第十話 俺は、この世界に必要ないのでは?
グランディア帝国による電撃的な侵攻計画が白紙撤回されてから、数日が経過した。巨大な大戦争の暗雲が去ったアルヴェリア王国の城下町には、かつてないほど穏やかで温かな平和の風が吹き抜けている。市場からは活気ある商店主たちの威勢の良い声が響き渡り、子どもたちが笑顔で石畳の路地を無邪気に駆け回る。かつて「追放された過酷な聖女」として孤独な絶望の戦いを強いられていたセレナ・アルヴェインの治世は、ただの防衛戦を遥かに超え、民が心から笑顔を取り戻す至高の平和へと昇華していた。そして、その平和の象徴とも言える、城下町を遠く見下ろす街外れの大樹の木陰。「……ふわぁぁあぁぁ……」当の本人、アーカイブ・プロトコル(二十九歳・元サラリーマン)は、相変わらず青々とした草むらに横たわり、口が千切れそうなほどの豪快なあくびを噛み殺していた。木漏れ日がサラサラと彼の無防備な頬を撫でる。昨晩食った王都の居酒屋グリム亭の特製煮込み料理の濃厚な味を頭の中で思い出して反芻しながら、アーカイブは呑気に呟いた。「なんか最近……すげー平和だな」「ええ、本当に」澄んだ鈴の転がるような美しい声が、すぐ隣から応じた。 アーカイブが少し視線を横に向けつむと、そこには白と青の優雅な聖女ドレスを纏った銀髪の少女、セレナ・アルヴェインが静かに腰を下ろしていた。彼女は膝の上で細い指を組み、木陰から見下ろす賑やかな街並みを、優しく愛おしそうな紫色の瞳で見つめている。「帝国軍は我が国の境界線から完全に撤退し、封鎖されていた交易路も再開されました。民の誰もが、明日訪れる戦火を恐れずに眠ることができる……そんな当たり前の日々が戻ってきたのです」セレナは深く感慨深気につぶやき、それから少し小首を傾げてアーカイブを見やった。「全部セレナの努力のおかげだけどね。俺には逆立ちしたってできんわ。それと……最初に出会った頃より、なんだか逞しく見えるよ」「そうですね。聖女の務めも色々大変ですが、やりがいはありますね」セレナはふっと柔らかく、花が咲くように微笑む。「やりがいか。俺は前の世界で生まれた時からそういうのないから、よくわからんな……」「ふふ。毎日こうして木陰にいるのが、アーカイブ様にとっての『やりがい』なのでは?」
「……」
ぐっと言葉を詰まらせ、開いた口が塞がらないアーカイブを見て、セレナは思い出したように楽しげな、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべた。「敵国グランディア帝国では、あなたが『特Sランク危険生物』に指定されているそうですしね」「結局なんでそうなったの……? 俺、何も暴れてないんだけど?」「ん?なんでも噂では、敵の最精鋭偵察部隊を数十キロ先から感知して、極大魔導で山ごと敵陣を吹き飛ばしたとか?」「なんの話???」素で頭を抱えて困惑するアーカイブに、セレナは「さあ?」と可憐に小首を傾げ、クスクスと愉しそうに笑った。「まぁ、おかげでしばらくは平和に過ごせそうです。改めて心よりお礼申し上げますわ、アーカイブ・プロトコル様。……そうですわ、この未曾有の国難を救った偉業を称え、これを機にあなたに王家最高の爵位と領地を――」
「いらん!!!」
厄介事と面倒くさい責任の気配を極限の野性勘で察知したアーカイブは、食い気味に突っ張ねると、地べたを這うゴキブリのような素早さで数メートル先へ逃げ出そうとした。だが、セレナは風のように優雅に先回りすると、逃げ道の先の草むらに可憐に座り直し、クスクスと笑っている。「ふふ……相変わらずどこまでも欲のないお方」「逃がせよ……!」脱力して、再び敗北感とともに草むらに倒れ込むアーカイブ。だが、当のアーカイブは全く気づいていなかった。彼らが微笑ましい逃げかくれっこをしていたすぐ後ろの木陰で、世間話をしていた街の住民たちが目を見開いて震えていたことを。
