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第九話 一人の男が戦争を止めた

パリーン――ッ!



 グランディア帝国・皇城の豪華絢爛な謁見の間。静寂を切り裂き、上質な水晶のワイングラスが石畳の床に激突して甲高い音とともに粉々に砕け散った。「ガルトス総戦士長!今なんと申した……!?」声を荒らげたのは、グランディア帝国皇太子レオハルトである。端正な顔立ちを猛烈な怒りと困惑に歪め、金の刺繍が施された白と黒の皇族礼服を激しく揺らしながら、目の前に平伏する老将を睨み据えた。その傍らでは、豪華なドレスを纏った皇太子妃エレノアが、あまりの怒号に肩を竦め、不安げな眼差しで夫の袖を必死に握りしめている。玉座の前に膝をつき、深く頭を下げているのは、帝国軍最高位の総戦士長ガルトス・アイゼン・ベルクであった。数々の勲章が胸元で重たく擦れ合う音を響かせながら、ガルトスは一切の動揺を見せず、地響きのような声で再び言葉を紡いだ。「アルヴェリア王国に対する全武力介入および、全面侵攻作戦の……『即時・完全撤回』を進言いたします。これが、自ら単身で敵地へ赴き、敵の最高戦力と直接刃を交えて導き出した我が結論にございます」「ふざけるなッ!!」レオハルトは床を激しく蹴りつけ、指を突きつけた。「我が国が誇る一万の重装甲軍団と極大魔導砲隊を投じれば、あのような弱小国、一ひねりで灰燼に帰せるではないか!それを戦う前から退くというのか!?ガルトス、貴様は帝国最高峰の戦士長としての誇りと威信を捨てたのか!!」「数で言えば、圧倒的に我が軍が優位であることは間違いございません。……ですが」ガルトスはゆっくりと顔を上げた。数十年の惨劇の戦場を生き抜いてきた歴戦の老将の瞳には、怒りでも羞恥でもなく、冷たいまでに純粋な『恐怖と敬意』が宿っていた。「……かの地に鎮座する聖女の右腕と呼ばれる男……アーカイブ・プロトコル。あの男の実力は、かつて我が国を震撼させた伝説の千年龍と同等……いや、それを遥かに凌駕しております。我が軍の全威信と全戦力を懸けて挑もうとも――」



「ハッ! それがどうした!!」



 レオハルトは嘲笑うように吐き捨て、金髪を荒々しくかき上げた。「大方、アルヴェリアの連中が流したハタリの噂ごときを真に受けたのだろう!ガルトス総戦士長ともあろう者が、そのようなおとぎ話をそのまま信じ込み、敵前逃亡の言い訳にするとは呆れ果てたわ!」傲慢に言い放つ皇太子に対し、ガルトスは静かに、しかし重々しく首を振った。「私とて、最初は百パーセント信じていたわけではございません。……ゆえに、この身一つで敵陣の門前へ赴き、あえて一対一の一騎打ちを仕掛け、奴の実力を直接確かめて参ったのです」「……なに?」レオハルトの表情が一瞬止まった。ガルトスが自ら足を運び、直接戦ったという事実に、傍らのエレノアも息をのむ。「……ワシは全身の闘気を極限まで練り上げ、我が持ち得る最高の魔法剣技『爆炎強欲斬』を叩き込みました。だが、あの男は……アーカイブ・プロトコルは、ピクリとも動かなかった」「動かなかった……だと?腰が抜けていただけではないのか!?」「いいえ。あの男は『我が一撃が届くコンマ一秒の直前まで、あえて一歩も動かずに受け止める』という、狂気じみた極限の無構えをとったのです。さらに、自らの強大な力を過信せぬよう、常人なら立つことすらできぬ超重装甲の漆黒の鎧を自らの肉体に課し、背後の村人たちを守る絶対の盾として立ち塞がった……。ワシの渾身の刃は、奴の首皮一枚の寸前で完璧に見切られ、受け止められました」ガルトスは自身の太い首元に手を当て、あの日感じた冷や汗を思い出すように身震いした。「……ワシの一撃をあえて一歩も引かずに真正面から受け止め、さらに『鉄を溶かし、戦うための武器を、民を食わせるための農具に変えよ』と……我が国の戦意を根本からへし折る外交的宣戦布告を突きつけられたのです。……いかなる必勝の策を講じたとて、我が軍が全面侵攻を強行すれば、良くて三割……いや、四割の兵が、立ち向かうことすらできずに壊滅いたしましょう」「ふ、ふざけるなよガルトス総戦士長!!!!」レオハルトは顔を真っ赤にし、喉がちぎれんばかりの叫び声を上げた。「たかが数百の兵しかいない弱小国に、我が誇る帝国軍の四割が削られるだと!? 貴様らは今まで何のために膨大な軍費を貪り、訓練をしてきたのだ! 無能どもが!!」絶叫する皇太子を見つめ、ガルトスは低く深い声で、事実のみを正した。「……殿下。数百の兵にやられると申し上げているのではございません」「なに……?」「たった一人……『特S級危険人物』指定、聖女の右腕アーカイブ・プロトコル……あの男『たった一人』に、我が軍の四割が消し去られると申し上げているのです」



「?????た、たった一人……だと……!?」



 あまりの浮世離れした報告に、レオハルトの思考が完全に追いつかない。「たった一人です。……殿下、あの天才偵察兵アレックスを覚えておられますか?」「アレックス? あ、ああ……先の戦役で目覚ましい隠密成果を上げ、若手最高の功労者として次の戦士長候補と名高かった、あの優秀なアレックスか?」「そのアレックスは、数十キロ離れた山中の隠密陣地から、聖女の右腕と双眼鏡越しに『目が合っただけ』で全精神を破壊され、軍をやめて廃人となりました。いまや酒に溺れ、奴の幻影に怯え、人間としての機能を失っております」



