第一話「目覚め」
コンビニのおにぎりを、まだ手に持っていた。
いや――持っていた *はず* だった。その感触だけが、やけに鮮明に手のひらに残っている。
残業を終えて会社を出た。いつもと同じ夜だった。駅までの道、横断歩道の信号が青に変わって、一歩踏み出す。その瞬間、空から光が降ってきた。
痛みはなかった。
音もなかった。車のブレーキ音さえ聞こえなかった。
ただ光の中に意識が溶けて、田中誠、三十四歳、中堅商社の営業職は、そこで終わった。
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声だけがあった。
『汝を新世界の礎とする。感謝せよ』
意識はあった。身体はなかった。ただ声だけが、どこか高いところから降ってくる。
(誰だ)
『神である。感謝せよ』
即座だった。こちらの反応を待つ気配が欠片もない。言葉を一方的に押しつけて、それで終わらせるつもりの声だった。
(待て。俺は死んだのか)
『感謝せよ』
(ここはどこだ)
『感謝せよ』
(どんな世界だ。俺に何ができる。何をすればいい)
『感謝せよ』
私はしばらく言葉を失った。
会話にならない。問いが届いているのかどうかも分からない。それでも声だけは、一定のリズムで返ってくる。感謝せよ。感謝せよ。感謝せよ。まるで、それ以外の言葉を持たないかのように。
(せめて何か教えろ。この世界のことを――)
『汝はこの世界に転生する。それを感謝せよ』
それだけだった。
与えられた情報はたった一つ。異世界に転生するという事実のみ。それ以外は何も、神は語らなかった。語る気がない、というより、語る必要があると思ってすらいない声だった。
次の瞬間、意識が落ちた。
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痛みだけがあった。
鈍く、しかし確実に全身を蝕む痛みが、まず最初に私へ「生きている」という事実を突きつけた。次に来たのは匂いだ。獣の脂と、腐った藁と、どこか錆びた鉄に似た血の臭い。胃が反射的に縮む。
目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、荒削りな木の天井だった。いや、天井ではない。揺れている。リズムよく、ガタガタと。馬車――だろうか。
身体を起こそうとして、初めて気づいた。
手首に何かが巻きついている。冷たい金属の輪。そこから伸びる鎖が、荷台の端の太い釘に繋がれていた。
(――鎖?)
混乱したまま、自分の手を見る。
小さかった。
節くれだった三十四歳の手ではない。土で汚れてはいるが、白くて細い、子供か若い女のものとしか思えない手が、そこにあった。
「……は?」
声を出して、二度驚いた。出てきた声が高い。
反射的に喉へ触れる。喉仏がない。胸に触れれば、あるべきでないものがある。下半身を確かめようとして、全身を走る鈍痛に阻まれた。
(女に、なってる)
思考は妙に冷静だった。あるいは混乱が深すぎて、感情の処理が追いついていないだけかもしれない。
荒い笑い声が聞こえた。
「よお、目ぇ覚めたか嬢ちゃん」
視線を向けると、荷台の端に男たちが座っていた。革鎧に、傷だらけの顔。腰には剣や短刀を吊るしている。その中の一人、若い男が私を見てにやりと笑った。
「運がいいぜ。死んでたやつもいたのにな」
軽い口調だった。冗談めかした、それでいてどこかからかうような声。
しばらくして、別の男が立ち上がった。大柄で、革鎧の上からでも肩幅の広さが分かる。腐った歯を剥き出しにしながら近づいてきて、無言のまま私の顎を掴み、顔を上げさせた。
抵抗しようとした。できなかった。
それが最初の気づきだった。
力が、ない。
三十四年、男として生きてきた。腕力に自信があったわけではない。それでも「掴まれたら振り払える」という感覚だけは、当たり前のものとして身体にあった。それが今、根こそぎ消えている。男の指が顎に食い込む。振り払おうと腕に力を込める。びくともしない。鉄の棒を素手で曲げようとするような、底のない無力さだった。
男は私の顔を左右に動かし、首筋を検め、手首の細さを確かめた。値踏みする目だった。商品を前にした商人の目だ。
「いい値がつくぜ」
男が、荷台の外の誰かへ向けて言った。「市場じゃ若い娘は引く手あまたでな。こいつは上物だ」
市場。
その二文字が、ゆっくりと脳へ染みていく。
売られる。
そういうことか。
男の世界に三十四年いた。だから知っている。こういう目をする男たちが、若い娘を買って、その後に何をするのかを。市場で値をつけられ、見知らぬ誰かの手に渡り、夜ごと身体を好きにされる。商品である限り、そういう未来が当たり前のように待っている。
昨日まで男だった自分が、その「商品」になる。そう思った瞬間、胃の底から冷たいものがせり上がってきた。怖気とも、屈辱とも、嫌悪ともつかない何かが。
考えるな、と自分に言い聞かせた。今は、考えても仕方のないことがある。
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荷台の揺れが続くなか、私は静かに状況を整理した。