「お、おい……聞いたか?今の聖女様とアーカイブ様の極密の会話……!」「お、おう、勿論だ……!数『百』キロ先の敵の超精鋭部隊を察知して、山もろとも『数千の敵兵』を一瞬で消滅させたって……!?」「しかもそれを誰にも自慢するどころか、国家最高の爵位や広大な領地の座まで『いらん!』と一蹴して蹴り飛ばすなんて……!聖女の右腕様は、どこまで高潔で無欲なお人なんだ……ッ!(涙)」「ああ……!俺たちの目に見えないところで、あのお方は血を流し、孤独にこの国を守ってくださっていたんだ……!」尾ひれどころか巨大な竜の翼まで生えた噂が、ものすごいスピードで街中へ広がっていくとも知らず――アーカイブは(あー、今日の晩飯は何食おうかな)と呑気に考えていた。
逃げるのを諦め、木陰の少し離れた場所で草むらに背中を預けたアーカイブの隣に、セレナが優しく歩み寄ってくる。「ふふっ、冗談です。あなたの嫌がる爵位を無理強いしたりはいたしません」セレナは膝を抱え、遠くの澄み渡る青空を見つめながら静かに言葉を継いだ。「でも、不思議ですね。あなたが……アーカイブ・プロトコル様がこのアルヴェリア王国にやって来られてから、すべてが変わりました。私の固く閉ざされていた復讐の心も、側近たちの焦りも、そして国家の運命すらも……」「いや、だから俺じゃないって。俺はただ……寝て、食べて、重い鎧に愚痴を言っただけだし。……というか俺さ、結局この国に来てから何一つ役に立つことしてないよな?俺って、実はこの世界に必要ないのでは?」「そうですね」「即答かよ!!」思わずバッと勢いよく起き上がってツッコミを入れたアーカイブに対し、セレナは「ふふっ」と可憐に鈴を転がすような笑みをこぼした。「冗談です。……ですが、そうかもしれませんね。私が決断し、シアンたちが動き、民が応えた。……けれど、あなたがそこに『ただ居てくださる』だけで、私たちは絶対の安心感を得て、最高の選択を選び取ることができたのです」そう言うと、セレナはゆっくりと立ち上がり、秋風に美しい銀髪をなびかせながらアーカイブに向き直った。紫色の瞳に、真摯でどこか切ない眼差しを宿して問いかける。「では、アーカイブ・プロトコル様。あなたは……これから、どうなさるおつもりですか?」「……どうって?」「この国で、このアルヴェリア王国で……何をしたいですか?あなたはもう自由です。この国を救った絶対の賢者として、望むものなら何でも手に入るでしょう。……それとも、いつかどこか遠くへ行かれてしまうのですか?」どこか寂しげなニュアンスを含んだセレナの問いに、アーカイブは木陰から広がる平和な街並みをぼんやりと見やった。
(自由……ねぇ。前の世界じゃ、毎日終電までサービス残業して、上司に理不尽に怒鳴られて、疲れ果てて狭いアパートに帰るだけの生活だったしな……)
アーカイブは小さく鼻を鳴らし、再び気持ちよさそうに草むらへと背中を預けた。「別に……。給料もちゃんと出るし。ご飯は美味いし。何より……ここ、風通しが良くて涼しいしな」その適当極まりない省エネな理由を聞いたセレナは、一瞬呆けたように目を丸くし、やがて心底愛おしそうに目を細めた。「そうですか。……なら、良かったです」二人の間に、平和で心地よい静寂が流れる。このまま、怠惰で穏やかな日常が永遠に続いていく。誰もがそう確信した、その時であった。
ドタドタドタッ――!!
