第四話 その名はアーカイブ・プロトコル
焼肉屋グリム亭で腹を満たし、重くなった瞼をこすりながら木陰へ戻ってきたアーカイブ。「あー、腹いっぱいだ……マジで食った食った。やっぱりタダで食う飯と、サボった後の焼肉は最高だな……はぁ、眠い……。今すぐ横になって二度寝したい……」本人はただ食事を済ませて満腹になり、猛烈な眠気に襲われているだけなのだが、すれ違う村人や街の商人たちは感涙にむせびながら彼を見送っていた。「アーカイブ様が街へ……!」「民の暮らしを自ら視察され、我々に寄り添ってくださっている……!」こうして今日もまた、街に新しい「無欲なる聖者伝説」が一つ刻まれていく。だが、いつもの大樹の木陰の目前に差し掛かった時、草むらの奥からただならぬ緊張感が漂ってきた。「――待ちなさい。そこから先へ進むことは許しません」静寂を切り裂いたのは、鋭く澄んだ高潔な声だった。大樹の陰から姿を現したのは、深緑の長い髪を風になびかせ、腰の細身の飾剣に手をかける美しき剣士。聖女セレナの直属護衛隊長を務める仲間、ヴェロニカ・アルテミスであった。彼女の鋭い翠色の瞳が、木陰に近づくアーカイブの足元を射ぬくように見つめている。「……さすがです、アーカイブ様。私ですら気づくのが遅れた微かな空間の歪み……それを見抜いて足を止められたのですね」「え?いや、待って待って!空間の歪みとかじゃなくて!ただ単にそこに大きな木の根っこの段差があってさ!つまずいて転びそうになったから立ち止まっただけなんだけど!ほら見て、この靴底、すり減ってるから滑りやすいんだよ!」「お隠しにならなくても結構です。この周囲には、帝国が潜ませた極めて巧妙な『隠蔽型の魔導罠』が仕掛けられていました。ですが……あなたが踏み出す直前に放たれたその無色の覇気だけで、罠の起動陣が霧散してしまうとは……!」(ええぇ……ただの段差だよ!?本当に転びそうになって慌てて足を引いただけだよ!?覇気ってなに!?俺が持ってるのは冷や汗と睡魔だけだよ!!)ヴェロニカは深々と頭を下げ、全身で敬服の眼差しを向けてくる。「周囲への警戒を怠らない高度な待機……やはり聖女の右腕様と呼ばれるにふさわしいお方。私が護衛につく必要すらありませんでしたね。至らぬ点をお許しください」「(いや、だから本当にただ躓きそうになっただけなんだって……!なんで俺が普通に歩いて転びそうになるだけで、帝国兵の罠が消滅することになってるんだよ……恐ろしいよこの世界の物理法則と人々の脳内変換機能……!)」心の中で激しく頭を抱えるアーカイブをよそに、彼が一歩も動かずに危険(だと思われたもの)を解除したという話は、侍女たちの口コミを通じて瞬く間に街全体へと広まっていった。数日後。王都の大広場に面した酒場では、街の知識人や高ランク冒険者たちが集まり、真剣な面持ちで熱い議論を交わしていた。「おい、知っているか?あの聖女の右腕様の本名は『アーカイブ・プロトコル』とおっしゃるそうだ……!」「アーカイブ・プロトコル……なんと恐ろしくも洗練された名だ……。なぁ、その言葉の真意を考えたことはあるか?」羊皮紙を広げた学者が、震える指先で羽ペンを握り、文字を書きつけていく。「古代語の解釈によれば、『アーカイブ』とは古のあらゆる記録、あるいはあらゆる知識の集積……!そして『プロトコル』とは絶対的な規約、暗黙の了解、あるいは世界を動かす絶対手順……!」「……つまり、どういうことだ!?」「『全歴史を記録し、絶対的な規約をもって世界を未来へと正しく導く者』……!ご自身の存在そのものを、この世界の絶対法則と定義されておられるのだ!」「な、なんというスケールの大きさだ……!我々の日常の営みすら、すべて彼のプロトコルの計算内だというのか……!」その頃、当のアーカイブは冒険者ギルドの受付で、毎月手渡される特別補佐官の報酬金貨を受け取りながら猛烈に困惑していた。「あ、あのさ……ミレイちゃん。なんかさっきから、あっちの席でみんなが俺の名前について熱く語り合ってるみたいなんだけど……あれ何?『絶対法則』とか聞こえたんだけど、俺なんかまたやっちゃった?」対応したギルドの受付嬢(兼・グリム亭の看板娘)ミレイが、尊敬と憧れの眼差しで頬を朱に染める。「はい! アーカイブ・プロトコル様!すでに街中どころか、隣国の旅人にまでその偉大な名声は轟いております!世界の理を統べる『絶対規約』の持ち主として!」「ちょっと待ってミレイちゃん!落ち着いて!完全に誤解だから!それ、ものすごい勘違いだから!!」俺は両手をぶんぶんと振って、全力で否定にかかった。「いいかい!?そもそも『アーカイブ・プロトコル』っていうのはね、俺が前世……じゃなくて昔、社畜サラリーマンをやってた頃に、隣の席にいたエンジニアの同僚がブツブツ呟いてたIT用語なんだよ!