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第二話 聖女の右腕、木陰で待機する

 異世界に放り出されてから、あっという間に二か月が経過していた。王都を一望できる小高い丘の上。樹齢数百年はあろうかという立派なオークの大木が広げる、青々とした巨大な木陰の中で、俺は膝を抱えて遠くの美しき街並みを眺めていた。吹き抜ける風が心地いい。 日差しは暖かいが、木陰に入ればまるで高級リゾートの秋風のようだ。ふと、二か月前、聖女セレナを助けたあの命懸けの夜の出来事が頭をよぎる。『いいよ、セレナ。俺は君の復讐に力を貸すよ。……俺だって、ただ流されるだけの人生はもう嫌だ。この異世界で、俺は変わりたいんだ!』(……あの時の俺、本気で格好いい主人公になれると思ってたんだよなぁ。異世界転移のバフがかかって、実は秘められたチート能力が目覚めたりして、聖女の参謀としてバリバリ無双する自分を勝手に夢見てたんだよなぁ……!)己の青臭すぎる過去のセリフと妄想をと思い出して遠い目になりながら、俺は深々とため息をついた。人間、そう簡単には変われない。というか、「三歳の魂百まで」とはよく言ったものだ。(……冷静に考えたら当たり前だろ!前世の俺はブラック企業の平社員だぞ!?毎日上司の顔色を伺って、終電ギリギリまでサボるタイミングを探して、営業回りの途中には公園の木陰に逃げ込んでベンチで缶コーヒー飲んでたような男だぞ!?そんなヤツが急に異世界に来たからって、三国志の諸葛孔明みたいな天才軍師になれるわけがないんだよ! そもそも『指示待ち』しかできない人間が、指示を出す側になれるわけがないんだ……!)あの頃と何一つ変わっていない自分の怠け癖と無能さに苦笑しながら、俺は膝の上に置いた高級そうな羊皮紙の書状に目を落とす。そこには毛筆体のような美しい達筆で、しっかりと俺の役職が記されていた。



『聖女直属特命最高補佐官・聖女の右腕 アーカイブ・プロトコル殿』



 「……右腕、ねぇ」ぽつりと呟いた虚しい声は、心地よい風にさらわれて消えていった。(はぁ……頼むから平和でいてくれよ、アルヴェリア王国よ……。俺に期待しないでくれ。右腕なんて大層な名前がついてるけど、実質的には『ただの高級置物』だからな……!)本来なら、この世界を救う聖女のサポート役として、俺は大車輪の活躍をしているはずだった。異世界転移といえば、主人公が現代の知識を活かして無双する……というのがお決まりのパターンのはずだ。 しかし、現実は甘くない。というか、ベクトルが根本から違っていた。



「右腕様!こちらにクラスター領からの緊急連絡が――!」



 息を切らせて丘を駆け上がってきたのは、汗だくの聖女専属連絡兵だ。青ざめた顔で筒に入った極秘書状を差し出してくる。俺は心の中で『また来たよ……』と泣きそうになりながら、完璧なポーカーフェイスを崩さずに口を開いた。「あー、うん。ご苦労様。……でもね、君、報告する相手を完全に間違えているよ。俺にそんな重要そうな書類を見せられても困るんだ。俺にできるのは、書類の端っこを揃えることと、お茶を飲むことくらいだ。だから、あっちの執務室に持って行ってくれる?セレナ様……あー、聖女様なら、たぶん今頃『経済改革案の第三期予算繰り』の承認作業をしつつ、『新課税制度のシミュレーション』を同時にやってると思うから。そっちに持っていった方が100倍早いよ」「は、はいっ!失礼しました、聖女の右腕様っ!!『現状の予算繰りを見抜いた上で、さらに先の課税制度まで見越して対応せよ』という深謀遠慮……!とぐちに伝えさせていただきますっ!!」「いや全然そんな意味じゃないんだけど!?」俺のツッコミを聞くこともなく、連絡兵は深々と頭を下げると、まるで神の信託でも受けたかのように目を見開き、脱兎のごとく城館へと走り去っていった。その背中を見送りながら、俺は深々とため息をつく。そう、俺には「仕事」がないのだ。理由は単純極まりない。俺を召喚した当事者である聖女セレナが「一人で全部できすぎる」からだった。魔法適性は全属性カンスト。政治の裏取引はお手の物。経済効果の予測は未来予知レベル。情報網は国中に張り巡らされ、軍事指揮をとらせれば常勝無敗。さらには、自分を陥れようとした腐敗貴族たちへの復讐計画まで、分単位の緻密なスケジュールで猛烈な勢いで進めている。まさに完全無欠。超ハイスペック完璧超人。それが聖女セレナだった。