「聖女様ーーーっ!!大変ですッ!!!」静寂を打ち破り、息を激しく切らした若い伝令兵が、転がり込むように木陰へと駆け込んできた!汗だくの顔は蒼白で、手に持った羊皮紙を持つ手がガタガタと酷く震えている。セレナはすっと眉をひそめ、聖女の凛とした佇まいで問いかけた。「何事です、落ち着きなさい」「は、ははっ! グランディア帝国から……あのグランディア帝国から、正式な『大権使節団』が王都の門前に到着いたしました!」「……親書ですか?ガルトス総戦士長の軍事撤退の確認でしょうか」「いいえ!それが……違います!」伝令兵はゴクリと深く唾を飲み込み、上擦った悲鳴のような声で叫んだ。「グランディア帝国皇太子、レオハルト殿下直々の……金箔押しの『親書』を携えており……!その内容が……!」「親書になんと書いてあるのです?」伝令兵は震える手で羊皮紙を広げ、全身の力を込めて叫ぶように読み上げた。「『我がグランディア帝国は、アルヴェリア王国……ならびに、絶対の智将【アーカイブ・プロトコル殿】との……直接の和平交渉および、不可侵条約の締結を極秘裏に希望する』……と!!!」
「…………」
セレナが息を飲み、木陰全体が静まり返る。伝令兵の後ろからは、スカーレット、シアン、クラリス、ヴェロニカら四人の側近たちが青ざめた顔で追いついてきていた。「アーカイブ様……!ついに帝国が、国家の枠組みを超えて……あなた個人との『和平条約』を求めて参りましたわ……!」「一国の皇太子が、たった一人の個人を対等の『国家級外交相手』として指名するなど……歴史上、前代未聞の事態です……!」側近たちの熱狂と恐怖が混ざり合った視線が、一斉にアーカイブへと注がれる。草むらに転がっていた当の本人、アーカイブ・プロトコルはといえば――。
「…………」
口を半開きにしたまま、完璧に硬直していた。(……え?親書?和平交渉?たかが元サラリーマンの俺に……個人名指しで国家間外交交渉……!?)ひんやりとした嫌な汗が、アーカイブの背筋をダラダラと伝い落ちる。(……いや、俺、外交交渉とか絶対に無理だからね!?政治の知識も外交のテクニックも何にもないよ!?適当なこと言ったら即戦争再開じゃん!!)心の中で盛大に血を吐くような悲鳴を上げるアーカイブ。しかし、彼が焦れば焦るほど、周囲の人間は彼を「底知れぬ深謀遠慮を隠す絶対の策士」として崇め奉っていく。彼のあくびと、ただの二度寝と、重い鎧への愚痴の裏側で――。 世界という巨大な歯車は、完全に『アーカイブ・プロトコル』という一人の男を中心に、誰も止められない勢いで回り始めていた。
――だが。
当事者たちが歓喜と混乱に包まれるアルヴェリア王国から遠く離れた、グランディア帝国の深奥。黒鉄の城の最深部に位置する極秘謁見の間にて、冷徹な悪魔のような笑みを浮かべる男がいた。グランディア帝国皇太子――レオハルト・フォン・グランディア。その手元のテーブルには、帝国傘下の従属国や極秘同盟を結んだ『各国の代表者たち』からの血判が押された誓約書がずらりと並べられていた。エルフ族の従属領が誇る古代極大魔法師団。ドワーフ族の工房が極秘開発した神鉄要塞兵器。さらには獣人族の影殺隊、そして秘境の竜騎士団までもが、暗闇の中で膝を屈している。「……ククク、『和平交渉』という名のブラフに、聖女どもめ、まんまとかかったか」レオハルトは薄い唇を酷薄に吊り上げ、冷酷な眼差しで地図上の一点を突き刺した。「特Sランク危険生物アーカイブ・プロトコル……。奴一人の存在が、我が帝国の覇道を阻む最大の障壁。……もはや一国の軍勢だけで挑む愚は冒さん。我が帝国を筆頭とした『多国籍連合軍』の全全力を結集し、防備の甘い和平交渉の場にて、あの化け物を跡形もなく討滅する」「御意――ッ!!」暗闇から響く、数万の精鋭たちの地鳴りのような殺気を孕んだ勝吼。自身のただの二度寝とあくびが世界を震撼させているとは露知らず。たかが元サラリーマンの二度寝男を巡る世界規模の勘違いと、史上最大の討伐包囲網が、いま静かに幕を開けようとしていた――!
【エピソード一 完】




