第二話「盗賊の夜(前編)」
夜になった。
馬車が止まったのは、街道脇の開けた草地だった。御者台から降りる足音。焚き火を組む男たちの声。荷台の中は薄暗くなり、隙間から差していた西日もいつの間にか消えていた。
怖い、という感情はまだ胃の底に居座っていた。
けれど、ずっとそこに浸かっているわけにもいかない。恐怖は手を動かしていないときに一番濃くなる。それは前の世界で覚えたことだった。
だから私は鎖の長さを静かに確かめた。手首から釘まで、およそ一メートルの余裕。寝ることはできる。立つことはできない。荷台の扉は外から鍵をかけられている。逃げられない。逃げるとしても、今夜ではない。
情報を集めろ、と自分に言い聞かせる。
今できるのはそれだけだ。そして、それだけでも、何もしないよりはずっとましだった。
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焚き火を囲む男たちの声が、荷台の板を通して聞こえてきた。
「今日はどのくらい進んだ」
「大回りしたからな。半日は余計にかかった。あの魔獣さえいなけりゃあ」
「文句言うな。あれに近づいたら終わりだぞ。街どころか、俺たちごとお終いだ」
笑い声が上がった。
私は息を殺して聞いた。
荷台の中はいつの間にか静かになっていた。他の子たちは眠っているのか、眠ったふりをしているのか。膝を抱えて丸まった影が、薄闇の中にいくつか見える。
「なあグレン、お前また賭けで負けたんだってな」
「うるせえ、運が悪かっただけだ。次は絶対勝つ」
「お前が絶対って言うときは、大体負けるよな」
また笑い声。グレン――昼間、私に話しかけてきた若い男だろう。声の質が同じだった。
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私はもう一度、荷台の中を見回した。
そこで気づいた。
一人だけ、眠っていない子がいた。
壁際に座って、こちらをじっと見ている。青みがかった髪を後ろで束ね、薄闇の中でも目だけがはっきりとしていた。怯えた目ではない。観察する目だった。私が荷台の様子を窺っていたのと、たぶん同じ目を、その子もしていた。
目が合った。
相手は視線を外さなかった。
私も外さなかった。
しばらく、そのまま見合っていた。
「……起きてたの」
その子が口を開いた。声を抑えた、低いささやきだった。
「ああ」
「いつから」
「最初から」
その子は少し黙って、それから膝の上で腕を組んだ。
「賢いね」
褒めているのか皮肉なのか、判断のつかない言い方だった。
「あんた、さっきもずっと外を見てた。何か考えてた?」
「情報を集めてた」
「情報」
繰り返して、その子の目がほんの少し動いた。値踏みするように。
「外の連中の会話から、この世界のことを」
沈黙。
それから、その子が小さく鼻を鳴らした。笑ったのかもしれない。
「変なやつ」
声に棘はなかった。むしろ、退屈な場所で珍しいものを見つけた、とでもいうような響きがあった。
「私はリア。あんたは?」
私は少し間を置いた。
名前。
田中誠という名は、今の身体には似合わない。かといって、すんなり口から出てくるものでもない。今の自分が何者で、何と名乗るべきなのか――。
「……」
言葉が出なかった。
リアがしばらく待って、それから首を傾けた。
「もしかして、ない? 名前」
「そういうわけじゃ――」
「ないんだ」
断言された。こちらの否定を聞く気がまるでない。
「じゃあ、私が決める」
「勝手に――」
「ティア」
迷いのない声だった。
「ティア?」
「そう。ティア。呼びやすいでしょ」
「なんで、それに」
「なんとなく。文句は?」
文句、と言われて少し考えた。
ティア。
自分の名前として、口の中で転がしてみる。悪くはなかった。少なくとも今のこの身体には、田中誠よりずっと馴染む気がした。
奇妙なものだ。名前を失ったばかりの私に、出会ったばかりの誰かが、こんなにあっさり新しい名前をくれる。
「……ない」
「じゃあ決まり」
リアはそれだけ言って、また外の声に耳を澄ませる素振りを見せた。あっさりしたものだった。名前をつけたことを、特別なことだとも思っていない様子で。
ティア、か。
私はその名前を静かに受け取った。
