第五話 木陰の男、山を見る
「ふぁ~……こう毎日なにもしなくても給料は入るし、特にすることないって暇だな……。いや、最高なんだよ?最高に恵まれた不労所得ニート生活なんだけどさ……」アルヴェリア王都を一望できる丘の上。大樹の心地よい木陰でゴロゴロと芝生を転がりながら、アーカイブは大きなあくびを噛み殺していた。雲一つない秋晴れの空。吹き抜ける風が頬を撫でる。彼はヒマを持て余した様子で、遠くに聳え立つ雄大な山並みを何気なく見やった。「うーん……あの山の形、どこかで見たことあるなと思ったら……故郷の秋田で見た鳥海山に比べると、ちょっと丸っこいな。秋田の山はもっとこう、ドーンと雄大でさ、冬になると猛烈な吹雪で視界ゼロになるんだよな……。あー、久々にきりたんぽ食べたいな……。あのお出汁がシュンだ温かいやつ……。比内地鶏の出汁で煮込んだスープに、焼いたご飯の香ばしさが合わさってさぁ……。この異世界、鶏肉はあるけど米を搗いて棒に巻き付けるっていう文化がないんだよな。今度ミレイちゃんに頼んで作ってもらおうかな……」
チラッと山へ視線を送った、ちょうどその頃――。何キロも離れた遠方の山中に潜んでいた、グランディア帝国軍の精鋭偵察部隊の間に、天地がひっくり返るほどの激震が走っていた。「ひっ……!?せ、戦士長!!我々の位置が完全にバレましたー!!!」巨大な筒状の超長距離魔導望遠鏡を覗き込んでいたのは、帝国軍の熟練偵察兵・アレックスであった。長期間の監視任務でくすんだ茶髪を乱し、薄い灰色の目を恐怖で限界まで見開いている。「馬鹿なことを抜かすな!ここからあの王都の丘まで何キロ離れていると思っている!!十キロ以上だぞ!?肉眼で見えるはずがないだろう!」前線偵察隊の戦士長ヴァルター・グラディオンが、部下のアレックスの不甲斐ない報告に太い眉をひそめた。しかし、アレックスの手はガタガタと打ち震え、冷や汗が滝のように顎をたどっていた。「見たんです……! 俺は見たんです……!あの男……『聖女の右腕』アーカイブ・プロトコルが……大樹の木陰からまっすぐにこちらの潜伏ポイントへ視線を固定しました!!その眼光、まるで我々の臓物まで透視しているかのようでした!!」「な、なに……!?」ヴァルターが奪い取るように魔導望遠鏡に目を押し当てる。レンズの先、大樹の木陰に佇む男、アーカイブ・プロトコル。 その漆黒の瞳には一切の揺らぎがなく、完璧にこちらの隠密陣形を把握しているかのような、冷酷で不気味な絶対的眼光(※ただの「きりたんぽ食べたいな」という食後のぼんやりとした望郷の念です)が宿っていた!戦士長ヴァルターの額からも、ダラリと冷や汗が流れ落ちる。(……魔法能力不明、戦闘能力不明、過去の経歴すべて不明……調査すればするほど情報の空白が不気味に膨れ上がる男……!まさか、この超遠距離から我々の光学隠蔽魔術を見破り、ピンポイントで捕捉したというのか……!?)その時――木陰のアーカイブが「んー」と軽く立ち上がり、凝り固まった背中をほほぐすためにストレッチを始めた。「あー、ずっとゴロゴロしてたから身体がバキバキだわ。前世の社畜時代もデスクワークで肩こりが酷かったけど、異世界で一日中寝転がってるのもそれはそれで腰にくるな……。よし、ちょっと運動運動!」両手を天に向かって高く掲げ、左右に大きく腰を捻る。「うー、効く効く!腰の筋肉が伸びてる感じがするぞ!ついでに声でも出して気晴らしするか~!誰も見てないし、大自然の中で歌うのって気持ちいいよな!」口を大きく開け、発声練習のように首をぐるりと回すアーカイブ。
しかし、望遠鏡越しにその恐ろしい(不気味な)挙動を見たアレックスが、引きつけを起こしたような金切り声をあげた!「せ、戦士長!!奴が……あの男が立ち上がりました!!」 「あ、あの不気味な動き……手印を結び、大気中の全マナを極限まで練り上げている……! まさか、天に向かって両手を掲げるあのポーズ……伝説にある広域破壊の集束陣形……!?奴は、この山ごと我々を消滅させる気です!!」「な、なんだと……!?全員退避ーーーっ!!陣地を捨てろ!一刻も早くここから撤退するぞ!!」パニックに陥る部隊の中で、現場指揮官であるヴァルターは慄然とした。(……かつての大賢者は、何キロも先の山ごと敵部隊を吹き飛ばしたという。奴の二つ名はアーカイブ・プロトコル……古代の破壊プロトコルを寸分の狂いもなく再現し、我々を山ごと消滅させる気か……!?)「ひ、引きあげだぁぁ!これ以上の監視は不可能です!!生きて皇帝陛下に報告せねばならん!!」アレックスたちは高価な魔導望遠鏡すら放り出し、脱兎の勢いで山を下り、蜘蛛の子を散らすように撤退していったのだった。
