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第六話 見ただけで廃人になった男

 グランディア帝国の王都郊外。かつて栄華を極めたはずの街並みの片隅に、日差しすら差し込まない薄暗い路地裏が存在する。雨樋から滴る濁った水の音だけが重く響くその場所で、地鳴りのような歩調が静寂を破っていた。「……アレックスはどこにいる?」低い地響きのような声で問いかけたのは、黒鉄色の重厚な軍服に身を包んだ男。グランディア帝国軍最高位の総戦士長、ガルトス・アイゼン・ベルクであった。六十一歳という高齢でありながら、幾多の死線をくぐり抜けてきた大柄な肉体は圧倒的な威圧感を放ち、胸元に並ぶ数々の勲章が鈍い光を放っている。その背後で、冷や汗をダラダラと流す中堅指揮官・ヴァルターが痛々しい表情で深々と頭を下げた。「……アレックスは、すでに戦士をやめました。我が軍の最精鋭偵察部隊の任を解かれ、現在は家で昼から酒を煽り……精神を著しく病んでいると……」ヴァルターの報告を聞きながら、ガルトスは苦々しく眉間に深いシワを寄せた。アレックス・ハイゼンベルク。三十一歳。かつて帝国最高峰の戦士アカデミーを首席で卒業し、先の戦役でも類稀なる観察眼と隠密能力で数々の最高勲章を授与された、帝国が誇る天才偵察兵だ。冷静沈着で、どんな絶望的な死地にあっても決して取り乱さなかったあの男が、たった一度の遠距離偵察任務から帰還して以来、完全に壊れてしまったという。



「……フン」



 ガルトスは短く鼻を鳴らすと、木枠のドアが歪んだ一軒のあばら家の前で足を止めた。 鍵すら掛かっていない扉を、ガルトスは容赦なく押し開ける。ギィィィ……と嫌な金属音が響き、室内から放たれたのは、吐き気を催すような強い安酒とカビの臭気だった。足元には無数の空き瓶が転がり、カーテンが閉め切られた部屋の奥、部屋の隅の暗がりで頭を抱えて丸まっている男の影があった。「おい、アレックス」ガルトスの重厚な声が室内に響く。影がビクッと肩を跳ね上がらせ、緩慢な動作で顔を上げた。くすんだ茶色の髪はボサボサに伸び放題で、くぼんだ目の周りには濃い紫色の隈が刻まれている。薄い灰色の瞳は光を失い、焦点が定まっていない。「が、ガルトス……総戦士長……様……?」「そうだ。無様な姿だな、アレックス。……無駄話をしに来たわけではない。例の聖女の右腕……敵国のあの男を双眼鏡越しに直接目視したのは、全軍でお前だけだ。奴の挙動、間合い、放っていた気配……詳細を話せ」ガルトスが歩を進めた、その瞬間だった。「ひっ……!?や、やめろぉぉぉーーーーッ!!!」突如としてアレックスが狂乱の悲鳴を上げた!手元にあった空の酒瓶を掴むやいなや、全身の力を込めてガルトスへと投げつける。



ガシャーン!!