『古いデータをまとめて圧縮保存すること』をアーカイブって言って、『通信する時のお約束事』をプロトコルって言うんだ!わかる!? ただのコンピューターの技術用語なの!なんか横文字で響きがカッコいいなーって思って、異世界に来て偽名を聞かれた時に、ちょっとイキって『アーカイブ・プロトコルです』ってドヤ顔で答えただけなんだよ! 深い意味なんてミリ単位すら存在しないの!!」アーカイブが引きつった笑顔で真実を伝えようと必死に熱弁を振るうと、ミレイはハッと息を呑み、さらに深く何度も頷いた。「ま、まさか……!『名などただの記号に過ぎない。過去の蓄積を規約として運用し、重要なのは言葉の定義ではなく、これから私が紡ぐ歴史と成果だ』……とおっしゃりたいのですね……!?」「えっ、いや、そこまでは言ってな――」「どこまでも謙虚で、どこまでも先を見据えていらっしゃる……! 『自分を大層に見せる必要はない、成果こそが全てだ』という真の技術者のような佇まい……!私、感動いたしました!アーカイブ様!」「(ダメだ……ッ!何を言っても勝手にハイエンドな意味に変換される……!言えば言わせるほど墓穴を掘るシステムになってるぞこの世界……!)」会話を完全に諦めたアーカイブは、頭を抱えながら逃げるようにギルドを後にした。街を歩けば、通行人が「あれが……歴史を刻む者、アーカイブ・プロトコル様だ……」とひそひそと胸の前で十字を切り、畏怖の念を込めて道を開ける。八百屋の店主は「プロトコル様!新鮮なリンゴをどうぞ!これを食べて我々の経済活動を承認してください!」とタダで果物を握らせてくれ、警備隊員は彼と目が合っただけで背筋をピンと伸ばして「本日も異常なし!規約通り進行中!」と全力で敬礼した。本人の意思とは真逆の方向で、「聖女の右腕、アーカイブ・プロトコル」の名は、絶対的な法則の体現者として街中に定着してしまったのだった。
ぐったりと精神的に疲れ果て、ようやくいつもの大樹の木陰へと戻ってきたアーカイブ。「ハァ……ハァ……平穏に給料もらって、木陰でのんびり過ごしたいだけなのに、なんでこうなるかな……。ただの社畜がイキって使った横文字のせいで、なんで神様扱いされなきゃいけないんだよ……」脱力して草むらに倒れ込み、木漏れ日が差し込む青空を見上げる。「まあいいや……とりあえず金はあるし、ご飯も美味しいし、今日はもう何も起きないだろ。変に街に出るから勘違いされるんだ。やっぱり俺にはこの木陰で二度寝するのが一番合ってるんだよ……よし、寝よう。全てを忘れて睡眠しよう……」彼が静かに目を閉じ、心地よいまどろみの中に落ちかけた――その時だった。カツ、カツ、と正確なリズムを刻む静かな足音が近づいてきた。アーカイブが薄っすらと目を開けると、そこには書類の束と魔導計算機を抱えた青髪ショートカットの女性。実務・財務・計算処理の絶対的スペシャリスト、シアン・メルキオールが立っていた。「……アーカイブ様。街での『プロトコル名声伝播現象』および治安維持率の異常上昇について、試算結果が出ました」シアンは一切の感情を排した冷徹で知的な声で報告を始める。眼鏡の奥の瞳には、数字による絶対的な確信が宿っていた。「あなたがただ街を歩き、無言で存在を示すだけで、街の犯罪率は前週比八〇%減少。経済循環率は一五%上昇しました。さらには、何も動かず、指示も出さず、ただ待機しているだけでこれほどの成果を出すとは……まさに極限の合理主義。一切の動力を消費しない、計算し尽くされた省エネ戦略です」「いやいやいや!シアンさん!待って! 聞いて!?俺、本当にただお腹いっぱいになって、散歩しながら『今日のご飯美味しかったなー』ってボーッと歩いていただけなんだよ!?治安維持とか経済効果とか、地球の裏側くらい関係ないからね!?」「お戯れを。必要なとき以外は動かず、最小限の挙動で周囲に影響を与えるあなたの『絶対待機プロトコル』……数値的にも完全に証明されました。一切の無駄を削ぎ落とした、恐ろしいまでの統制力です。感服いたしました。今後もその『絶対待機』を継続してください。それが我が国の最大利益です」「(だから待機じゃなくてサボりだって言ってるだろぉぉおッ!!なんで『動かないこと』が最高レベルの功績になってんだよ!これじゃ俺、永久にここから動けないじゃないか!!)」シアンは完璧な角度で一礼すると、事務的な手つきで書類を整理し、風のように去っていった。「(……頼むから、俺の昼寝をそっとしておいてくれ……!!給料は欲しいけど、こんな重圧の中でサボるのは精神衛生上よろしくないんだよ……!!)」ただ静かに暮らしたいだけの男の意図を完全に置き去りにしたまま、「アーカイブ・プロトコル」の名はさらなる過剰評価の渦へと巻き込まれていくのだった。




