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第三話「崩壊」

馬車は進んでいた。


 朝の光が幌の隙間から細く差し込んでいる。


 荷台の空気は奇妙に張り詰めていた。泣き止んだ子もいれば、まだ震えている子もいる。売られる場所が近づくほど、恐怖は濃くなる。けれど私とリアにとって、それは別の意味を持っていた。


(逃げるなら、今日)


 リアと目を合わせる。声には出さない。昨日覚えた、それだけのやりとり。リアがわずかに顎を引いた。分かってる、と。


 外では、男たちの声が弾んでいた。


「やっと着くな」


「今回の稼ぎはでかいぞ」


「酒だ、酒。街に着いたら、浴びるほど飲む」


 笑い声。蹄の音。車輪の軋み。すべてが街へ向かって流れている。


 その時だった。


 御者台の方から、老爺の声がした。


「……止まれ」


 短い。けれど、これまで聞いたどの声より低かった。


---


 馬車が止まる。


 幌の隙間から外を覗いた。街道の両脇に、見渡す限りの草原が広がっている。背の高い草が、風もないのに波打っていた。


 昨夜、私が見たのと同じ。けれど今は、もっとはっきりしている。


 草が揺れている。一方向ではない。あちこちで、ばらばらに。何かが草の中を移動している。たくさんの、何かが。


「どうした、じいさん」


 グレンの声。軽い調子のままだ。


 老爺は答えなかった。代わりに、北の方を見ていた。地平の彼方、青く霞んだところに、暗い帯のようなものがある。森だ。街道の先、北の果てに、黒々とした森が横たわっている。


「……森が、吐き出した」


 老爺がそれだけ言った。


「は?」


「逃げてくる。森から。何かに、追われて」


---


 草が割れた。


 最初に飛び出してきたのは、犬のような何かだった。


 いや、犬ではない。四肢の関節がぜんぶ逆を向いている。皮膚は薄く剥けたように赤黒く、濡れて光っていた。顔の前面に、眼球がいくつも並んでいる。それが一斉にこちらを向いた。


 一匹ではなかった。二匹、三匹――草原のあちこちから、次々と。十数匹。


「魔物だ!」


 誰かが叫んだ。弾んでいた声が、一瞬で恐怖に変わる。


 最初に死んだのは御者だった。


 御者台の老爺へ、一匹が真っ直ぐ飛びかかった。老爺は逃げなかった。逃げる時間もなかった。短い悲鳴さえ上がらなかった。赤黒い顎が首にかかり、それで終わった。


 馬が狂ったように嘶いた。


---


 馬車が傾いだ。


 繋がれていた馬の一頭が喰われ、もう一頭が暴れて、車体が大きく揺れる。横倒しになる寸前で、何かにぶつかって止まった。荷台の中で子どもたちが転がり、悲鳴が上がる。私は鎖を握って、板に身体を押しつけた。リアもすぐ近くにいた。


 外では、盗賊たちが応戦を始めていた。


「囲め! 数で押せ!」


 ガロの声。低く、短い。


 男の一人が手をかざした。掌の先に火が膨らむ。それが唸りを上げて魔物へ飛んだ。一匹が炎に包まれ、甲高い声で焼け落ちる。


 別の男が風を放つ。刃のような風が魔物の脚を薙いだ。


 魔法。


 息が止まった。


 何もない掌から火が生まれる。指の先から風が刃になる。前の世界では、ありえなかった。物語の中だけの絵空事だったはずのものが、目の前で現実として振るわれている。


 美しい、と一瞬思った。


 次の瞬間、その火が魔物を包み、生きたまま焼き殺すのを見て、背筋が凍った。


 これが、この世界の力。手をかざすだけで、人ひとりが生き物を灰に変える。あの巨大な魔物さえ、こうして焼かれ、薙がれていく。


 恐ろしかった。そして――どうしようもなく、惹かれた。


 私も、と思った。無意識に、自分の掌を見つめた。


 何も起きなかった。


 空っぽの手だった。


---


 だが、魔物の数は減らなかった。


 一匹倒すごとに、二匹増える。火に焼かれても、風に裂かれても、構わず突っ込んでくる。盗賊たちの陣形がじわじわと崩れていく。


「くそっ、多すぎる!」


「キリがねえ!」


 怒号と悲鳴が混ざる。男が一人、引きずり倒された。


 ガロが荷台を振り返った。


 その目を、私は見た。何かを計算する目だった。


「おい」


 ガロが近くの男に顎をしゃくった。「荷台の餓鬼を、何匹か外に出せ」


「は?」


「囮だ。魔物がそっちに食いつけば、囲みが緩む」


 淡々としていた。怒りもためらいもない。商品を損切りする商人の声だった。


 男が荷台に踏み込んでくる。鎖を乱暴に外す。私と、リアと、近くにいた子を二人。手首を掴まれ、引きずり出された。


「行け!」


 背中を突き飛ばされる。


---


 草の上に転がった。


 すぐ目の前に魔物がいた。赤黒い、濡れた肌。並んだ眼球。私は動けなかった。逃げる力も、戦う力もない。


(終わった)


