第七話 二日前(2)――最凶
――ねえ聞いたー? 東校舎で喧嘩だってさー。
――年明けてから多いねー。やっぱアレ? 四強が埋まったのが刺激になったとか。
――その四強の新入りだってさ、片っぽ。
――え、マジ? 四強に喧嘩売るって、そんな命知らずまだウチのガッコに残ってたんだ。
――いやいや、その子の事まだ四強って認めてない人割といるよ? それに、結構数揃えてたらしいし――
そんな雑踏の噂話を食堂で小耳に挟んだのがほんの数分前。まだ大半が残っていた生姜焼き定食をバクムシャゴクン! と一気に平らげて食堂を飛び出した。
何やってんだあいつ、と心の中で悪態を吐きながら廊下を駆け抜ける。スピードを落とすことなく廊下の角を曲がったら、いきなり男子生徒の顔に出くわした。
「うわっ!?」
ギョッとなって固まる彼に構う余裕もなく、急制動とともに身体を無理矢理横へ倒す。体重移動に従って足を動かし、もつれながらもどうにかぶつかりも転びもせずに男子生徒の横を擦り抜けた。
「ごめーんっ!」
振り返らずに謝罪だけ投げかける。周りの迷惑も顧みず、目的地へ向けて再加速。
玄関前に差し掛かる。校舎の東と西を繋ぎ、上は四階まで吹き抜けのエントランスだ。
その左右にある階段の東側――これから向かう現場に近い方の階段から、ひらりと降り立った人影。優姫先輩だ。ここまで随分な速さで駆け下りてきたんだろう、スカートがふわりと浮かび上がる。が、その中身が見えるところまでは決していかない。何その超絶技巧、是非教えてください。
と、眼鏡の奥の瞳がちらとボクを捉えた。そのわずかに動きを止めた間に先輩の場所まで追いつく。
「人身だけ気を付けて」
「押忍」
一言ずつやり取りして、その引き締まった脚が再び地を蹴る。普段なら「廊下を走るな」と注意が飛んでくるところだけど、目的が同じってわかってるんだろう。その辺りの融通は効く人だ。……すでに事故りかけた事はナイショの方向で。
目的地へと並走する。
「……ッ」
並走だったものが、みるみるうちに先輩が先行していく。その背中を見て思う。遠い、って。
別に脚の速さにこだわりがあるわけじゃない、陸上部じゃあるまいし。ただ、何をやっても敵わない相手だという事を折につけて認識させられるという、それだけ。
その事をどう捉えるかはその時のボクの心境次第で様々だ。ポジティブならなにくそと反骨心が沸き立つし、ネガティヴなら卑屈な心持ちに。今は……。
と、深く考える間も無く二人とも目的地に――ほぼタイムラグもなく――現着。でもまだこおりちゃんたちの姿を確認出来てはいない。何故って、毎度お馴染み野次馬の皆さんが壁になっているからさあ!
「ほら、そこ通し、てっ!」
もう慣れたもので、人垣の中に身体を無理矢理突っ込んでいく。おや、いつもなら後ろからグイグイ行くとまず文句が飛んでくるっていうのに、今日は皆さん素直な事。っていうか、妙に静かだね、皆?
という訳で割とスムーズに人垣の先頭に躍り出ると、
「よいしょ」
何の気負いも無い掛け声で、
ゴキン
人の肩の骨を外す周防こおりを目の当たりにした。
「――」
息が詰まった。
足が止まった。
そうして停滞した今も、
「わああああ!」
こおりちゃんは袋叩きに遭っている。肩を叩かれ、背中を蹴られ、頭を大きく振りかぶった拳で殴られている。
にも関わらず、止まらない。腕をぶらりと垂れ下げた男子を解放して、次の獲物へ手を伸ばす。
なおも恐慌状態で殴りかかってくる哀れな獲物に、こおりちゃんは一切の慈悲無く冷静にカウンターで顎を払う。がくんと泳いだ身体を確保。この間、こおりちゃんは他の人間からは殴られ放題。でも止まらない。
せっかく人数の利があるんだから、闇雲に殴るばかりじゃなく羽交い絞めにして動きを封じるなりするべきだ、と思うだろう。その行動の成れの果てが、手の指をあらぬ方向へひん曲げられて転がっている少年だ。
イメージしたのは、工業用の重機械。人を巻き込んでもお構い無しに動き続ける、安全装置のイカれたヤツ。
喧嘩になんてなっちゃいない。まるで作業のように淡々と人を壊していく。
――まるで、じゃなかった。まさに、作業だ。
これだけ人がいて、これだけ一方的で、なのになんで誰も止めに入らないのか。いつもみたいな馬鹿騒ぎにならないのか。よく分かる。ボクだって同じ事を思ったからだ。