 ガルトスが微動だにせずかわした酒瓶は、背後の壁に激突して派手に砕け散った。鋭いガラス片が床に散乱する。「そ、その話をするんじゃねぇ!!思い出させようとするな!頼むから……頼むから俺を解放してくれぇッ!!」アレックスは両手で耳を塞ぎ、爪が皮膚に食い込むほど強く頭を抱え込んだ。膝を折り、床に頭を擦り付けながら全身をガタガタと酷く震わせている。その顔面は土気色を通り越し、血の気が完全に引いていた。「あ、あの時の奴の目つきは……普通じゃなかった……!何キロも離れた山中の隠密陣地から、まっすぐに……まっすぐに俺の瞳の奥を覗き込んできたんだ……!いま、俺の首が皮一枚で繋がっていることすら奇跡なんだ……!頼むから帰ってくれ……!思い出すだけで……頭が、頭が割れそうだ!!」かつて敵軍の猛攻の中でも眉一つ動かさなかった勇士が、いまや見えない影に怯える幼子のように涙と鼻水を流して懇願している。ガルトスは目を細め、静かに問いかけた。「……何をされた?」アレックスの震えが、ピタリと止まった。ゆっくりと顔を上げる。その瞳には、底知れぬ深淵を覗き込んでしまった者特有の、純粋な絶望が宿っていた。「……何も」「……なに?」「何も……されていない……!だから……だから恐ろしいんだッ!!」アレックスは絞り出すようなかすれ声で、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。「奴は……大樹の木陰で横になり、ただ……あくびを漏らしていた……。だが、あの目だ……。あの虚無で、冷徹で、すべてを見透かしたような黒い瞳……!あの男の視界に、俺という存在など……帝国という国家すら、最初から眼中になかった……!蟻を踏み潰す価値すら見出していない目だ……!一歩間違えれば、息を吸うように山ごと我々を消滅させていた……!」ガルトスは黙してアレックスの言葉を聞いていた。言葉の端々に含まれる狂気。しかし、それは精神が崩壊した者の戯言ではなく、圧倒的な強者と遭遇してしまった人間が辿る、典型的な精神創傷の症状であった。アレックスは弱々しく手を伸ばし、ガルトスの足元にすがりついた。「が、ガルトス様……頼む……金を少しだけ……酒を買うための金を貸してくれないか……?酒を飲んで意識を飛ばさなきゃ……あの男の目が……あのアーカイブ・プロトコルの瞳が、暗闇の中から俺を睨みつけてくるんだ……!」ガルトスは無言で懐から重みのある革財布を取り出すと、その中の金貨を惜しみなくアレックスの手に握らせた。金貨の感触を確かめたアレックスは、すがるように酒瓶の転がる奥へと這い去っていく。壊れた元・精鋭兵の背中に背を向け、ガルトスは静かにあばら家を後にした。



 湿った路地裏へ出ると、後を追ってきたヴァルターが、青ざめた顔で生唾を飲み込んだ。「せ、戦士長……アレックスは我が国の最高峰戦士アカデミーを首席で卒業し、先の戦争でも数々の戦功を立てた男です。そのアレックスが、直接『見られた』だけであそこまで物理的に破壊されるとは……」「ヴァルターよ」「は、はっ!」ガルトスは立ち止まり、空を見上げた。雲一つない青空の向こう、アルヴェリア王国の方向を見つめる老将の眼光は、極限まで鋭く研ぎ澄まされていた。「全兵士へ緊急伝令を発令せよ。本日より、聖女の右腕アーカイブ・プロトコルを……我が帝国の『特Sランク危険生物』に指定する!」「と、特Sランクですか!?」ヴァルターが己の耳を疑うように悲鳴を上げた。「特Sと言えば……我が国が誇る重装甲部隊すら一夜で全滅させ、トリダニアンキャニオンに生息すると言われる伝説の千年龍と同格の指定ですよ!?たった一人の人間を……あの災厄の化け物と同格とみなすのですか!?」部下の激しい動揺をよそに、ガルトスは腕を組み、低く地響きのような声で呟いた。「ワシは若い頃、トリダニアンキャニオンで千年龍と直接対峙したことがある。……当然、勝てんと判断して速やかに撤退したがな」「ぜ、戦士長が逃走を余儀なくされたほどの存在……!」「ワシは双眼鏡越しに奴を見たわけではない。……だが、あのアレックスの崩壊ぶりを見ればわかる。あのアーカイブ・プロトコルという男から放たれる圧倒的な覇気、底知れぬオーラは……千年龍と同等……いや、それ以上かもしれん」「ゴ、ゴックン……」ヴァルターの喉が鳴り、背筋を氷のような戦慄が駆け抜けていった。帝国最高峰の軍人たちが、たった一人の男の「何もしない立ち振る舞い」によって、完膚なきまでに恐怖の底へと叩き落されている。



