夕闇に 散らじと願う 花なれば 明けの明星 道を照らせり 2
並んで縁側へ座る
夜風が涼しく頬を撫でた
庭の夕顔の花が闇に白く浮かび、虫の声が遠く近くで重なり合っている
月はまだ昇らず、星だけがちらちらと瞬いていた
暁はしばらく黙っていたが、やがて静かに私の名前を呼ぶ
「夕顔」
暁の、小さな、少し震えたような声
「俺は、ずっと、自分が何者なのか分からなかった」
夕闇の中で、暁の横顔が淡く揺れる
「原典には名もなく、筋書きにも記されず…
誰の記憶にも残らないはずの人間だ」
その言葉に、胸がきゅっと痛んだ
「右大臣家の子として生きてきたけれど…
それも「与えられた役」にすぎない気がしていた
俺が何者で、どこへ向かうのか…
ずっと答えがなかった」
暁は拳を握り、それをほどくようにゆっくり息を吐く
「でも…」
その目が、まっすぐこちらを捉えた
「君に出会って、初めて気づいたんだ
誰かのために灯りをともすこともできる、と」
一呼吸置いて、暁は言葉を紡ぐ
「俺は…
夜と朝の境に立つ、薄明の光」
香の煙がふわりと揺れ、夕顔の花が白く光を返す
「夕闇に咲く薄命の花を、散らさぬよう…守るために…」
暁の声は静かで、けれど確かな熱を帯びていた
「君が迷う時は道を照らす灯りになりたい
君が泣く時は、そっと寄り添う風でありたい
君が笑う時は…その光を隣で受け止めたい」
私は息を呑んだ
庭にはしばらく風の音だけが響く
夜はまだ終わらず、朝もまだ来ない
その境界の静けさの中で、暁は夜空を見上げながら続けた
「でも、俺は…
俺には…家の務めがある
右大臣家の子として生まれた以上、背負わなければならないものがある」
薄明の気配が、彼の横顔を淡く照らした
「未来を約束できる立場じゃない
君を縛るような言葉も言えない
君を政治に巻き込みたくもない」
そして、ほんの少しだけ声を落とす
「けど…」
暁は、こちらに顔を向け、じっと私を見た
「君が望むなら…俺は、ずっと君の傍にいる」
私の…傍に…
「願いでしかない
君に応えてほしいとも言えない
ただ…これが、俺の正直な気持ちで」
私は、そっと目を伏せる
涙ではない
原典では、儚く散る運命を背負った女
夜に咲き、朝にはしぼむ花のように
誰にも守られず、誰にも照らされず
ただ闇に溶けていく存在
でも…私は…
そっと近づき、暁の肩に頭を預けた
絹の擦れる音
感じる体温
暁の早い鼓動が、耳元に伝わってくる
目を閉じたまま、静かに言った
「私は、原典の夕顔ではない
あなたが照らしてくれなくても、歩ける」
暗闇の中でも、散らじと、歩いて来た
あなたを失っても、もう怖くない
「でも…あなたが照らしてくれるなら…
きっと今よりも、ずっと歩きやすい」
頭上から、息を呑んだような音が聞こえる
「夕顔…」
目をそっと開け、呟くように言う
「だから…その気持ちだけで、十分です」
庭の夕顔が、夜風に揺れる