巻き込まれたくない。
感情任せに暴れている人を止めに入るより、むしろその可能性は低いはずだ。
そうと分かっていても躊躇してしまうのは、この光景があまりに人間味からかけ離れているから。
正直、「肩の骨を外す」という行為を「首の骨を折る」、「五体をバラバラに解体する」と差し替えたとして、何の違和感も持てない。同じようにやってしまうだろうという確信が持ててしまう。
流れ作業で同じ事を繰り返すだけ。
だから、何かの手違いで異物が紛れ込んでも同じように作業を続けるんじゃないだろうか。自分に注意を向けさせてしまったら、自分も解体待ちの順番に載せられてしまうんじゃないのか。――そんな錯覚をこの場のほぼ全ての人間が抱いてしまっている。
全てが終わるまで誰も彼も息を潜めて動けずにいる――
――こおりちゃんの手首に絡んだ鋭い手。男子を掴んでいた手を切る。
その流れでこおりちゃんの肩に手が置かれ、くるっと身体を彼女と正対する形に廻される。
多分、こおりちゃんと優姫先輩の目が合った。
ズパンッッ! とこおりちゃんの腹部で派手な音がした。ボディーブロー。くの字に折れ曲がる身体。
「…………」
そのまま膝から崩折れる様に倒れる。ふぅ、と先輩が細く息を吐き、この場を仕切り始めた。
「野次馬集団は怪我人を保健室まで運んで。見物料よ、安いものでしょ」
どこが、っていう心の悲鳴が聞こえた気分だ。
「元気な奴らは後で事情聴取。顔覚えたから逃げられると思わないで。口裏合わせくらい普通にやる気でしょうけど……基本彼女の証言と食い違ったら痛い目見ると思っておけばいい」
ぴっと腕組みしたまま指さした先を見て、男子生徒を膝の下に組み敷いた心がいる事に初めて気付いた。
「あら、まさかあの副会長に贔屓目で見て貰えるとは思わなかったわ、あたし」
「そんな返しが出来るくらい平静だからよ。一番まともにこの場で起きたことを見ていたんだから、基準にするのも当たり前でしょう。――ああ、そっちの件についても話聞かせてもらうわね」
そして最後に足元へちらと一瞥をくれる。蔑んだ冷たい瞳で。
「さて、どうするか。いくら校風といえど、流石に限度はある。これだけの被害が出ては、出すところに出さざるを得まい」
ざわ、と緊張が走る。
驚くべき事に、喧嘩沙汰に基本お咎めが無いという奇特な学則のこの学園で、そういった事案で警察が介入してきた例は存在しないらしい。「単に学園側が事なかれ主義を発揮した結果じゃないのか」って言ったら、「だったらそもそもこんな規則にしてないだろう」って返してきたのは誰だったっけ。とにかく、一種の禁忌か聖域扱い。治外法権とまでは言わないけど、なんかそういう外から手を出されないものという認識が学園生徒にはある。
つまり優姫先輩のこの言葉はその聖域を破る前例を作ってしまうという事で、それほどこの惨状に腹を据えかねているという事か――
「ふむ、僕は反対させてもらおうか」
これに正面から否と唱えたのは、いつの間にやって来たのか、キョウ会長だった。
「これだけの被害が出ているのにか?」
「出ているから、かな。これではどちらが原因だったかに関わらず彼に重い罰が与えられかねない」
「その辺りは学園側から事情を念入りに話すしか無いわね。多少は重い罰も仕方ないでしょう。これを機に加減を覚えてほしいところね」
「適切な罰を与える裁量なら生徒会に与えられている。その権利を手放し、放棄すると?」
「その裁量内で収まるか怪しいところだからだ。これ、絶対に生徒の中だけで収まる話にならないと私は思うのだが?」
「そうかもしれないな。だが我々の側から放り投げる気は僕にはない。生徒会長として、な」
火花散る睨み合い、続く優姫先輩の反論――は、そこで急に止まる。開きかけた口を閉じ、ふう、と息を吐いた。え、何で? いや、どっかで止まる気だったんだろうけど、なんで唐突に?
「……いいの? こんなところで強権を持ち出してしまって」
「自分の力の影響力を少し甘く見ているようだね、優姫クン」
肩を竦め、一言。
「この件は外には持ち出さない。少なくとも生徒側からは。生徒会長としての決定事項だ」
強権を発動して優姫先輩の口を完全に塞いだ。……あ、もしかしてそういうこと、かな?
