霧の中
目の前は真っ白だ。モヤのようなものが視界をふさぐ。
この風景には見覚えがあった。
頭に霧のかかったあの感じ。リンがいた、あの場所だ。
何も見えない、が、リンがいるような気がしてあたりを見回す。
視界にはただただ白いモヤ。霧。
道がないのに、先が見えないのに私は何も考えずにすたすたと歩く。
大声を出してリンの名を叫びたいのに、何故か声が出せない。
何かおかしい。
何かの視線を感じる。威圧される。
……こわい。
何者か、がクックックと笑った、ような気がする。
それは嘲るようないやらしい笑い。
私はその視線から、恐怖から逃れるべく走りだした。
この霧の中を。
「こっち!」
ふいに声が聞こえた。嫌な感じはしない。
声のする方向に走る。
リンではないのはわかるけど……なら、誰? 聞いたことのない声。
「こっちだよ!」
で……、なんで。
――なんでタマラは裸で寝るの……。
目を開いたらこの世界。
横には裸のタマラ。豊満な胸、みえてるみえてる!
深く深くため息をつく。
怖い夢をみた。
いや、あれは夢ではないんだっけ?
わからない、わからないけど。
あの時、あの声が呼んでくれなかったら……恐ろしい事がおこっていた気がする。
私を見つめていた視線、あれは。
あの絡みつく視線は『悪意』だ。
思い出しただけで背筋がうすら寒くなる。
あの世界は一体なんなのだろう……。
「……ん~……おはよぅ~」
「おはよ。ねぇ、タマラ……なんで服きないの……」
「ん~……それは……」
「うん?」
「裸の方が気持ちいいでしょお~?」と素っ裸で抱き着くタマラ。
ちょおっと!? 同性とはいえ、ほんと焦るからやめてー。
ふと。夢の内容をタマラに伝える。
「ねえ、タマラ……私、またあの場所にいったよ」
「? あの場所?」
「霧だらけの世界……」
「……そう、リンはいた? それとも何か情報を手にいれた?」真剣な顔で問いかけるタマラ。
「リンはいなかったよ……何の情報も手に入らなかった。だけど、あの世界はなんだか……凄く怖かったよ……」
「……そう……」
ポフポフと頭を叩いくタマラの優しさに安堵する。
「さあ、今日も頑張ってご飯つくってくるわね! あの子にいっぱい食べさせてあげなきゃ!」
そうだ、あの子。
薄汚れ異臭を放つ、あの細く小さな子供……随分と衰弱していたが顔にほんのりと紅色がさしていた。
元気になってくれればいい、と思う。
目をぼんやりと半開き、口から舌をだらりとだした生気のないリンの顔を思い出し、キュッと心臓が縮みあがる。
いやだ。いやだ、いやだ! あんな思いはもう。
リビングにいく。ソファーの上に横たわる子供。
タマラと私、心配そうに顔をのぞき込む。
じっ……と薄紫色の瞳がこちらを見つめ返していた。
一瞬、死んでいるのかと思う程静かに。
上下する胸元に安堵した。
――が。何をいえばいいのか。
「おはよう? お腹はすいてる? ご飯は食べれるかしら?」とタマラ。さすが。
私も精一杯の笑顔で「おはよう」と小さく呟く。怖くないよ、敵じゃないよ、ここはもう安全だよ、そう思ってもらえるように、精一杯優しく。
「――知ってる……」その子供、いや彼ははっきりと、確かにそう言った。
その声に私はギクリとする。
私も、知っている。
貴方の声。
彼は見つめていた。私だけを。
何かが繋がりそうな……わかりそうな気がする。
そうか、この子だったのか。
こっちだよ!そう言ったのは彼。私は彼の声を頼りに走った。
「私を助けてくれたのは……あなたなのね?」
虚ろな紫色の瞳は遥か遠くを見ているかのように、ジッと目を細めてボソリとつぶやいた。
「知ってる……僕は知ってる。でも言えない。彼女はそれを望まない」
リンの事だと思った。
彼は知ってるんだ、リンの事を。
「リンは何処にいるの? 探さなきゃ! あの子に会わなきゃ……違う……リンに会いたいよう……」
涙が溢れる。泣いてばかりだ、私。
それでも彼は私を一瞥するとふいと顔をそむけてしまった。
何故何も教えてくれないの? 知ってるんでしょう? なのにどうして?
聞いたのは地の底をはいずりまわるような不快な物音。
それが誰かの話し声だと気づくのにわずかばかり時間がかかった。
不快な声の主はその耳障りな聞き取りにくい声で問う。
「……助けようと思うなら、お前はまた死ぬ事になるだろうよ」
その問いに答えたのは、なんとも不思議な声。
声、というか……頭の中に響く文章? 上手く言えないけど、声とは言えない声?
その主はとても必死で切なげに叫ぶ。
「それでもいいよ! 私はどうなってもいい! 彼女が幸せならそれで……」
「馬鹿だなあ。お前がいなくなれば彼女はとても悲しむだろうさ。幸せになんてなれやしないのにお前が命をかける理由があるのだろうか」
「やだ! そんなのやだやだやだ! でもそれでも死んでほしくない! 好きなの! 大好きなの!」
「ならば選ぶしかない。君にとって最良の選択を」
「……お願い…お願い! お願い! 助けて! フユミを助けて!!」
「いいとも。取引完了だ。では君は連れていくといい、彼女を。彼女が死なないですむ世界に」
「……どうやって?」
「それは君が考えればいい。彼女はあの世界にいると死ぬ運命だ。死なせたくないなら手段を選ばず連れていくがいい」
「フユミ、それで助かる? 生きていける?」
「それは君次第。転生した君が彼女の代わりに死を引き受ければいい。ただし、君の存在を知られてはいけないよ。それが条件だ」
「うん! うん! それでいいよ!」
僕は息を潜めて話を聞いていただけ。
よくあんな恐ろしいモノと取引ができるもんだ。きっとアレのもたらす死はただの死じゃない。
考えるだけで背中に冷たいものが走る。
ふと。全身から脂汗がどっと流れ落ちた。
見られてる。気づかれてる。僕が潜んでいることに。
殴られたり蹴られたり、死んじゃうかもと思った事は何度もあったけど、これ程までに恐ろしい思いをした事は一度もない。
僕は今、死の真っただ中にいる。
まるで小さな箱の中に閉じ込められたような圧迫感と息苦しさ。
体温が上昇、目が回る中、確かにアレは僕に向かってこう言った。
「君にも重要な役割を担ってもらおうか」
ふと細めた目を彼女に向けて逸らす。
この人がフユミ。この世界では見ない顔立ちの少女。ああ、あの声の主は上手くフユミをこの世界に連れてくることが出来たのか……。
ならばあの声の主は恐ろしい死の運命を手に入れた事になる。
……可哀想だ、と思った。
彼女は何も知らない。知ったところで良い事など一つもない。
フユミがこの世界にいるというのなら声の主も転生したのだろう。
そして彼女の死の運命を引き受けるべく、今も何処かで生きているのか……それとももう死んでしまったのか?
どちらにしても僕には何も言える事がない。
声の主が生きていようがいまいが、彼女は生きてると信じて探し続けるしかないのだから。