 「ヴァルター、ガルトス総戦士長殿!皇帝陛下およびレオハルト皇太子殿下より緊急軍事会議のお呼び出しです!」伝令兵が息を切らせて駆け込んでくる。ガルトスは黒鉄の外套を翻し、重々しい歩調で皇城へと向かって歩き出した。「行くぞ、ヴァルター。……我が帝国の全軍略を再構築せねばならん。聖女の右腕……あの男は、我々が想定し得るあらゆる兵法が通用しない、絶対の深淵だ」皇城の大軍法会議の間。金髪を逆立てたレオハルト皇太子と、着飾ったエレノアがガルトスの報告を聞き、青ざめながらも憤怒の表情を浮かべていた。「総戦士長……たった一人の男に『特Sランク』の指定を下すと!?ふざけるな!我が帝国の威信はどうなる!」「レオハルト殿下」ガルトスは微動だにせず、鋭い眼光で皇太子を射抜いた。「アレックスの惨状をご覧になりなされ。奴は一切の魔力を使わず、ただ『視線』と『気配』だけで我が最精鋭兵の精神を討ち破った。この男を甘く見れば、我がグランディア帝国は一夜にして灰燼に帰し、歴史から消え去ることになりましょう」エレノアが震える声で尋ねる。「で、では……ガルトス様……どうすれば……!そのアーカイブという化け物を倒せるのですか……!?」ガルトスは腰の巨大な大剣の柄に手をかけた。「もはや生半可な兵隊では足しにもならん。……ワシ自らが指揮を執り、帝国軍の誇る『極大魔導砲隊』ならびに暗殺ギルド『黒蛇の牙』を全頭投入いたします。敵が一歩も動かぬというのなら……その動かぬ木陰ごと、消滅させるまで!」



 一方、その頃――。遠く離れたアルヴェリア王国。日当たりの良い大樹の木陰。「ふあぁぁぁ~~~……」当の主人公、アーカイブ・プロトコル(二十九歳・元サラリーマン)は、口が裂けそうなほど豪快なあくびを漏らしていた。満腹の腹をさすりながら、青々とした葉の隙間から漏れる日光を浴びてゴロゴロと背中を丸める。(……あー、眠い。今日のご飯も美味しかったな。やっぱり給料日の後の二度寝は最高だわ。秋田の曲げわっぱのお弁当箱、こっちの世界でも作れないかな……)アーカイブの脳内を占めていたのは、今日の夕飯の献立と、いかにして夕方まで誰にも起こされずに寝返りを打つかという、極めて平和で怠惰な思考のみであった。「……あ、少し肩が凝ったな」アーカイブはゆっくりと起き上がると、両腕を上へ突き出し、ぐーっと背筋を伸ばした。首を左右にコキコキと鳴らし、脱力した状態で「はぁー」と溜息をつく。本人はただストレッチをしただけだったのだが――。「……見事な……あまりに見事な『気の練り上げ』です、アーカイブ様」木陰の静寂を破り、木の上からすっと舞い降りてきた人物がいた。黒地に金の刺繍が入った凛々しい隊服に身を包んだ青髪ショートの女性。実務・計算処理のスペシャリスト、シアン・メルキオールである。シアンは青灰色の瞳に深い敬意を宿し、抱えていた羊皮紙の記録簿にペンを走らせる。「ただいま、我が方の情報網より緊急報告が入りました。帝国軍はあなたの一瞥を受けただけで最精鋭部隊が壊滅。さらに帝国軍本国において、あなたの危険度が『特Sランク危険生物』……かの伝説の千年龍と同等以上に引き上げられたとのことです」



「……え?な、なんで……!!」



 アーカイブは半分開いた目でシアンを見た。「特S?千年龍?何それ、新しい肉のブランド?」「フフ……どこまでも不敵。己の存在が国家規模の脅威と見なされてなお、微動だにしないその胆力……感服いたしました」シアンは完璧な角度で一礼すると、冷徹な声で、しかしどこか誇らしげに続けた。「あなたが一歩も動かず、木陰で『待機』されているだけで、敵国は勝手に自滅し、我がアルヴェリア王国の絶対的優位が確立されていく。……これぞまさに、あなたが提唱される『絶対規約(プロトコル)』の結実。素晴らしい手腕です、アーカイブ様」



(いや……俺、本当にただストレッチしてあくびしただけなんだけど……!?)



 心の中で盛大に血を吐く思いでツッコミを入れるアーカイブ。 しかし、彼がどれほど「俺は何もしていない」と主張しようとも、世界は彼を『静寂なる最凶の策士』として祀り上げていく。夕暮れの風が木陰を吹き抜ける中――。ガルトス率いる帝国の極大魔導部隊が密かに国境を越え、アーカイブの「ただの昼寝」に向けて牙を剥こうとしていた。何も知らない無欲の男と、帝国最高峰の老将。決して噛み合わない二つの存在が激突する運命の刻が、すぐそこまで迫っていたのだった――!


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