と学術を重んじる大国、ルミナス・エルディア王国の首都ルミナリアは、夜の帳が下りる頃に最もその美しさを際立たせる。
白い大理石で築かれた均整の取れた街並み。その至る所に配された魔力灯が、淡く、どこか冷たい純白の光を放って石畳を照らしていた。中心部にそびえ立つアストレイア魔導学院の尖塔や大図書館のドームは、まるで地上に降り立った星々のようであり、この地が大陸最高峰の魔法教育と平和を誇る象徴であることを無言で誇示している。
しかし、その光が届かない路地裏の影、あるいは華やかな大通りから外れた古びた平屋には、世界の中心から取り残されたような静寂が横たわっていた。
「……静かだな」
ミレイユ・サン=クレアは、窓辺に腰掛けたまま、手元にある一杯の白湯を見つめてそう呟いた。
かつて戦場において「紅蓮の剣聖」、あるいは敵の一軍を瞬時に消し去る戦慄の抜刀術から「緋色の残光」と恐れられた彼女は、今、その前線を完全に退いて暮らしている。22歳という若さでありながら彼女が剣を置いた理由は、その落ち着いた赤髪の色が物語っていた。
本来ならば、古より炎の神の加護を受ける一族の証として、感情の高ぶりに呼応して激しく揺らめき、燃え盛るはずの髪。それが今は、まるで消えかけた熾火のように、ただ静かに肩へと流れ落ちている。
一族を滅ぼされ、己の炎の加護の大部分を奪い去られたあの日から、ミレイユの心は凪いでいた。無駄な殺生を嫌う彼女の美学は、戦う大義を失ったことで、静寂を好む平穏な日常へと彼女を落ち着かせていたのである。大理石を照らす魔力灯の冷たい光は、今の彼女の虚無に酷似していた。
その静寂を破ったのは、乱暴にドアを叩く音だった。
明確な拒絶の意を込めてミレイユが視線を向けるより早く、鍵の掛かっていない扉が勢いよく開く。
「おい、ミレイユ!いるんだろ!頼む、助けてくれ!」
現れたのは、かつて何度も同じ戦場で死線を潜り抜けた戦友、ベルンハルトだった。35歳という年齢以上に老けて見えるその顔は、今や完全に憔悴しきっている。重装鉄壁の盾職としていかなる魔獣の爪牙をも弾き返してきた大男が、今はまるで迷子の子どものように肩を落とし、片手で必死に自分の胃のあたりを押さえていた。
「騒がしいぞ、ベルンハルト。私はすでに引退した身だ。お前が戦うべき敵がいるなら、王国騎士団長にでも相談するがいい」
ミレイユは視線すらまともに合わせず、白湯を口に運ぶ。だが、ベルンハルトは構わず室内に踏み込み、手にして parchment の束を机の上に叩きつけた。
「それができたら苦労はねえんだよ!騎士団長も近衛も、王家の顔色を窺って動きゃしねえ。裏の案件なんだ。ここ数ヶ月、王都の裏社会で何が起きてるか知ってるか?アストレイア魔導学院の生徒や、身寄りのない平民の子供たちが、跡形もなく消えてるんだよ。それも連続でな」
「……誘拐か。治安維持の範疇だろう。ギルドの冒険者にでも任せればいい」
「普通の人さらいならそうさ!だが、これを見てくれ!」
ベルンハルトが広げた調査書には、現場に残されていた微かな魔力の残滓と、被害者の目撃情報の断片が記録されていた。
ミレイユの目が、ある一列の記述に留まる。
『現場の壁面および床面に、特殊な高熱によって抉られた痕跡あり。また、回収された被害者の衣類には、特殊な術式による魔力剥奪の痕跡が認められる』
それを見た瞬間、ミレイユの体内で、死んでいたはずの何かが確実に跳ねた。
じわり、と静止していた彼女の赤髪の先端が、微かに生き物のように色を濃くし、炎のような揺らめきを取り戻し始める。
「この傷口の切り口。この不快な魔力の残滓……。間違いない、奴らだ」
ミレイユの声から、先ほどまでの冷淡さが消え失せ、代わりに凍てつくような殺気が立ち上る。それは、かつて彼女の一族を焼き尽くし、彼女から全てを奪った組織の手口そのものだった。
「気づいたか。お前の一族を滅ぼした、あの『炎の加護』を巡る因縁の組織だ。奴らがこの王都の地下で、子供たちを使って何かおぞましい実験を始めてやがる。上層部は政治的思惑で動けない。動けるのは、籍のない俺たちだけだ」
ベルンハルトは深くため息をつき、再び胃を押さえた。
「おいおい、頼むからそんな怖い顔で睨まないでくれ。俺の胃はもうストレスでボロボロなんだ。これ以上、お前まで突っぱねたら本当に頼る相手がいない。……行ってくれるな?」
ミレイユは静かに立ち上がり、壁に掛けられていた一振りの長剣へと手を伸ばした。
鞘から引き抜かれた刃が、魔力灯の光を反射して鋭い光を放つ。
「私はもう、無駄に血を流す男たちを見たくはないと言ったはずだ、ベルンハルト」
彼女は剣を滑らかに鞘へと収め、腰に帯びた。その瞳には、かつて戦場を震撼させた「紅蓮」の輝きが、確かに宿り始めていた。
「だが、私の過去が子供たちの命を脅かすというのなら、話は別だ。案内しろ、ベルンハルト。その組織の尻尾を、今度こそ叩き斬る」




