第二話「盗賊の夜(後編)」
翌朝、馬車は再び動き出した。
街道に出ると、時折すれ違う旅人の姿があった。行商人らしい荷車。護衛を連れた商人。街道を行く旅人の一団。荷台の隙間から見える外の世界は、確かに、人が生きている世界だった。
昼の間は、迂闊に口を開けなかった。
荷台の入り口には、常に見張りの男が一人座っている。商品が逃げないか、傷つけ合わないか、退屈そうな目で監視していた。昨夜のように声を潜めて話せるのは、男たちが酒で気を緩める夜だけだ。日中にひそひそやれば、すぐに「うるせえ」と怒鳴られ、目をつけられる。それだけは避けたかった。
だから昼の間、私とリアはほとんど言葉を交わさなかった。
昼前に一度だけ、硬いパンと水が配られた。革袋の水は泥臭く、パンは石みたいに硬い。それでも、ないよりはましだ。私は時間をかけて、少しずつ齧った。
ふと視線を感じて顔を上げると、リアがこちらを見ていた。自分の分は、もう食べ終えている。
リアが、声には出さず、口の形だけで何か言った。――おそい。たぶん、そう言った。
私は咀嚼を続けながら、目だけでリアを見返す。よく噛むと腹が膨れる、と返したつもりだったが、伝わったかどうかは分からない。
リアが、肩を小さく揺らした。笑ったらしい。
それだけのやりとりだった。声も出さず、表情もほとんど動かさない。見張りの男からは、二人の子供がぼんやり座っているようにしか見えなかっただろう。
でも、それで十分だった。言葉にしなくても伝わるものが、いつの間にか、二人の間にあった。
昼を過ぎた頃、ガロが荷台に入ってきた。
無言だった。一人ひとりの顔を確認し、手首の鎖を引いて、状態を確かめていく。他の子たちは縮こまって顔を伏せた。私は視線を外さなかった。
ガロが私の前で止まった。
昨日と同じように、顎を掴まれた。
振り払えなかった。
ガロは私の目を見た。商品の質を見る目ではなかった。値踏みとも品定めとも違う。何かを確かめるような、底の見えない目だった。
ガロがゆっくりと口を開いた。
「お前、どこから来た」
低い声だった。命令でも脅しでもなく、ただ事実を確認するような声。
私は答えなかった。
心臓が嫌な打ち方をしていた。
ガロはしばらく私を見て、それから、特に気にした様子もなく荷台を出ていった。
リアが小声で言った。「声、かけられた?」
「ああ」
「何を聞かれた」
「どこから来たか、と」
リアの眉がわずかに動いた。
「それは、まずい」
「なぜだ」
「あいつが何かを聞くのは、何かを感じたときだけ。普段は、無言で全部決める。言葉を使うときは――確認してるんだ。自分の中で、引っかかったことを」
私は何も言わなかった。
ガロが何かに気づきかけているとしたら。
それが何なのかは分からない。でも、早く気づかれない方がいい。それだけは、はっきりと分かった。
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二日目の夜も、野営だった。
焚き火の声は昨夜より賑やかだった。酒が入っているのか、笑い声が多い。
「神の加護を受けた奴って、本当にいるのか」
「いるぞ。俺は一度だけ見た。『滅剣』って呼ばれてる女剣士だ」
「どんなだった」
「化け物だった。剣と魔法を両方使って、上位の生物を単騎で屠った。俺たちじゃ、束になっても敵わねえ。ああいうのが、神に選ばれた奴ってことなんだろうな」
「俺には、縁のねえ話だ」
「俺もだ」
「精霊に好かれた奴も、同じようなもんらしいぞ。精霊と契約したら、単騎で魔物の群れを蹴散らせるって」
「嘘だろ」
「本当だ。俺の故郷の村に、そういう奴がいた。村を守ってくれてた。……まあ、その村はもう、ないけどな」
笑い声は出なかった。しばらく沈黙があった。
「……そういう奴らは、別の生き物だよ」
「そうだな」
私は闇の中でその会話を聞いていた。
神の加護。精霊との契約。選ばれた者。
では、私には何がある。
神に与えられたのは「感謝せよ」という言葉だけだった。力も加護も、何もない。この世界の力の仕組みが、自分にどう関わるのかさえ、まだ何も分からない。
ないものを数えても、仕方がない。
そう思っても、胸の奥が少しだけ冷えた。
「ティア」
リアが声をかけてきた。
「聞いてた」
「うん」
「落ち込んでる?」
私は少し考えた。「落ち込んでない」
「そう」
リアが膝の上で腕を組んだ。「私も、そういうのは持ってない。だから、自分の頭と足で考えるしかない」
「そうだな」
「あんたは頭がいい。私は度胸がある」
リアがきっぱりと言った。「二人合わせたら、なんとかなる」
根拠のない自信だった。
でも、不思議と悪い気はしなかった。さっき冷えた胸の奥が、その一言で少しだけ温まった気がした。
しばらく沈黙が続いた。外の声が遠くなり、焚き火の音だけが聞こえていた。
「ねえ、ティア」
リアが天井を見上げたまま言った。
「なんだ」