「!!!!!!!!」



 レオハルトは言葉を失い、喉をゴクリと鳴らしてその場に氷のように固まった。傍らのエレノアに至っては、血の気が完全に引いて膝をガクガクと震わせている。(双眼鏡越しに……見ただけで廃人……!?そして、あの歴戦の老将ガルトスを一歩も動かずに一撃で撃退し、自軍の四割をたった一人で壊滅させると断言せしめる男……!?)これまで次々と届いていた、不可解な情報。 最精鋭偵察部隊の謎の全滅と精神崩壊。前線指揮官ヴァルターの「情報の空白こそが異常」という分析。そして、最高戦力であるガルトス自らの負けに等しい一騎打ちの報告。すべての点が、ひとりの存在『アーカイブ・プロトコル』という絶対的な深淵へと一本の線で繋がったのだ。「……さらにあの男は、かつて我々が聖女セレナを追放した際におこなった虚偽の工作をもすべて遠隔で把握した上で、武器を捨てよと警告してきているのです」ガルトスが追撃のように告げた言葉に、エレノアが「ひっ……!」と小さな悲鳴を上げてレオハルトの背中に隠れた。「レオハルト様……!お止めください……!あの男が本気になれば、我が帝国の皇室すら一瞬で崩壊させられてしまいますわ……!」「ぐ……くっ……!!」レオハルトは屈辱に歯を喰いしばり、全身をガタガタと震わせた。巨大な自尊心と傲慢さが、絶対的な未知の恐怖によって完膚なきまでに叩き潰されていく。「……ここは一旦、全面攻勢を避け、静観に回るのが……我が国の命脈を保つ唯一の得策かと」ガルトスの重厚な進言に、レオハルトは青ざめた顔で、絞り出すような声だけを吐き捨てた。「す……好きにしろ……!!!全軍に……撤退命令を出せ……ッ!!!」(聖女の右腕、アーカイブ・プロトコル……!貴様はいったい……何者なのだ……!?)こうして、グランディア帝国によるアルヴェリア王国への電撃的な全面侵攻作戦は、即時撤回された。ただ一人の男の「圧倒的な誤解と不動の存在感」によって、二大国を巻き込むはずだった大戦争が、完璧に未然に防がれた瞬間であった。



 一方その頃――。澄み渡る秋晴れの空の下、アルヴェリア王国の平和な大樹の木陰。「ふぁぁぁあ~~~……」当の主人公、アーカイブ・プロトコル(二十九歳・元サラリーマン)は、草むらでゴロゴロと気持ちよさそうに寝返りを打っていた。太陽の暖かい光を浴びながら、頭の後ろで手を組み、ぼんやりと流れる雲を見上げている。(……あー、平和だなぁ。給料日も無事に過ぎたし、昨日は念願の焼肉も食ったし。……今日の夜ご飯、何にしようかな。またバルドさんのところでテイクアウトでもしてこようか……。唐揚げ弁当も捨てがたいな……)頭の中を占めているのは、今夜の夕食メニューと、明日の昼寝の角度のスケジューリングのみ。大戦争の回避どころか、帝国軍が一万の兵を動かそうとしていたことすら、彼は一ミリも知らない。ザッ、ザッ、と草を踏みしめる静かな足音が近づいてきた。アーカイブが薄っすらと目を向けると、そこには白と青の優雅な礼服に身を包んだ女性――聖女セレナ・アルヴェインが立っていた。編み込まれた綺麗な銀髪が秋風に揺れ、紫色の瞳が直射日光を避けるように木陰に佇むアーカイブをまっすぐに見つめている。セレナの背後には、スカーレット、シアン、クラリス、ヴェロニカら四人の側近たちが、まるで神を仰ぎ見るかのような深い敬意と熱量を込めた眼差しで整列していた。セレナは静かに胸に手を当て、深く、深く頭を下げた。「……あなたのおかげですね、アーカイブ・プロトコル様」 「ん? 何が?」アーカイブはポカンと口を開け、のっそりと身体を起こした。「たった今、帝国軍が我が国へのすべての軍事介入を断念し、全面撤退を開始したとの報が入りました。……あなたが敵の最高戦士長を退け、その圧倒的な存在感と教えによって、戦うことなく二国間の大戦争を未然に防いでくださった……」セレナの美しい瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。追放され、復讐のためにすべてを捨てて生きようとしていた彼女の闇深き心を、彼の一挙手一投足が救い上げたのだと、心から信じ込んでいる眼差しであった。「……感謝いたします。あなたが私の右腕としてここに居てくださることが、どれほど心強いか……」側近たちもまた、一斉に深く一礼する。「アーカイブ様……!一歩も動かず世界を救うその真の絶対者たる姿、一生ついて参ります!」熱い言葉と痛いほどの敬意の眼差しを向けられ、当の本人はといえば――。



「……え? 俺、本当に何にもしてないけど?」



 平和な秋風が吹き抜ける木陰で、アーカイブは心底不思議そうに、首を傾げていたのだった。だが、この「一人の男が立ち上がることなく大戦争を止めた」という伝説は、アルヴェリア王国にとどまらず、大陸全土の諸国や闇の勢力へと瞬く間に伝播。「絶対の静寂を保つ賢者」としてのアーカイブの名は、世界そのものを揺るがす新たなる波紋となって広がり始めていた――!


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