表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/8

第四話「幻獣」

 ガロの影は動かなかった。


 すぐそこにいる。


 息を殺す。


 狭い空洞の中で、リアと身体が密着していた。肩も、腕も、脚も、ぴったりと。


 それは、まずい状況だった。命の危機という意味ではなく――いや、命の危機でもあるのだが、私にとっては、別の意味でも、まずかった。


 白状すると、私は女性というものに、まるで免疫がない。


 三十四年。生まれてから死ぬまで、ずっとそうだった。学生のころも、社会人になってからも、女性とまともに付き合ったことが、ただの一度もない。手を繋いだ記憶すらない。会社の飲み会で隣の席の女性社員と肩が触れただけで、その夜は妙に意識して眠れなくなる。そういう男だった。可もなく不可もなく、誰とも深く関わらず、無難に生きてきた。恋愛も、その「関わらずに済ませたもの」の一つだ。だから今さら、どうという話でもない――はずだった。


 その私が今、女の子と、隙間なく密着している。


 相手は子供だ。それは分かっている。自分も今は子供の身体だ。やましいことなど、何ひとつ、ない。何もないのに――耳のすぐ後ろでする吐息、腕に押しつけられた肩の、骨ばっているのにどこかやわらかい感触、汗と土に混じった、かすかに甘いような匂い。そういうものの一つ一つに、意識が、勝手に吸い寄せられていく。


 落ち着け。落ち着け。相手は子供だぞ。お前は、いったい何を考えているんだ。三十四にもなって。いや、三十四にもなって女の一人も知らずに死んだから、こんな、こんな時にまで――。


 頭の中が、ぐるぐると、どうでもいいことで埋まっていく。命がかかっているというのに。すぐ外には、人を無言で殺す男がいるというのに。私の思考は、情けないことに、リアの肩のやわらかさと、自分の三十四年間の空白とを、行ったり来たりしていた。