「神様の話、知ってる?」
私は少し間を置いた。知っているわけがない。この世界のことを、私は何も知らない。
「知らない」
「そっか」
リアが膝を抱え直した。語るでもなく、ただ思い出すように、ゆっくりと話し始めた。
「子どものころ、母親に聞かされた話なんだけど。この世界の誰でも知ってる、昔話みたいなもの」
私は黙って聞いた。
「はじめ、この世界には神様しかいなかった。神様はたくさんいて、それぞれに力があって、それぞれに序列があった。一番上にいる神様が、この世界全体を治めてた」
「神様が、複数いるのか」
「そう。で、その一番上の神様が、ある時、生き物を作った」
リアが少し笑った。どこか皮肉っぽい笑いだった。
「理由が面白くてさ。神様は孤独だったんだって。ずっと神様同士でいるだけで、つまらなくなったんだって」
「神様が、孤独で、つまらない」
「おとぎ話だからね。それで、人間を作って、魔物を作って、いろんな生き物を作った。でも、生き物は弱かった。ちょっとしたことで死ぬし、力もないし、お互いに傷つけ合う。だから神様は、生き物にマナを与えた」
マナ、と私は内心で繰り返した。焚き火の向こうで聞いた、あの言葉だ。
「マナがあれば、生き物は強くなれる。経験を積んで、戦って、学んで、マナを積み上げていけば、どこまでも格が上がっていく。そうやって、生き物は神様に近づいていく――って話」
「神様に、近づく」
「そう」
リアが天井から視線を外して、私を見た。
「この世界では、生き物はマナを積み重ねて格を上げ続ければ、いつか神に至ると言われてる。おとぎ話の中では、神様が孤独を埋めるために生き物を作って、マナを与えた、ってことになってる」
私はしばらく、その話を飲み込もうとした。
(生き物が、格を上げ続ければ、神に至る)
そういう世界の仕組みか。だとすれば、マナは単なる力の源ではない。生き物が神へ向かって登っていくための――階段のようなものだ。
「でも」
リアが続けた。声が少し低くなった。
「私は、その話、あんまり信じてない」
「なぜだ」
「神様が孤独で、つまらなくて、生き物を作った。それは分かる。でも――」
リアが口元を引き結んだ。
「孤独を埋めたかっただけなら、なんで生き物にこんなに理不尽な世界を与えたんだろうって、ずっと思う。弱い生き物が強い魔物に喰われて、人間同士で殺し合って、強いやつだけが生き残る。それって、孤独を埋めるための世界じゃない気がする」
私は何も言わなかった。
神は「感謝せよ」と言った。何も教えてくれなかった。孤独だったから生き物を作った――その話が本当だとしても、あの神は私に何ひとつ与えなかった。言葉ひとつ。それだけだった。
(孤独を埋めたかったのではないとしたら。では、何のために)
「まあ、おとぎ話だから」
リアが肩をすくめた。「本当のことは、誰も知らない。神様が何を考えてたかなんて、聞いた奴がいないんだから」
「そうだな」
「でもさ」
リアがまた天井を見上げた。
「もし本当に、生き物が格を上げ続ければ神に至るなら――私はいつか、そこまで行ってやろうと思う。こんな目に遭わせた神様に、文句の一つでも言ってやる」
静かな言葉だった。怒りでも泣き言でもなく、ただ、決めていることを述べるような口調だった。
私はリアを見た。
暗い荷台の中で、リアは真っ直ぐ前を見ていた。鎖に繋がれて、売られていく途中で、それでもその目は、はるか遠くの何かを見据えていた。
「いい目標だな」
私が言うと、リアがこちらを向いた。
「ティアは?」
「私は」
少し考えた。
「普通に生きてやる。それだけで、十分だ」
リアが一瞬黙った。それから、小さく吹き出した。笑い声を抑えようとして、抑えきれなかった、という感じの短い笑い。
「それ、この世界では一番難しいやつじゃないの」
「そうかもしれない」
「変なやつ」
三回目の、その言葉。
最初の二回とはまるで違う響きがあった。呆れでも面白がりでもなく――どこか、仲間を見るような目だった。
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三日目の朝が来た。
御者台からガロの声が聞こえた。
「あと半日だ。ペースを上げろ」
街が近い。
荷台の中の空気が少し変わった。他の子たちがざわめき、泣き出す子もいた。
私はリアを見た。
リアは泣いていなかった。唇を一文字に結んで、何かを数えるような目つきで、荷台の扉を見ていた。
「ティア」
「なんだ」
「逃げるなら、今日しかない」
「分かってる」
リアが私を見た。真っ直ぐな目だった。怖がっていないわけじゃない。怖がりながら、それでも前を見ている目。
「絶対に、逃げよう」
私は頷いた。
荷台が揺れる。馬の蹄の音が速くなる。遠くに街の輪郭が見え始めたのか、男たちの声が弾んでいた。
窓の隙間から外を見た。
街道の両脇に、草むらが続いていた。
風もないのに、草が揺れていた。