「……従いましょう」
それだけ澄まし顔で告げる優姫先輩。しかしどこかその様から不服さが伝わってくるのは気のせいじゃないだろう。
「さて、こんなところかしら。ところで……まあ自業自得だとは思うのだけど」
スッと。
鋭い視線が、こちらへ向けられる。
「――一体いつまで怪我人を放置しておく気なのだか」
矛先を向けられたその他大勢の肩が、びくんと跳ね上がった。
――以上が、こおりちゃんが四強『最凶』と呼ばれるようになる顛末。
ここから先が、その舞台裏。
野次馬がこの場から消え去るまで数分も掛からなかった。当事者である喧嘩の加害者、それに心と押さえつけられていた男子生徒もキョウ会長に連れられて行った。
残っているのは、ボク含め三人。ボクはともかく、もう一人は先輩が残すよう促していた。逆らおうなんて人は誰もいなかった。
――きっと、大半がその理由を勘違いしてるのだろうけど。
「少し安心したわ」
ぞろぞろと引き上げていく生徒たちを見遣っていた先輩が、その背中が廊下の向こうに消えたのを確認してひとりごちた。
「中世のフランスじゃあるまいし、流石に処刑は娯楽にならなかったようね」
「いや、処刑て。大袈裟な」
応えは、先輩の足下から。
ボクは気付いてた。流石に、あの音は派手過ぎた。
むくりとこおりちゃんが何事もなかったかのように身を起こす。
「悪かったわね。悪人……違うわね。敵性扱いして」
「いいんじゃない? 場を収めるのに最適な方法を選んだだけだろ? 何も問題ないじゃん」
――要はそういうことだ。優姫先輩はあの場で恐怖を一身に集めていたこおりちゃんを叩き伏せることにより、場の主導権を握り取ったのだ。
派手なボディーブロー。見た目のインパクト重視で、大したダメージになってないってボクにはすぐにわかった。
「誰に敵視されようがどうでもいいよ。――お前がそう思ってないならどうでもいい」
そう言って拳をコツンと先輩の額にぶつける――つもりだったんだろうけどひょいと避けられる。
「……ノリが悪い」
「普段の貴方も大概でしょ」
むうと口を尖らせるこおりちゃんに澄まして返す先輩。
「しかし、会長にも困ったものだな。彼なら私を退かせる論旨くらい用意できただろう。多少粗があっても結局茶番なんだから私が気付かないふりすればいいだけの事なのに、何度も振るえない大鉈をこんなところで……」
「いや、あれで正解」
ボクもそう思う。ぶっちゃけ、論戦だろうと敵対者相手に優姫先輩が素直に退くなんてはっきり言って不自然だ。実像がどうなのかはこの際関係がなく、みんなそう思ってるっていうのが問題。それで違和感を持たれるより、ぶった切った方がマシってのがキョウ会長の考えだったワケだ。
「ちなみに、私が本当に怒ってたらどうしてたの?」
「ガタガタ震えて土下座する」
「……プライドもへったくれもないわね」
「当たり前だ、こんなクソどうでもいいことでお前と敵対するくらいならプライドなんて二束三文で売っ払うわ」
ふんす、とむしろ堂々と答えるこおりちゃん。
その返答自体は実にポピュラーだ、霧学生としちゃ。ただしこおりちゃん、その返しは普通畏怖と一緒に出てくるもので、キミみたいに親愛を込めて口にされるものじゃないんだよ。
親愛。
あの周防こおりから。
そも、いつものこおりちゃんならあそこでやられたフリなんて多分しない。空気を読まずに他人のプランを台無しにするのがこおりちゃんクオリティだ。
なのにあそこで倒れたのは、優姫先輩に気を遣ったからなんだろう。
あのこおりちゃんが。
……ああ、こうして見るとよく分かる。
二人の距離の近さと、二人との距離の遠さが。
「けど、あれだ、いくらなんでも過剰でしょ!」
それを改めて意識して、ようやく会話に割り込――加わることが出来た。ちょ、こおりちゃん、「あ、いたんだ」って目が言ってるぞ!