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焚き火の向こうで、会話が続いていた。
「しかし今回は上物だな。市場でいい値がつくぞ」
「ガロさんの目利きは確かだからな」
「問題は道中だ。この辺、最近魔物が増えてる。南の群れが北上してるって話だ」
私は耳を澄ませた。
「魔物か。まあ、俺たちの数なら問題ねえだろ」
「数の問題じゃねえよ」
別の男の声が割り込んだ。落ち着いた、低い声だった。
「強いマナを持った奴が近くにいると、魔物は寄ってくる。俺たちの中にも、それなりのマナを持った奴がいる。気をつけねえとな」
「じゃあ、どうするんだ」
「マナを抑えて動くしかねえ。うまい冒険者はみんなそうしてる」
「俺には、そんな器用なことできねえよ」
「だから俺たちは冒険者じゃなくて、盗賊なんだよ」
また笑い声。
マナ。
その言葉を、私は頭の隅に書き留めた。力の源か、あるいはこの身体に流れる何か。詳しくは分からない。だが「魔物がそれに引き寄せられる」という一点だけは、覚えておく価値があった。
「つうかさ」
グレンの声がした。「もし、マナがねえ生き物がいたら、どうなるんだろうな」
「は? そんなのいるわけねえだろ」
「いや、もしもの話。仮にいたとしてよ」
「……魔物に気づかれない、とかか? マナを感知して追ってくるんだから」
「だよな。魔物からしたら、存在しねえも同然か。おもしれえな」
「くだらねえ話してんじゃねえ。どうせ、いるわけねえんだから」
「まあな」
グレンが欠伸をした気配がして、それきり、その話は終わった。
くだらない与太話だ、と私も思った。マナのない生き物。そんなものがいるわけがない。
そう思いながら、なぜかその話だけが、妙に耳に残った。
荷台の中でリアを見た。リアは特に反応していない。そういう与太話に慣れているのか、聞いていなかったのか。
「お前ら、騒ぐな」
低い声が会話を断ち切った。御者の老爺だった。焚き火の端、少し離れたところから聞こえた。
「うるせえのは、あんただろ、じいさん」
「……街道の北に、森がある」
老爺は、誰かに答えたわけでもなく、ただそれだけ言った。
「知ってるよ、例の森だろ。通らなけりゃ、いい話だ」
「猟師が、五人入った」
老爺の声は変わらなかった。静かで、乾いていた。
「誰も、戻らなかった」
しんと静まり返った。
「……じいさん、それ本当の話か?」
「知らん。だが俺は、近づかない」
それきり、老爺は黙った。
誰も何も言わなかった。
焚き火の爆ぜる音だけが、しばらく続いた。
私はその森の話を、マナの話の隣に並べて記憶した。近づいてはいけない場所。理由は分からない。だが、この世界をよく知っているらしい老人がはっきりとそう言った。今はそれだけで十分だった。
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しばらくして、また会話が始まった。今度は違う男たちの声だった。
「冒険者ギルドってのは、儲かるのかね」
「腕次第だろ。上位の冒険者になりゃあ、俺たちの稼ぎより全然いいらしいぞ」
「じゃあ、なんでお前は冒険者にならなかった」
「マナが少なすぎた。ギルドで試験を受けたら、落ちた。笑えるだろ」
「笑えねえな」
会話は流れていく。北東に亜人の里があるという噂。人間を喰うという話。幻獣を見た者は生きて帰れないという話。男の一人が、幻獣を見たと言っていた知り合いが次の日から消えた、と低い声で言った。
私は聞いたことを頭の中で並べ直した。
冒険者ギルド。マナの試験。亜人。幻獣。北の禁忌の森。魔物はマナに引き寄せられる。
知らない単語ばかりだ。けれど、一つずつ拾い集めていけば、いつか地図になる。今の私にできるのは、それだけだった。
「なあ」
リアがまた口を開いた。
「聞いてた? 外の話」
「聞いてた」
「覚えた?」
「だいたい」
リアが少し黙った。
「変なやつ」
二回目だった。でも今度は最初より、少しだけ温度があった。
「逃げること、考えてるの?」
私は正直に答えた。「考えてる」
「私も」
リアがさらりと言った。「でも今夜は無理。人数が多すぎる。特に、あの大男がまずい」
「ガロか」
「名前、知ってるの」
「聞こえた」
リアが少し黙って、それから声をさらに低くした。
「あいつは、普通じゃない」
「どういう意味だ」
