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第六話「執念と気まぐれ」

リアの紐を握りしめていた。


 あたたかさの消えた、ただの布切れ。それが私の手に残った、リアのすべてだった。


「絶対に、生きてね」


 最後の声。


 ……勝手だ、と思った。


 勝手に名前をつけて、勝手に「逃げよう」と言って、勝手に庇って、勝手に消えて。最後に、そんな言葉だけ押しつけて。


 神と同じだ。勝手に命を押しつけて、「感謝せよ」と。


 でも――神の言葉はただ重かっただけだった。リアの言葉は違う。


 重いのに、あたたかい。


(生きてやる)


 さっき口の中で呟いたときとは違った。あれは諦めの裏返しの、軽い決意だった。


 今は、違う。


 リアが命を懸けて繋いだ命だ。ここで死んだら、リアの最後が無駄になる。それだけは絶対に嫌だった。


 諦めがひっくり返る。底をついた絶望が、別の何かに変わる。


 執念と呼ぶしかないものに。


---


 顔を上げた。


 闇はまだそこにいた。私を見ている。森の主。幻獣。聖なる域の化け物。


 勝てるవわけがない。分かっている。リアの全力でさえ一瞬しか押し返せなかった。私には魔法も力もない。子供の、折れた身体があるだけだ。


 それでも。


 ただ喰われてやる気はなかった。


 視線を巡らせる。すぐ近くに、それが落ちていた。


 剣。


 ガロの剣だった。あの男が消えたあと、地に落ちて乾いた音を立てた、あれ。子供の腕には重すぎる。両手で引きずるようにして持ち上げた。


---


 闇が動いた。


 とどめを刺しに来る。


 逃げなかった。逃げても無駄だ。それなら――。


 私は闇へ向かって踏み込んだ。


 折れた肋が叫ぶ。重い剣を渾身の力で闇へ突き出す。


 届くはずがなかった。格が違う。リアの氷でさえ通じなかったのだから。


 なのに。


 切っ先が闇に触れた。


 その瞬間、闇がびくりと震えた。


 まるで、触れてはいけないものに触れたかのように。


(え)


 何が起きたのか分からなかった。ただ、闇が確かに後ずさった。あの、リアを一瞬で消し、ガロを声もなく消した化け物が。


 でも、それだけだった。


 次の瞬間、闇が荒れ狂った。


 今度はひるみではない。怒りのような、拒絶のような、激しい動き。闇から伸びた何かが私を薙いだ。


 剣が手から弾け飛ぶ。身体が宙を舞い、木に叩きつけられた。


 もう、痛みも感じなかった。ただ口から血が溢れ、手足が言うことを聞かない。


(ああ、これで終わりか)


---


 闇がふたたび私の上に迫った。


 今度こそ、とどめ。


 動けない。声も出ない。リアの紐だけはまだ握りしめていた。


(リア。ごめん。私、やっぱり――)


 生きられないかもしれない。


 それでも、最後まで目は閉じなかった。閉じたくなかった。


 闇が落ちてくる。


 その、瞬間だった。


 空気が変わった。


 森のさらに奥。これまでとは比べ物にならない、何か。あの幻獣ですら怯えるような、途方もない気配が――近づいてくる。


---


 とどめを刺すはずだった闇が、まるで別の何かに気を取られたように私から逸れていく。


 幻獣の動きが、止まったまま動かない。


 その気配は、これまでのどれとも違った。


 大陸魔獣の地響き。幻獣の、肌を粟立たせる静寂。そのどれでもない。ただ近づいてくるだけで、世界そのものが平伏すような――そんな気配。


 幻獣が後ずさった。


 あの森の主が。リアを消し、ガロを消し、私を仕留めかけた化け物が。怯えていた。


---


 気配が来た。


 何が起きたのか、私の目には捉えられなかった。


 ただ――幻獣が消えた。


 光が走ったのでも、音がしたのでもない。気づいたときには、あれほど私を絶望させた闇が跡形もなく消えていた。まるで、最初からそこに何もなかったように。


 森の主を、一瞬で。


 あの幻獣を、虫けらのように。


---


 そして、それがそこにいた。


 姿は見えなかった。見ようとすると、視界がぐにゃりと歪む。輪郭も、大きさも、色も、何も像を結ばない。ただ、そこに「ある」ということだけが肌で分かった。


 幻獣が神聖の域の化け物だったなら、これは――もう、人の言葉で測れる何かではなかった。


 神に近いもの。


 それが私を見下ろしていた。


---


 終わった、と思った。


 幻獣を一瞬で消すものだ。私のような虫など、見ることすらなく踏み潰すだろう。


 でも。


 それは、私を見ていた。


 じっと。何かを確かめるように。あるいは、珍しいものを見つけたかのように。


 長い沈黙だった。永遠のようで、一瞬だったかもしれない。


 そして――それはふいに興味を失ったように動いた。


 私から視線を外した。


 通り過ぎていく。私を踏み潰すでもなく、喰らうでもなく。ただ、気が変わったかのように。


(見逃された……?)


 理由は分からなかった。


 気まぐれとしか、言いようがなかった。


 神が私を異世界に放り込んだ、あの気まぐれと。同じ、何か。


---


 気配が遠ざかっていく。


 世界に、音が戻ってきた。


 木々のざわめき。風。遠くの鳥の声。さっきまで、すべてを呑み込んでいた静寂が、嘘のように。


 森は、何事もなかったようにそこにあった。


 幻獣も、更に上の何かも、もういない。


 残されたのは、ボロボロの私だけだった。


 折れた骨。裂けた皮膚。動かない手足。リアの紐を握りしめた片手だけが、かろうじて私のものだった。


 生きていた。


 なぜか、生きてしまっていた。


(リア……私、生きてるよ)


 約束を守れたのか。守らされたのか。分からない。


 ただ、生きていた。


 ふいに、視界が滲んだ。


 頬を、温かいものが伝う。涙だと気づくのに、少し時間がかかった。


 神に何をされても、鎖に繋がれても、売られても、化け物に喰われかけても、一度も流さなかったもの。泣かないことが、精一杯の反抗だった。そのはずだった。


 なのに、今、止まらない。


 これが安堵の涙なのか。生き延びたことへの。それとも、悔しさの涙なのか。リアを失い、守られるばかりで何ひとつできなかったことへの。


 分からなかった。分からないまま、涙だけが後から後からこぼれ落ちていく。


 リアの紐を握りしめたまま、私は声を殺して泣いた。

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