第四話「幻獣」
ガロの影は動かなかった。
すぐそこにいる。
息を殺す。
狭い空洞の中で、リアと身体が密着していた。肩も、腕も、脚も、ぴったりと。
それは、まずい状況だった。命の危機という意味ではなく――いや、命の危機でもあるのだが、私にとっては、別の意味でも、まずかった。
白状すると、私は女性というものに、まるで免疫がない。
三十四年。生まれてから死ぬまで、ずっとそうだった。学生のころも、社会人になってからも、女性とまともに付き合ったことが、ただの一度もない。手を繋いだ記憶すらない。会社の飲み会で隣の席の女性社員と肩が触れただけで、その夜は妙に意識して眠れなくなる。そういう男だった。可もなく不可もなく、誰とも深く関わらず、無難に生きてきた。恋愛も、その「関わらずに済ませたもの」の一つだ。だから今さら、どうという話でもない――はずだった。
その私が今、女の子と、隙間なく密着している。
相手は子供だ。それは分かっている。自分も今は子供の身体だ。やましいことなど、何ひとつ、ない。何もないのに――耳のすぐ後ろでする吐息、腕に押しつけられた肩の、骨ばっているのにどこかやわらかい感触、汗と土に混じった、かすかに甘いような匂い。そういうものの一つ一つに、意識が、勝手に吸い寄せられていく。
落ち着け。落ち着け。相手は子供だぞ。お前は、いったい何を考えているんだ。三十四にもなって。いや、三十四にもなって女の一人も知らずに死んだから、こんな、こんな時にまで――。
頭の中が、ぐるぐると、どうでもいいことで埋まっていく。命がかかっているというのに。すぐ外には、人を無言で殺す男がいるというのに。私の思考は、情けないことに、リアの肩のやわらかさと、自分の三十四年間の空白とを、行ったり来たりしていた。
馬鹿か、と自分を罵った。本物の、救いようのない馬鹿だ。
でも、不思議と――その場違いで、あまりに情けない動揺が、ほんの少しだけ、恐怖を薄めてもいた。
「ティア」
リアの囁きで、我に返った。
低く、速い声だった。
「もう隠れるのは無理。このままじゃ、引きずり出される。なら――やる」
その一言で、頭の中の馬鹿げた靄が、一瞬で晴れた。
そうだ。こんなことを考えている場合じゃない。
「やる、って――」
「合図したら動いて。隙は、私が作る」
リアの目に、迷いはなかった。
言うが早いか、リアが空洞の外へ転がり出た。
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リアが立ち上がりざま、手をかざした。
その手のひらに冷気が渦巻く。空気が白く凍っていく。次の瞬間、無数の氷の礫がガロへ撃ち出された。
氷。
魔法を使えるとは、聞いていた。でも、これは――この子は、ただ気が強いだけの子供じゃない。これほどの氷を操れるなんて。
ガロが腕で顔をかばう。その隙に、リアは横へ跳んだ。木を背にして、距離を取る。動きに、迷いがない。
「ティア、出てきて! こいつの足元!」
言われて、私は空洞を這い出た。リアの狙いが、一瞬で分かった。
リアが地面へ手をついた。ガロの足元の土が、みるみる白く凍りついていく。氷。足を、滑らせるために。
ガロがわずかにバランスを崩した。
今だ。私は足元の石を掴み、ガロの顔へ投げつけた。注意を逸らす。その一瞬に、リアの放った氷の刃が、ガロの太腿を裂いた。
「やった……!」
血が滲む。あの大男に、傷を。
リアは、強かった。ただ気が強いだけじゃない。魔法の才も、戦いの度胸も、ずば抜けている。年下に見えるこの子の、いったいどこに、こんな力があるのか。
でも――ガロは、倒れなかった。
太腿を裂かれてなお、表情ひとつ変えない。痛みを、まるで感じていないかのように。むしろ、口の端がわずかに吊り上がった。
「……やるな、嬢ちゃん」
低い声。それは、戦いを愉しむ者の声だった。
その余裕が、何より恐ろしかった。リアの渾身の一撃が、この男には、児戯にすぎないのだ。
リアが、次の氷を練る。けれど、手のひらの冷気が、薄くなっていた。
「マナが、もう……っ」
息が上がっている。撃ちすぎたのだ。
その一拍の隙を、ガロは見逃さなかった。
踏み込む。恐ろしい速さだった。
「リア、危ない!」