 「……人間って、そんなに急には変われないよね。っていうか、セレナが化け物すぎるんだよ。あんな超人がトップにいたら、下で働く人間は全員ただの置物になるだろ……」



 異世界に来たからといって、元・ブラック企業のしがない平社員の俺が急に名軍師になれるわけもない。やることもなく、できることもなく、俺の日課はこうして「高級スーツを着て、木陰で国を見渡すこと」になっていた。 だが、そんな無職同然の俺にも、一応「仕事」が与えられる瞬間はあるのだ。「片平様」背後から、鈴を転がすような澄んだ美しい声が響いた。振り返ると、眩いばかりの銀髪を風になびかせた聖女セレナが立っていた。大量の書類を抱えているわけでもなく、完璧な姿勢と凛とした佇まい。しかしその紫色の瞳の奥には、国一つを軽々と傾けるほどの冷徹な野心と智慧がギラギラと燃えている。「あ、聖女様。お疲れ様です。……あの、さっき領地からの緊急連絡が行きましたけど」「ええ、確認しました。領主の不正の証拠が揃いましたので、先ほど憲兵隊を差し向けて財産を全額差し押さえさせたところです。ついでに隣国の密偵との内通も発覚しましたので、外交ルートを通じて抗議文と賠償金の請求書を即座に発送させておきました。同時に、後任の代官の人選と、来期の減税措置の手配も完了しております」「……」わずか数分の出来事である。処理スピードが早すぎる。国家規模の不祥事を、まるでメールの既読無視を処理するくらいのノリで解決している。「……聖女様って、本当になんでもできるんですね。俺、この二か月間で何か一つでも役に立ちましたかね? 正直、俺がここにいる意味ってあります?」心の底からの呆れと悲哀を込めて呟くと、セレナは至極当然といった様子で微かに首をかしげた。「聖女ですから」「ですよね……」完璧すぎる返答に、俺はそれ以上何も言えなくなった。ぐうの音も出ないとはこのことだ。 すると、セレナはすっと一歩前に踏み出し、冷たい、けれどどこか温かみを帯びた神秘的な瞳で俺を見下ろした。「さて、健二様。あなたに今日の『重要任務』を命じます」ごくり、と唾を呑み込む。ついに……ついに俺の、異世界での真の知識や現代日本の知恵が必要とされる時が来たのか……!?「なんでも言ってください!例えば『現代の会計システム』の導入とか、『効率的な社内連絡ツール』の構築とか……!」気合を入れる俺に対し、セレナはすっと細い指を掲げ、俺の後ろにある大きなオークの木を指さした。



「そこにいてください」



「……はい?」



 「私が今日の全政務を終えて戻ってくるまで、その木陰から一歩も動かず、待機していてください。それが『聖女の右腕』としての、あなたの仕事です」「待って!?それ仕事!? ただの放置プレイじゃなくて!?え、俺、本当にここに座ってるだけでいいの!?何か考えたり、書類読んだりしなくていいの!?」「ええ。あなたがそこに『ただ居てくださる』こと……それ以上に重要な任務など存在しません。では、行ってまいります」そう言い残すと、セレナは優雅に聖衣の裾をひるがえし、嵐のように執務室へと戻っていった。残された俺は、木陰の中でぽつんと言葉を失っていた。「……サラリーマン時代も、こんな感じだったな」上司からの圧倒的な指示を待つだけの日々。「指示があるまで動くな」と言われて、デスクでひたすらネットサーフィンをしていたあの無為な時間。「俺、異世界に来てまで指示待ちかよ……!しかも『そこに座ってろ』って、犬の『待て』以下だぞ!?権力者のペットか俺は!いや、待てよ……?考えようによっては、これって最高の環境なんじゃないか?だってさ、何もしなくていいんだぞ?責任も発生しない、書類も書かなくていい、怒られることもない!前世じゃ『指示待ち人間は使えない』って怒鳴られまくった俺が、ここでは『座っているだけで重要任務完了』なんだぞ!?これぞホワイト企業の究極系、完全無欠の不労所得じゃないか!!」セルフ突っ込みと謎の自己自己肯定を交互に繰り出しつつ、俺は再びオークの幹にもたれかかった。「……まあ、三食昼寝付きで、給料も出るしな。変に欲を出して手を出して、大失敗して処刑されるより百倍マシだ。よし、今日もしっかりと指示待ちのプロとして、完璧な二度寝を決めてやるぜ!」こうして俺の、優雅で手持ち無沙汰な「木陰待機生活」が本格的にスタートしたのだった。