「手出してきたのは向こうからだし、やり返されるのは覚悟の上でなきゃおかしいだろ。覚悟が無かったっつーなら、それは俺のせいじゃないし」
「そりゃわかるけどさ、うん。ボコボコにするのは何も文句なんてないんだけどさ、程々ってもんがあるんじゃない?」
「なんでそれを俺が気にする必要が?」
うわあ……本気で首傾げてるし……。
「……先輩」
「わかってる。早めに躾けよう」
わお、こちらもバイオレンス。
――さておき、ようやく先輩が本題を切り出した。
「それで、これは何事?」
「それはこちらのセリフだよ。いや、あの有象無象についてはどうでもいいんだけど」
多分優姫先輩はその「どうでもいい」ことを尋ねたんだと思うけど、こおりちゃんはそこをぶった切って逆に訊いてきた。
「あのさ、なんでお前……いや、あの野次馬どもが集まってきたか知らない?」
「? 喧嘩騒ぎがあったからでしょ?」
思わずそう答えると、二人とも顔を顰めた。もっともその理由は違っていたけど。
「それで人が集まるとか、この学園の風紀は、本当にもう……」
呆れとも苦慮ともいえる感情を滲ませたのは優姫先輩。
「なんで、この場所に集まってきたのか。もっと言えば、どこからこの話が伝わったのかってことだ」
こおりちゃんのそれは、求めた回答が得られなかったものだった。
とはいえ、そこまで言われれば何が言いたいのか理解できる。ここは特別教室棟。こんな昼休みの時間に滅多に人が集まる場所じゃないってことだ。
「ふむ……そも、どうして貴方はここにいたの?」
「偶然。ま、その辺の事情は明野にでも聞いてくれ。……だから、あの有象無象が沸いて出てきたのも同じ理由でおかしな話なんだよね」
「あー……ボク、人が話してるのを小耳に挟んだだけで……」
「私も似たようなもの。だが、どうやら積極的に散布していた者はいるらしい」
そう言って先輩がスマホを取り出す。それでピンときた。
「SNS?」
「何それ?」
思わずこおりちゃんを二度見した。このヒト、ホントに現代人ですか……?
ともかく、優姫先輩が開いた学内SNSには今一番のホットなニュースとしてこおりちゃんの乱闘騒ぎがリアルタイムで更新されていた。
「うわあ、書き込みの件数すごい……」
ちなみに、ボクはコレあんまり見る方じゃない。ボク一応四強っていう有名人だから、名前が登ることもまあ頻繁にあるワケだよ。タイトルに上がってるの見ただけで精神ゴリゴリ削られそうなんだもん、保たないって。
……まったく見ないってワケでもないけど。
「ふーん、便利な世の中になったもんだねぇ」
「こおりちゃん、それおじいちゃん臭い」
突っ込むもスマホの画面をジロジロと見ていたこおりちゃんにはスルーされる。
「ねえ、そのタレコミ何時ごろから始まってる?」
不意に、そんな事を尋ねてきた。
「事が始まってあんま時間経ってないんだよね。いつから居た、とか細かいことは認識してないけどさ、あれだけの人数が集まるくらい拡散するほどの時間があったとは思えないんだよね」
「つまり?」
「順番があれかな、と。騒ぎが起きる前に、もうその話が広まってたんじゃないかな、と。で、実際どう?」
「どう、と言われても、その時間がわからない事には判断のしようがないが」
「逆算すりゃいけないか? あれらが群がってきてから多分まだ十分少々ってとこ……ああいや、明野に訊いた方が詳しく出るかな? あいつ手持ち無沙汰だったろうし」
「その結果がどう出るかはともかく、周防はこう考えているわけだな――」
――誰かが裏で糸を引いている。
「……その言い方だと無駄に大物っぽく聞こえるなあ」
「緊迫感出そうな場面に足払いかけてぐーんとテンション下げるの得意だよねこおりちゃん」
いや、わりと同感なんだけどさ。陰でコソコソしてるだけのヤツをそんな御大層な持ち上げ方する必要なんてないよね、って。
「まあ、なんにせよあの脳筋どもを煽ったヤツがいるのは確定してる。野次馬を集めて何がしたかったのかはよくわからんけど」
「もしかして探す気があるの?」
先輩が心底意外という声で問う。まったくもって同感だ、この面倒臭がりが自分から動くなんて。
「多分コレ、放置した方が面倒になるヤツだから」
こちらの認識に反駁するでもなくそう言って溜め息を零すこおりちゃんは、やっぱりめんどくさそうだ。
……………………ん?
これ、チャンスかも。
犯人をボクが先に見つけて教えて……ううん、カタつけてから教えるのでもいいよね、面倒ごとが減るワケだし。
そうしたら恩を売るとか、貸し作るとかじゃなくて、ああいやボクの場合返すだけどそうじゃなくて、今の状況を改善する切っ掛けくらいにはなるんじゃないか? うん、きっと多分そう、関わらないよりは断然マシ!
もちろんボクに探偵のノウハウなんてないんだけどさ、幸いなことに当たりならもうつけてもらってるし。
……イケるんじゃない?
……いい加減学習するべきだろう。
軽々しく関わろうとしたら、
重たく跳ね返ってくるってことに。