叫んだ時には、遅かった。
ガロの腕が、リアの細い身体を横様に薙いだ。
リアが吹き飛ぶ。木の幹に背中から叩きつけられ、そのまま崩れ落ちた。
動かない。
「リア!」
駆け寄ろうとした私の襟首が掴まれた。持ち上げられる。爪先が地を離れた。
ガロの血走った目が、すぐ目の前にあった。
「お前……お前は何だ。なぜ魔物に喰われない。なぜ、お前みたいなものがいる――」
指が首にかかった。確かめるように、暴くように。
抵抗した。男の腕を掴み、引き剥がそうとする。爪を立て、足をばたつかせ、その向こう脛を蹴る。
けれど、何も起きなかった。
子供の手では、男の手首はびくともしない。蹴りは当たっても、男は眉ひとつ動かさない。岩に縋りついて押し返そうとするような、底のない無力さだった。
力が、ない。
転生して最初に思い知ったことを、今また、首を絞められながら思い知らされる。
息ができない。視界が、白く濁っていく。
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その時、藪が爆ぜた。
横合いから何かが飛び出してくる。魔物だ。あの犬型の亜種より、ひと回り大きい。逃げ遅れた一匹が、血の匂いに引き寄せられたのか。
それがガロの肩へ喰らいついた。
「――ぐっ」
ガロの手が緩む。私は地面に取り落とされた。
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ガロが肩の魔物を片手で引き剥がした。
その顔が変わっていた。
憎悪。剥き出しの憎悪だった。
「魔物、風情が……!」
ガロが吼えた。剣を滅多やたらに振るい、魔物を何度も何度も斬りつける。一撃で殺せるはずの相手を、まるで積年の恨みをすべて叩きつけるように。
あの冷静で計算高い男は、そこにいなかった。魔物を前にしたガロは、ただ憎しみに我を忘れた一人の男だった。
何がこの男をそうさせるのか、私には分からなかった。
でも――今しかない。
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私はリアへ這い寄った。
揺さぶる。「リア、起きろ、リア!」反応がない。気を失っている。
でも、息はある。胸がかすかに上下している。生きている。
抱え上げようとした。重い。子供の身体に、子供ひとりは重すぎた。それでも腕の下に手を差し入れて、ずるずると引きずる。一歩、また一歩。腕がちぎれそうだった。
背後で、ガロの咆哮と魔物の悲鳴が続いている。
振り返るな。この隙だけが、唯一の道だ。
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その時、音が消えた。
また、あれだった。森がしんと静まり返り、風が止む。空気が重く、密度を増していく。背筋を冷たいものが這い上がった。
振り返る。
ガロがいた。魔物を斬り伏せ、こちらへ足を踏み出そうとした、その姿勢のまま、棒立ちになっていた。
倒れているのではない。動けないのだ。何があっても止まらなかったあの男が、棒のように突っ立ったまま、森の奥を見据えて硬直していた。
ガロの正面。森の奥の暗がりが濃くなっていく。ありえない密度で闇が蟠る。そこに、何かがいた。大きい。けれど輪郭は見えない。見ようとすると目が滑る。
ガロが剣を構えた。あの、魔物を一蹴し、リアの氷を意に介さなかった男が。
闇から、何かが伸びた。
一瞬だった。
ガロの身体が、声もなく消えた。斬られたのでも、潰されたのでもない。ただ――そこに在ったものが、なくなった。剣だけが地に落ちて、乾いた音を立てた。
あれほど強かった男が。私たちをあれほど追い詰めた男が。
一瞬で。何の抵抗も許されずに。
絶望が、足元から這い上がってきた。
あれに、勝てるわけがない。逃げられるわけが、ない。
ガロを消した、何か。
幻獣。盗賊たちが噂していた。見た者は生きて帰れない、と。
それが今、私の目の前にいた。
闇がゆっくりとこちらを向いた。
見えない。姿は何も見えない。けれど、分かる。
それは、私を見ている。
魔物には見えなかった私を。
昏倒したリアを抱えたまま、私は動けなかった。
逃げ場は、どこにもなかった。