死んだ。転生した。女になった。鎖に繋がれている。売られていく。神は何も教えてくれない。
ふと、荷台の隅に目が止まった。
私と同じく鎖に繋がれた子たちがいた。五人か、六人か。膝を抱えて震える者、顔を両手で覆ったまま動かない者、壁に頭をもたせて目を閉じる者。みんな、私と同じくらいの年頃の女の子だった。
その中の一人と、一瞬だけ目が合った。
他の子と違って、その子は蹲っていなかった。背筋を伸ばしたまま、荷台の板を眺めている。値踏みするのとも、絶望するのとも違う目つき。何かを考えている目だった。
その子はこちらを見て、すぐに視線を外した。
自分の背丈を、その子と比べる。さほど変わらない。もう一度、自分の手を見る。細く、小さく、骨格もまだ出来上がっていない。
(十代の前半か、あるいはそれ以下か)
鏡がないので確かめようもないが、おそらくそのくらいだろう。
最悪、という言葉が頭をよぎって、すぐに打ち消した。
最悪は、ここで泣き崩れることだ。
窓の隙間から外を覗く。荒れた道がどこまでも続いていた。遠く、地平線の彼方で、巨大な影が動いている。四足で歩く何かだ。だが、その大きさがおかしい。山の裾野ほどもある影が、のっそりと大地を踏みしめながら進んでいく。
「ありゃあ大陸魔獣だ」
さっきの若い男が、荷台の壁に背を預けながら言った。「あいつが動くと、街ひとつ消える。近づいたら俺たちもお終いよ。だから今は大回りして北上してんだ。まあ、そのうち着くさ」
街ひとつ、と男は言った。当たり前のように。
私はその影を見続けた。
街ひとつ、という単位を現実として受け取ろうとした。一つの生き物が動くだけで、何百、何千の人間が死ぬ。それがこの世界では日常の一部として、男の口から当然のように零れ落ちる。
前の世界では、電車が三十分遅れただけでニュースになった。
ここでは、街が消える。
(生きていけるのか、ここで)
答えは出なかった。しかし、奇妙なことに、絶望もなかった。
思い返せば、前の人生がそうだった。特別楽しいことも、特別悲しいこともない。同僚には「熱がない」と言われ、上司には「もう少し野心を持て」と言われた。そのたびに「そうですね」と返して、次の日も同じ時間に出社する。コンビニのおにぎりを買って、終電で帰る。それで一日が終わる。
可もなく、不可もなく。
それが私の理想で、それだけで良かった。
「おい、嬢ちゃん」
若い男がまたこちらを見て、口の端を上げた。「泣いてもいいんだぞ。どうせ、誰も気にしねえしな」
からかっているのか、それとも本当に気を遣っているのか。判断のつかない声だった。数人がくすくすと笑う。
私は男を見て、それから手首の鎖を見て、もう一度、窓の外のあの巨大な影を見た。
(神は理不尽だ)
(この世界も理不尽だ)
(だからといって、諦めるつもりもない)
泣かなかった。
それが精一杯の反抗だった。あの「感謝せよ」という言葉に対する、最初の抵抗だった。
私は死んで、性別が変わり、年齢が変わり、見知らぬ土地で鎖に繋がれた。前の世界に置いてきたものは、もう何ひとつ戻らない。家族も、仕事も、名前も。ここには、私を私として知る人間が一人もいない。神は何も教えてくれない。魔物は山ほどの大きさで、人間は平気で売り買いされる。
それでも。
「……生きてやる」
声にならない声で、口の中だけで呟いた。たいした決意ではない。ただ、そう思っただけだ。
壮大な復讐でも、英雄的な活躍でも、伝説になることでもない。ただ普通に、当たり前に、この理不尽な世界でしぶとく生き続ける。それくらいなら、私にもできる気がした。
「なあ、嬢ちゃん」
若い男がまだ話しかけてくる。「名前は? 暇だから、聞いてみただけだけどな」
私は少し間を置いた。
名前。
田中誠という名は、今の身体には似合わない。かといって、すんなり口から出てくるものでもなかった。今の自分が何者なのか、この身体で何と名乗るべきなのか、まだ答えが出ていない。
「……」
言葉が出なかった。
男はしばらく待って、それから肩をすくめた。「まあいいや。どうせ市場に着いたら、別の名前をつけられるしな」
そうかもしれない。
でも今この瞬間、私にはまだ名前がない。正確には、名乗るべき名前を決めかねている。
荷台が大きく揺れた。遠くで地響きがした。あの巨大な影が、また一歩、踏み出したのだろう。
鎖が手首に食い込む。木の床は硬く、藁はひどい臭いで、男たちの笑い声はうるさい。空は荒れ、行き先は市場で、神は理不尽だ。
それでも私は、目を閉じなかった。
この世界をちゃんと見ておかなければいけないから。
生きていくなら、まず見るところから始めなければいけない。
馬車は止まらない。私を乗せたまま、ただ揺られ、運ばれていく。
その車輪が運んでいく先に、私を売り買いする市場がある。
死んで、女にされて、名前も失って、鎖に繋がれて、見知らぬ男たちの「商品」として、どこかへ運ばれていく。
生きてやると決めたばかりの心の底で、それでも別の声がした。
――怖い。
冷静なふりはできても、その一言だけは、どうしても消せなかった。