一方その頃――。「……歌、何にしようかな。やっぱりカラオケの十八番だった『天城越え』か……?いや、待てよ。異世界で一人で『あまぎーごーえー』って大熱唱してたら、万が一誰かに聞かれた時、めちゃくちゃ痛い奴だと思われるな……。かと言って最新のJ-POPなんて歌っても、歌詞をうろ覚えだからサビしか歌えないし……。あ、こういう時はアニソンか? いや、特撮のヒーローソングの方がテンション上がるか!?『走れー!光の戦士ー!』みたいなやつ! うん、それがいいな!」何もしていないアーカイブは、呑気に首を傾げて一人で歌の選曲に頭を悩ませていたのだった。平和な時間が流れ、綺麗な夕焼け空が広がる頃。山を覆っていた不穏な殺気が綺麗さっぱり消え去ったのを見計らったかのように、赤髪を風になびかせた女性が走ってきた。情報収集および軍事担当の側近、スカーレット・ヴァルハイトである。「アー・カ・イ・ブ・様っ!」「うおっ、スカーレットさん!?ビックリした……どうしたのそんなに息を切らせて? どこかで火事でもあったの?」「たった今、我が国の情報網から緊急報告が入りました!我が拠点を密かに包囲・監視していたグランディア帝国軍の精鋭偵察部隊が、突如として全軍大混乱に陥り、超極秘の機密書類や高額な魔導兵器すら投げ捨てて本国へ逃げ帰ったそうです!」スカーレットは赤茶色の瞳をギラギラと輝かせ、吐息が届くほどの距離までぐっと顔を近づけてくる。「遠くの山に向かってわずかに一瞥をくれ、無駄のない神秘的な身体動作だけで、敵の精鋭隠密部隊を恐怖のどん底に突き落とし、壊滅させたそうですね……!噂には聞いていましたが、敵の作戦行動を一切の戦力を使わずに未然に詰むその情報戦と心理戦の精度……一体どこで手に入れた敵陣配置の情報なんですか!?どのような知略を使えば、目視すら困難な遠方の隠密部隊を追い詰められるのですか!?」スカーレットの迫力に圧倒されながら、アーカイブは必死に後ずさった。「え、えーっとね……スカーレットさん。落ち着いて?本当に落ち着いて聞いてほしいんだけど……」俺は両手を広げて、必死の思いで弁明を始めた。「俺ね、マジで何にもしてないの!本当に!さっきまで『暇だなー、秋田のきりたんぽ食べたいなー』って思いながら遠くの山をぼーっと眺めててさ! そのあと『座りっぱなしで腰が痛いからストレッチでもするかー』ってラジオ体操みたいな動きをして、何歌おうか考えていただけなんだよ!?敵の偵察部隊なんて一匹も……いや、一人も見えてないから!視力だって前世のコンタクトレンズ補正が切れてちょっと落ちてるくらいなんだから!追い詰めるとか知略とか、全部妄想だからね!?」アーカイブが汗だくで身振り手振りを交えて熱弁するのを、スカーレットはうっとりとした表情で見つめ、何度も深く深く頷いた。「素晴らしい……! 『真の勝利とは、戦わずして勝つこと。敵に自らの影を踏ませることすら無駄な労力である』……そうおっしゃりたいのですね!?己の意図を完璧に隠蔽し、敵には過剰な恐怖を与えて自滅させる……まさに神算鬼謀!あなたのその『無駄な言動を一切装う完璧な演技』すら、敵を欺くための計算の一部だったとは……!感服いたしました、アーカイブ様!」「(いや、だから演技じゃなくて本気でストレッチしてただけなんだって!!なんで俺が普通に過ごしてるだけで、相手が勝手にパニックを起こして逃げ出すんだよ!この世界の帝国兵、メンタル豆腐すぎるだろ!!)」心の中で盛大に頭を抱えるアーカイブ。しかし、帝国軍の恥晒しとも言える大失態と撤退報告は、やがてグランディア帝国の最深部――皇帝が鎮座する皇城へと届くこととなる。
同時刻、グランディア帝国・皇城の豪華絢爛な謁見の間。豪華な皇族礼装に身を包んだ金髪の青年、グランディア帝国皇太子レオハルト・ヴァルグレイスは、届いた悲惨な戦果報告書を握り潰していた。「……またあの男か。我が方の精鋭偵察部隊が、一歩も動かぬ威圧と広域詠唱の予備動作だけで不戦敗を喫し、機密を捨てて逃げ帰っただと……!?」彼の傍らには、過剰な宝石と派手なドレスで飾られた美しい女性――かつて聖女セレナを無実の罪で陥れ、王都から追放した元凶である王子妃エレノアが、不安げに身を寄せていた。「レオハルト様……あの聖女を陰で支える謎の男……アーカイブ・プロトコル。まさか、私たちが過去におこなった『偽りの聖女追放劇』の証拠すら、すべて遠隔から暴くつもりでは……? あんな化け物が味方についているなんて……!」「案ずるな、エレノア。あの男がどれほどの策士であれ、我が帝国の総力を結集した軍勢すべてを敵に回して無事でいられるはずがない」レオハルトは憎々しげに窓の外の夕闇を見つめ、低く獰猛に吐き捨てた。「ガルトス総戦士長へ連絡を入れろ!帝国正規軍第一師団を即座に動員する。……あの聖女の右腕を跡形もなく肉塊に変えるため、全軍の陣形を再編し、極秘の『神殺し兵器』を起動させる!」帝国の最高幹部たちが、一人の「ただのサボりサラリーマン」を倒すために国家規模の総力を結集し始めていることなど、知る由もないアーカイブ。彼は真っ赤に染まる夕焼け空を見上げながら、お腹をさすっていた。「あ~、今日の夜ご飯何にしようかな。昨日は奮発してジューシーな焼肉だったから、今日はあっさりした焼き魚とかが良いな。グリム亭に新鮮な川魚入ってるかな……。飯食ったら今日も早めに寝よっと!」能天気にお腹を鳴らし、夜のメニューに心を躍らせる彼の頭には、世界を揺るがす大戦争の予兆など、一微塵も存在しないのだった。