 そう思った。


 魔物が跳んだ。


 私を、飛び越えた。


「……え」


 声が漏れた。


 魔物は私には見向きもしなかった。私の横をすり抜け、その向こうの盗賊へと向かっていく。


 もう一匹来た。それも私を素通りした。まるで、そこに誰もいないかのように。私の姿も匂いも、存在そのものが、奴らには映っていないみたいに。


 わけが分からなかった。


(なぜ。どうして、私だけ)


 考えている余裕はなかった。リアが私の腕を掴んだ。


「ティア、こっち!」


 リアにも魔物は向かっていなかった。だが、囮にされたもう二人は――


 見るな、と自分に言い聞かせた。


 見たところで、私には何もできない。


---


 近くで、グレンが戦っていた。


 短剣を振るい、風で魔物を薙ぎながら、必死に後退している。その目がふと、私を捉えた。


 魔物に囲まれていない、私を。


 その顔が奇妙に歪んだ。恐怖とも混乱ともつかない表情。


「なんで……」


 グレンが呟いた。


「なんで、こいつに魔物が……向かわねえ……?」


 その一瞬の隙だった。


 背後から魔物が躍りかかった。グレンの声が途切れた。赤黒いものが、彼の上に折り重なる。


 軽口の多い、あの若い男は、最後まで答えの出ない問いを口にしたまま消えた。


---


「ティア、走って!」


 リアが私を引っ張った。


 逃げるなら今しかなかった。盗賊は魔物に喰われ、魔物は私を無視する。混乱の真ん中で、私たちだけが奇妙な空白の中にいた。


 草原を駆けた。リアの手が私の手を握っている。離さないように、強く。背の高い草をかき分け、転びそうになりながら、地獄から離れる方へ。


 気づけば、目の前に森があった。


 黒々とした、巨大な森。逃げているうちに街道を外れ、森の縁まで来ていた。


「森って……魔物が、出てきた方だよね」


 息を切らしながら、私は言った。あそこから、あの群れは湧いてきた。飛び込むのは、巣に頭を突っ込むようなものだ。


「いい」


 リアは走る足を緩めなかった。「あんた、見たでしょ。魔物、あんたには見向きもしなかった」


「……」


「なんでか知らないけど、あんたの傍が今いちばん安全。魔物が寄ってこない。だったら、魔物の出た森でも、こっちのほうがマシ」


 むちゃくちゃな理屈だった。でも、リアの目は本気だった。そして――事実、逃げる間も、私の周りには一匹も寄ってこなかった。


「それに、あいつらは森から飛び出してきた。だったら、来た方へはそう簡単に戻らない」


 還らずの森。猟師が五人入って誰も戻らなかった、と老爺は言っていた。近づくな、と。


 でも、後ろは地獄だ。


 迷っている時間はなかった。私たちは森へ駆け込んだ。


---


 森の中は、昼だというのに薄暗かった。


 幾重にも重なった梢が光を遮っている。湿った土。苔の匂い。背の高い木々が、見渡す限り続いていた。


 息を切らして走り、やがて足を止め、太い木の陰に身を隠した。リアと背中を合わせて、息を殺す。


「……はぁ、はぁ。リア、平気か」


「平気。あんたこそ、足、遅い」


「悪かったな」


 軽口を返す余裕すら、本当はなかった。けれど、リアの口の減らなさが、少しだけ私を落ち着かせた。


 魔物の声は、もう聞こえない。盗賊の悲鳴も。森がすべてを吸い込んでいた。


「リアの言うとおりだ。魔物、追ってこない」


「でしょ」リアが薄く笑った。「私、けっこう冴えてるんだから」


(助かった、のか)


 そう思いかけた、その時。


---


 遠くで、獣の悲鳴が聞こえた。


 一匹。続いて、もう一匹。何かが魔物を斬り伏せながら近づいてくる。


 木の陰からそっと覗いた。


 ガロだった。


 あの大男が森の中を突き進んでくる。前を塞ぐ魔物を、剣の一閃で斬り捨てながら。返り血も拭わず、一歩も止まらない。あれほど盗賊たちを喰い殺した魔物が、ガロの前では藪を払うのと変わらなかった。


(化け物だ)