 馬鹿か、と自分を罵った。本物の、救いようのない馬鹿だ。


 でも、不思議と――その場違いで、あまりに情けない動揺が、ほんの少しだけ、恐怖を薄めてもいた。


「ティア」


 リアの囁きで、我に返った。


 低く、速い声だった。


「もう隠れるのは無理。このままじゃ、引きずり出される。なら――やる」


 その一言で、頭の中の馬鹿げた靄が、一瞬で晴れた。


 そうだ。こんなことを考えている場合じゃない。


「やる、って――」


「合図したら動いて。隙は、私が作る」


 リアの目に、迷いはなかった。


 言うが早いか、リアが空洞の外へ転がり出た。


---


 リアが立ち上がりざま、手をかざした。


 その手のひらに冷気が渦巻く。空気が白く凍っていく。次の瞬間、無数の氷の礫がガロへ撃ち出された。


 氷。


 魔法を使えるとは、聞いていた。でも、これは――この子は、ただ気が強いだけの子供じゃない。これほどの氷を操れるなんて。


 ガロが腕で顔をかばう。その隙に、リアは横へ跳んだ。木を背にして、距離を取る。動きに、迷いがない。


「ティア、出てきて! こいつの足元!」


 言われて、私は空洞を這い出た。リアの狙いが、一瞬で分かった。


 リアが地面へ手をついた。ガロの足元の土が、みるみる白く凍りついていく。氷。足を、滑らせるために。


 ガロがわずかにバランスを崩した。


 今だ。私は足元の石を掴み、ガロの顔へ投げつけた。注意を逸らす。その一瞬に、リアの放った氷の刃が、ガロの太腿を裂いた。


「やった……!」


 血が滲む。あの大男に、傷を。


 リアは、強かった。ただ気が強いだけじゃない。魔法の才も、戦いの度胸も、ずば抜けている。年下に見えるこの子の、いったいどこに、こんな力があるのか。


 でも――ガロは、倒れなかった。


 太腿を裂かれてなお、表情ひとつ変えない。痛みを、まるで感じていないかのように。むしろ、口の端がわずかに吊り上がった。


「……やるな、嬢ちゃん」


 低い声。それは、戦いを愉しむ者の声だった。


 その余裕が、何より恐ろしかった。リアの渾身の一撃が、この男には、児戯にすぎないのだ。


 リアが、次の氷を練る。けれど、手のひらの冷気が、薄くなっていた。


「マナが、もう……っ」


 息が上がっている。撃ちすぎたのだ。


 その一拍の隙を、ガロは見逃さなかった。


 踏み込む。恐ろしい速さだった。


「リア、危ない!」


 叫んだ時には、遅かった。


 ガロの腕が、リアの細い身体を横様に薙いだ。


 リアが吹き飛ぶ。木の幹に背中から叩きつけられ、そのまま崩れ落ちた。


 動かない。


「リア!」


 駆け寄ろうとした私の襟首が掴まれた。持ち上げられる。爪先が地を離れた。


 ガロの血走った目が、すぐ目の前にあった。


「お前……お前は何だ。なぜ魔物に喰われない。なぜ、お前みたいなものがいる――」


 指が首にかかった。確かめるように、暴くように。


 抵抗した。男の腕を掴み、引き剥がそうとする。爪を立て、足をばたつかせ、その向こう脛を蹴る。


 けれど、何も起きなかった。


 子供の手では、男の手首はびくともしない。蹴りは当たっても、男は眉ひとつ動かさない。岩に縋りついて押し返そうとするような、底のない無力さだった。


 力が、ない。


 転生して最初に思い知ったことを、今また、首を絞められながら思い知らされる。


 息ができない。視界が、白く濁っていく。


---


 その時、藪が爆ぜた。


 横合いから何かが飛び出してくる。魔物だ。あの犬型の亜種より、ひと回り大きい。逃げ遅れた一匹が、血の匂いに引き寄せられたのか。


 それがガロの肩へ喰らいついた。


「――ぐっ」


 ガロの手が緩む。私は地面に取り落とされた。


---


 ガロが肩の魔物を片手で引き剥がした。


 その顔が変わっていた。


 憎悪。剥き出しの憎悪だった。


「魔物、風情が……!」


 ガロが吼えた。剣を滅多やたらに振るい、魔物を何度も何度も斬りつける。一撃で殺せるはずの相手を、まるで積年の恨みをすべて叩きつけるように。


 あの冷静で計算高い男は、そこにいなかった。魔物を前にしたガロは、ただ憎しみに我を忘れた一人の男だった。


 何がこの男をそうさせるのか、私には分からなかった。


 でも――今しかない。


---


 私はリアへ這い寄った。


 揺さぶる。「リア、起きろ、リア!」反応がない。気を失っている。


 でも、息はある。胸がかすかに上下している。生きている。


 抱え上げようとした。重い。子供の身体に、子供ひとりは重すぎた。それでも腕の下に手を差し入れて、ずるずると引きずる。一歩、また一歩。腕がちぎれそうだった。


 背後で、ガロの咆哮と魔物の悲鳴が続いている。


 振り返るな。この隙だけが、唯一の道だ。


---


 その時、音が消えた。


 また、あれだった。森がしんと静まり返り、風が止む。空気が重く、密度を増していく。背筋を冷たいものが這い上がった。


 振り返る。


 ガロがいた。魔物を斬り伏せ、こちらへ足を踏み出そうとした、その姿勢のまま、棒立ちになっていた。


 倒れているのではない。動けないのだ。何があっても止まらなかったあの男が、棒のように突っ立ったまま、森の奥を見据えて硬直していた。


 ガロの正面。森の奥の暗がりが濃くなっていく。ありえない密度で闇が蟠る。そこに、何かがいた。大きい。けれど輪郭は見えない。見ようとすると目が滑る。


 ガロが剣を構えた。あの、魔物を一蹴し、リアの氷を意に介さなかった男が。


 闇から、何かが伸びた。


 一瞬だった。


 ガロの身体が、声もなく消えた。斬られたのでも、潰されたのでもない。ただ――そこに在ったものが、なくなった。剣だけが地に落ちて、乾いた音を立てた。


 あれほど強かった男が。私たちをあれほど追い詰めた男が。


 一瞬で。何の抵抗も許されずに。


 絶望が、足元から這い上がってきた。


 あれに、勝てるわけがない。逃げられるわけが、ない。


 ガロを消した、何か。


 幻獣。盗賊たちが噂していた。見た者は生きて帰れない、と。


 それが今、私の目の前にいた。


 闇がゆっくりとこちらを向いた。


 見えない。姿は何も見えない。けれど、分かる。


 それは、私を見ている。


 魔物には見えなかった私を。


 昏倒したリアを抱えたまま、私は動けなかった。


 逃げ場は、どこにもなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