 だが、この時の俺はまだ知らなかった。なぜ彼女が、わざわざ俺を「その場所」に待機させているのか。そして、その「ただそこにいるだけ」の存在が、この国の人間たちの精神をどう狂わせていくことになるのかを――。「おい、見たか……?今日も聖女の右腕様が、あの木陰で微動だにせず深謀遠慮を巡らせておられるぞ……」「ああ、噂は本当だったんだな。聖女様がどんな難解な国家判断を下す前にも、必ずあの右腕様のもとへ足を運び、直接『神託』を仰ぐらしい……」「凄まじい覇気だ……。一見すると無防備に腰掛けいているように見えるが、隙が全くない。あの男の目には、我が国の未来の百年先まで見えているに違いない……!」木陰でぼんやりと雲の流れを目で追っていた俺の耳に、遠くの兵士たちのヒソヒソ話が風に乗って届いていた。(……いや、猛烈な勘違いだよ!!ただ『そこにいろ』って言われて暇を持て余してるだけだからね!?百年先どころか、今日の晩飯のことしか考えてないからね!?)心の中で猛烈にツッコミを入れるが、声を大にして否定する気力もない。下手に動いて「実は暇なんです」なんてアピールしてセレナの政務の邪魔をしたら、「じゃあこの国家予算の計算をやってください」とか言われて、あの冷たい瞳で恐ろしいデスクワークに駆り出されるのがオチだからだ。そう、この城において、俺の評価は完全に一人歩きしていた。何しろ、あの苛烈で誰も寄せ付けない絶対的指導者・聖女セレナが、唯一「側におくことを許し、意見を乞う男」なのだ。しかも、どれほど過酷な政務の中でも、セレナは一日に何度もこの木陰を訪れ、俺に声をかけていく。 傍から見れば、俺は「影から聖女を操る絶対的黒幕」か「すべての戦略を裏で授けている伝説の智将」にしか見えないらしい。(実際は『聖女様ってなんでもできるんですね』『聖女ですから』『ですよね』の三行会話しかしてないんだけどな……。会話のキャッチボールすら発生してない、ただの確認作業なんだよなぁ……)溜め息をつき、スーツのポケットからセレナにもらったズシリと重い純金貨を取り出す。 「聖女の右腕」として毎日のように支給される日当だ。日本のサラリーマン時代の月給を、たった数日で稼げてしまうほどの破格の金額である。「まあ、文句を言ったら罰が当たるか。前世じゃサービス残業当たり前、休日出勤で手当も出なかったんだ。異世界神様がくれた『社畜慰労手当』だと思って、ありがたく受け取っておこう。指示待ちでこれだけの金がもらえるなら、人生最高のホワイト職場じゃないか。よし、寝よう!」俺は満足げに目を閉じ、温かな木漏れ日を全身に浴びながら、幸せな浅い眠りにつこうとした。



 その頃、聖女の館の二階執務室。窓から木陰のアーカイブを見下ろしながら、側近の赤髪軍人スカーレットと青髪事務官シアンが、戦慄の表情で会話を交わしていた。「シアン……見ろ。アーカイブ様は今日も、あの大オークの下から動こうとされない」「ええ……恐ろしいお方です」シアンは冷や汗で滑り落ちそうになる眼鏡を指で押し上げた。「あの大オークの木陰は、王都の魔力ライン(龍脈)が交差する最大の結界ポイント……。あそこに彼が鎮座しているだけで、街全体を覆う巨大な『精神防衛陣』が完成しているのです」「何だと……!?」「気づきませんか?敵国の諜報員や、我が国の腐敗分子たちが、あの木陰のアーカイブ様と目が合った瞬間、あまりの威圧感に気絶するか、恐怖のあまり自首してきているのを……!」「な……なんということだ……!彼はただ座っているだけで、王都の治安維持と敵国スパイの無力化を同時にこなしているというのか……!?」スカーレットは身震いした。「それだけではないぞ、シアン。聖女様が壁に突き当たるたび、あの木陰へ向かい、一言二言の会話を交わすだけで、瞬時に顔を輝かせて戻ってこられる。アーカイブ様が発する言葉には、我々には理解できぬ領域の『超次元の戦略』が込められているに違いない……!」「『聖女ですから』『ですよね』……。一見すると何気ないやり取りですが、あれは古代語を用いた高次元の暗号通信なのでは……?我々の知能では伺い知れぬ、国家規模の戦略命令がやり取りされているのです……!」二人の側近は、木陰でぐうぐうと気持ちよさそうにあくびをしている男に対し、底知れぬ恐怖と崇拝の念を深めていたのだった。「……ふぁあぁ……」大きなあくびをして、俺はゆっくりと目を覚ました。日差しが少し傾いている。どうやら一時間ほど本格的に昼寝をしてしまったらしい。「あー、よく寝た。やっぱり昼寝は最高だな。そろそろ晩飯の時間かな……今日の献立は何だろう。あの美味しい煮込み料理だといいな」ズボンについた芝生を払い、立ち上がろうとした、その時だった。



ザ……ッ。



 風の音とは明らかに異なる、不穏な足音が木陰の影の中から響いた。冷気が周囲の空気を凍りつかせる。(……え? なにこの嫌な予感。まさか……定時前に緊急残業が入った時のあの雰囲気……!?)俺が固まった瞬間、頭上のオークの枝から、漆黒の装束に身を包んだ「異形の者たち」が、殺気を剥き出しにして無音で舞い降りてきたのだった――。


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