 リアが言っていた。一人で三人片付けた、と。魔物と戦い慣れた動き、と。あれは誇張じゃなかった。


 そして、ガロは――叫んでいた。


「どこだ……! 出てこい……!」


 あの無口な男が。一言で全てを決めるという、あの男が。声を張り上げている。


「お前は、何だ……! なぜ、魔物に喰われない……!」


 その声に、これまでの冷たさはなかった。代わりにあるのは、抑えきれない執着だった。得体の知れないものを、捕まえて、暴いて、確かめなければ気が済まない。そういう、狂気にも似た何か。


 商品を追っているのではなかった。私という「分からないもの」を追っている。


 背筋が凍った。


「逃げるよ」


 リアが囁いた。声にならない声で。


 私は頷いた。


---


 そこから、必死の逃走が始まった。


 リアが私の手を引いた。木から木へ、岩陰から倒木の向こうへ。身を低くして、葉を踏まないよう、足を置く場所を選ぶ。リアは逃げ慣れていた。何度も捕まり、何度も逃げ損ねてきた者の、切実な慣れだった。


「足跡、残すな。固い地面だけ踏んで」


「分かってる」


 ふと思った。さっき盗賊たちが使っていた、あの火や風。あれを、リアは使えないのか。


「リア、お前……魔法は」


「使える」


 短く、リアが答えた。「でも今は無理。ここで魔法なんか使ったら、マナであいつに――ガロに、居場所を教えるようなもの。それに」


 リアが、ちらりと後ろを見た。


「あの男に、私程度の魔法が通るとは思えない。使うなら、本当の、最後だけ」


 私は地形を読んだ。右は急な斜面。降りれば速いが、音が出る。左の藪は、抜けるのに時間がかかるが、姿を隠せる。前世で培った、状況を読む癖。今はそれしか武器がない。


 だが、ガロは――速かった。


 もう叫ばなかった。再び無言に戻ったかと思うと、こちらの動きを読んでいた。私たちが斜面を避けて藪へ入れば、藪の出口で待つように回り込む。木を盾に隠れれば、風下から気配を探る。


(狩人だ)


 獲物がどこへ逃げ、どこで足を止めるかを知り尽くしている。力だけではない。頭が回る。だから、こいつは恐ろしい。


 じわじわと距離が詰まる。逃げても逃げても、背後にあの大きな影が現れる。


 息が上がる。足がもつれる。子供の身体は、すぐに限界が来た。リアの息も荒かった。


---


「ティア、あそこ」


 リアが顎で示した。倒れた大木の根が土をえぐって、暗い空洞を作っている。子供二人なら、ぎりぎり潜り込めそうだった。


 私たちはその奥へ、身を滑り込ませた。


 土と、湿った根の匂い。膝を抱えて、できるだけ小さくなる。リアと肩を寄せ合って、息を殺した。


 足音が近づいてくる。


 ゆっくりと。一歩、また一歩。


 空洞のすぐ外で。


 止まった。


 私はリアの手を握った。リアも握り返してくる。声を出すな。動くな。息さえするな。


 ガロの影が、空洞の入り口のすぐ脇に見えた。


 見つかれば、終わり。


 心臓の音がうるさかった。こんなに大きく響く音を、あの男に聞かれてしまわないか。


 ガロの影は動かなかった。


 すぐそこに、いる。


 息を殺す。


 今はただ、それしかできなかった。


















## 幕間 ―― ガロ


 男は森を歩いていた。


 ガロという名が本当の名かどうか、もう自分でも覚えていない。捨ててきた名は、いくつもあった。


 かつて、男は魔物を狩る側にいた。盗賊などより、ずっと割のいい――そして、ずっと多く死ぬ仕事だった。


 魔物は強いマナに引き寄せられる。だから、腕の立つ者ほど狙われる。仲間が次々と喰われた。強い奴から、順に。守ろうとした者も、守ってくれた者も、みなマナの匂いに惹かれた獣の腹に消えていった。


 力がある。だから、死ぬ。


 そういう世界だった。男はその理不尽を、嫌というほど見てきた。抗って、抗って、結局、何ひとつ守れなかった。手に残ったのは剣だけだった。狩る者は、いつしか奪う者へ堕ちた。


 だから――あの娘を見たとき、男の中で何かが軋んだ。


 魔物が娘を素通りした。一匹残らず。喰われない。狙われない。まるで、そこにいないかのように。


 あんなものは、見たことがなかった。


(あれが、あれば)


 もし、あの力があの時あれば。誰も失わずに済んだのか。


 いや、違う。そんな感傷ではなかった。もっと暗いものだった。


 あの娘は、男が一生をかけて抗ってきた世界の理の、外側にいる。喰われる側でも、狩る側でもない。理の、埒外。


 知りたかった。捕まえて、暴いて、確かめたかった。


 お前は、何だ。


 なぜ、お前だけが。


 男は剣を握り直し、薄暗い森の奥へ足を進めた。


 商品のことなど、もうどうでもよかった。

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