第五話「底と誓い」
闇が、こちらへ近づいてきた。
逃げなきゃ、と思った。思っただけだった。足が動かない。腕の中には、昏倒したリア。抱えたまま走れるはずもない。
それでも後ずさった。一歩。二歩。
闇が、同じだけ距離を詰めた。
逃げ場を探して、視線を走らせる。木々の間、岩の陰、藪の奥。どこかに隠れられる場所は。
無駄だった。
分かっていた。どこへ動いても、闇はまっすぐ私を追ってくる。木の陰に隠れても、藪に伏せても、きっと同じだ。それは、私だけを見ている。
(なぜ)
魔物は、私を素通りした。見えてすらいなかった。なのに、これは。これだけは、なぜこんなにも、まっすぐ私を捉えるのか。
分からない。分からないまま、恐怖だけが膨れ上がる。
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闇から、何かが伸びた。
避けられなかった。
衝撃。身体が宙を舞う。とっさにリアだけは離さないよう抱え込んで、背中から地面に叩きつけられた。
息が止まる。口の中に血の味。肋骨が、いくつか折れた音がした。
痛い、という感覚すら遠かった。
視界が霞む。
ああ、これは死ぬな、と思った。
不思議と、静かだった。
霞んでいく視界の隅で、前の世界がちらついた。コンビニのレジ。終電のホーム。誰もいないアパート。おにぎりの包装を剥く、自分の指。可もなく不可もない、あの灰色の日々。
あれが、私の人生だった。
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一度、死んだ。
光に飲まれて、あっけなく。そして今、また死のうとしている。異世界で、わけも分からないまま、化け物に。
(もう、いいか)
力が抜けていく。
どうせ一度死んだ命だ。拾ったわけでもない、押しつけられた命だ。神に、勝手に。
その時、あの声が蘇った。
『感謝せよ』
……ふざけるな、と思う気力さえ、もうなかった。
感謝せよ。何に。この痛みに。理不尽に。化け物に喰われるこの結末に。
(もう、終わりにしてくれ)
目を閉じようとした。
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「――ティア!」
声がした。
腕の中で、リアが目を開けていた。
「何、諦めてんの」
掠れた声。でも、強かった。
「リア……起き、て……」
「あんたこそ、目ぇ開けな。寝るな。死ぬな」
リアが私の襟を掴んだ。震える手で。リアだって満身創痍のはずだった。なのに、その目はまっすぐ私を睨んでいた。
「約束したでしょ。二人で逃げるって。絶対に逃げるって」
「でも、もう……」
「『でも』はなし」
リアが言い切った。
「あんたは頭がいい。私は度胸がある。二人ならなんとかなる。そう言ったじゃん。だから――勝手に終わらせるな」
その言葉が、なぜか胸の奥に刺さった。
誰かが、私に「死ぬな」と言っている。私のために、怒っている。
前の世界で、誰かいただろうか。私が消えても誰も気にしない。そう思って生きてきた。熱がないと言われ、野心を持てと言われ、それでも誰も、本気で私の生死を案じはしなかった。
なのに、この子は。会って三日の、この子は。
(私の命を、惜しんでくれる人がいる)
初めて知った気がした。自分の命に、私以外の誰かにとっての価値があることを。
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闇が、また動いた。
とどめの一撃。それが私とリア、二人へ迫った。
その時、リアが立ち上がった。
ふらつく足で、私の前に出る。両手を、闇へ向けた。
手のひらに、冷気が渦巻いた。さっきとは比べ物にならない量。空気が白く凍りつき、軋む音を立てる。リアの全身から、湯気のようにマナが立ち上った――いや、燃えていた。命ごと、マナを燃やしていた。
「リア、やめ……!」
止める間もなかった。
リアが、咆哮した。
放たれたのは、巨大な氷の奔流だった。森の主へ。幻獣へ。聖なる域の化け物へ、十代の子供が、ありったけを叩きつけた。
届くはずがなかった。格が、違う。
それでも――その氷は、確かに、闇の一撃を、一瞬だけ押し返した。
私を、守るために。
ほんの一瞬。
でも、その一瞬で、リアは燃え尽きた。
氷が砕け、リアの身体から力が抜ける。崩れ落ちるその身体へ、押し返されていた闇が、ふたたび覆いかぶさった。
「リア!」
手を伸ばした。届かなかった。
闇が、リアを包んだ。
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包まれる、その一瞬。
リアがこちらを見た。
笑っていた。あの薄い、ふてぶてしい笑み。
「絶対に、生きてね」
声が聞こえたのか、口の形だけだったのか、分からない。
でも、確かにそう言った。
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闇が晴れた。
リアがいた場所には、誰もいなかった。
ただ、地面に見覚えのある布が落ちていた。リアの青みがかった髪を束ねていた紐。ぼろぼろの、衣の切れ端。
それだけが残っていた。
(嘘だ)
這って近づいた。折れた肋が悲鳴を上げる。構わなかった。
布を握りしめた。
あたたかさは、もうなかった。
(リアが、消えた)
(私の、代わりに)
涙は出なかった。出し方を忘れたみたいだった。ただ胸の奥に大きな穴が空いて、そこから何もかもがこぼれ落ちていく。
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顔を上げた。
闇が、まだそこにいた。
森の主。幻獣。リアを消したもの。
それは、ゆっくりとまた、こちらを向いた。
私を見ている。
逃げ場はない。守ってくれる人も、もういない。
私は、リアの紐を握りしめたまま、闇を見上げた。
恐怖はあった。絶望も。
でも、その奥で、別の何かが、静かに燃え始めていた。