「捕まった日に、見た」
リアの声は淡々としていた。怖がっているのに、怖がっていないふりをしているような、そういう声だった。
「私たちを運んでた男が、途中で逃げようとした。仲間の一人だったと思う。ガロはそいつを追いかけて、捕まえて――それで」
リアが少し止まった。
「一言も言わないで、殺した。怒鳴りもしない。脅しもしない。ただ、必要なことをするみたいに、それだけだった」
荷台の中は静かだった。他の子たちが眠っているのか、聞こえていて黙っているのか、分からなかった。
「それだけじゃない。あいつは戦いが強い。私たちが乗る前、街道で盗賊崩れの連中に絡まれたとき――ガロが一人で三人片付けた。剣の腕だけじゃない。動きが違う。魔物と戦い慣れてる動きだった」
「魔物と戦い慣れてる」
「昔は別の仕事をしてたんだと思う。今より、もっとまずい仕事を」
リアが一度だけ深く息を吐いた。
「とにかく、あいつだけは正面から逃げようとしたらだめ。気づかれずに、先に距離を取る。それしか方法はないと思う」
私は黙って頷いた。
「ティア」
「なんだ」
「逃げるなら、二人の方がいい。一人より、二人の方が生き残れる確率が上がる」
断言だった。相談でも提案でもなく、ただ事実を述べるような言い方。
私は少し考えた。
信用できるのか。会ったばかりだ。でも――この子は、荷台の中で唯一、頭を使っている。怯えて固まる代わりに、観察し、計算している。それは、今の私がいちばん欲しい同類だった。
「そうだな」
「じゃあ決まり」
リアはそれだけ言って、壁に背を預けた。目を閉じるかと思ったが、閉じなかった。荷台の天井を見上げたまま、何かを考えている顔だった。
しばらく、沈黙が続いた。
外の焚き火が少しずつ小さくなっていく。男たちの笑い声も間遠になり、やがて荷台の中には、寝息と、車輪の余韻のような軋みだけが残った。
眠れないまま、私は隣を見た。リアも起きていた。
「眠らないのか」
小声で訊くと、リアは天井を見上げたまま答えた。
「眠れる日と、眠れない日がある。今日は、眠れない日」
「そうか」
少し迷って、私は訊いた。「お前は、どうしてここに」
リアはすぐには答えなかった。
「村が、襲われた。気づいたら、鎖に繋がれてた。それだけ」
淡々とした声だった。感情を、丁寧に脇へ寄せたような声。
「他の子たちも、同じか」
「たぶんね。みんな、別々の場所から集められたんだと思う」
リアは、荷台の隅で丸まっている子たちにちらりと目をやった。
「ほんとは、全員で逃げられたらいいんだけど」
こぼすように、そう言った。
「……でも、無理。あの子たちは立てない。怖くて、足が動かないんだ。連れて逃げようとしたら、全員捕まる。私一人でも、二人でも、できることは限られてる」
その声には、強がりの下に押し込めた、確かな苦さがあった。
この子は、ただ気が強いんじゃない。気が強く「あろうとしている」んだ。怯えないのではなく、怯えを噛み殺して、それでも頭を働かせている。
暗がりの中で、リアという人間の輪郭が、少しだけ見えた気がした。
「ティアは?」
リアがこちらを向いた。「あんたは、どこから来たの」
ガロと同じ問い。けれど、響きはまるで違った。
私は答えに詰まった。死んで、別の世界から来た。女ですらなかった――そんなことを言ったところで、信じるわけがない。頭のおかしい子だと思われて、終わりだ。
「……遠くだ」
結局、それだけ言った。
リアはしばらく私を見ていた。それから、ふっと息を抜いた。
「言いたくないなら、いい」
追及はなかった。
「誰にだって、言いたくないことの一つや二つ、あるでしょ」
あっさりそう言って、リアはまた天井に視線を戻した。
その距離の取り方が、妙に心地よかった。踏み込まず、それでいて、突き放しもしない。
「リア」
「なに」
「ありがとう。名前」
言ってから、少し照れくさくなった。
リアはきょとんとした顔をして、それから、ぷいと顔を背けた。
「……礼を言われるようなことじゃない。なんとなく付けただけ」
そっけない声だった。でも暗がりでも分かるくらい、耳のあたりが少しだけ赤い気がした。
悪くない夜だ、と思った。
鎖に繋がれて、売られていく途中で、それでも。そんなふうに思えたのは、ずいぶん久しぶりだった。前の世界にいた頃でさえ、こんな夜はなかったかもしれない。




