僕の気持ち(2)
僕は自分からは本気で誰かを好きにならない。
誰かを好きになるのは、その人に好かれてから。
相手の手札を見てから僕は行動する――後出しじゃんけんだ。
そんな僕に皆は卑怯者、愛の無い男なんて言うかもしれない。
だけど、僕の何が悪い?
僕を好いてくれる人を好きになることの何が悪い?
別に、好いてくれる人を無条件で好きになったりはしない。遊び半分で付き合ったりはしない。
ただ、恋愛対象が彼らなだけ。
その理由については僕自身が分かっている。
ごく当たり前の理由――失敗を恐れている。
つまり、僕はフラれたくない。
だけど、それは男のプライドとかじゃない。
否定されたくないんだ、僕は。
僕は大切な人に捨てられたくない。
そんな僕が、僕は大嫌い。
そんな僕を否定できない僕が、僕は大嫌い。
結局、僕は僕が嫌いなんだ。
「……はぁはぁ……はぁ……」
暑い。
暑かった……けど、真冬の外で息を整えて1分。
「………………ふぅ」
頭が冷えた。
部屋の前の廊下で大きく深呼吸をすれば、冷たさが喉から食道、胃へ。
廊下の明かりはやっぱり切れたままで暗いけど、月明かりで白い息が僅かに見えた。
白い息を追って空を見上げれば、半月だ。
綺麗だけど、それは“都会にしては”だ。
僕の故郷ではもっともっと輝いていた。
「隼人……僕は変だ……」
良く分からない衝動に駆られて先輩にキスをし、逃げた。
ううん……衝動的ではないんだ。キスをすることの意味を分かっていて僕はキスをした。
多分、ここは隼人への裏切りに苦悶するはずなのに、僕は隼人に罪悪感を感じていない。
原因として思い当たるのは、澤谷隼人が僕を恋人として見ていなかったこと。
澤谷隼人の行動に僕への性的な方の感情を全く感じなかったこと。
あいつはもう僕の知る隼人じゃない。
いや、もしかしたら、僕の方がもうあいつの知る“さく”じゃないのかも。
「………………あー……僕の馬鹿……」
これって世間から見たら、“一番”に愛想尽かされたから手頃な人間に靡いたみたいな……蓮ならきっと「君には呆れたね」と言うに違いない。
そもそも、上司にキスだよ?
男の上司に。
先輩は僕に好きだ好きだと言っていたけど、さっきのは明らかに強引な口付けだった。
つまり、僕は先輩を襲ったのだ。
僕は先輩にセクハラ変態野郎だと心中で連呼していたが、今度は僕が先輩にセクハラで訴えられる番。今回は僕に言い訳をする余地はないし。
その前にクビ……。
でも、先輩は僕が好きだって言ってたじゃないか。
だからと言ってセクハラが許されるわけじゃないんだよ、咲也クン。
「だよね…………」
ここは日を改めて――1ヶ月ぐらい――先輩がいるの僕の家なんだけど。僕、どこで日を改めるの?
真冬にこの身1つで野宿なんて無理。
そもそも、皆が浮かれて世界が幸せに満たされるクリスマスシーズンに野宿なんて心が折れる。
さて、どうしよう。
「七瀬」
「!?」
先輩の声だ。
そして、体の影になっていない腕や柵がオレンジ色に照らされる。
先輩がドアを開けているから玄関の光が漏れているのだろう。
吃驚はしたが、どうにか振り向かずに堪えた。
先輩にどんな顔をして会えば分からないから、きっと今の僕はヘンテコな顔をしている。だから、先輩には絶対に見せられない。
「冷えるから。せめて玄関まで入れ。髪も濡れているし、風邪をひいてしまうだろう?」
「………………はい」
僕は振り向かない。
振り向けない。
「…………俺が居たら入れないか?なら、帰る」
「………………」
キィとドアが鳴る。
ここのドアは立て付けが悪いから。
多分、このまま僕が振り向かなければ、先輩は帰るだろう。
しかし、今、このドアが閉まってしまったら、僕達は終わってしまう気がした。何もかもが一瞬で消え去ってしまう気がした。
別に理由なんてない。
直感だ。
いや、理由ならあるかもしれない。
雪が降ってきているのが見えたから。
まるで神様が僕に囁きかけている気がしたんだ。
『これでいいの?』
って。
それだけだ。
「あの!」
僕は振り向いていた。
そして、鈍い反射神経で閉まりかけていたドアに手を掛けていた。
手に痛みがあったが、どうせ、間違って突き指でもしたんだろう。
今はどうだっていいんだ。
「うん?」
先輩がいつもの仏頂面で僕を見下ろし、さっき何があったかを全く臭わせない表情でドアを開ける。
この人は全然焦らない。
僕がキスしたんだぞ?
好きな子からのキスじゃないのか?
僕が隼人に初めてキスされた時は一瞬で逆上せ上がり、熱々の湯船に30分以上浸かっていたかのような状態だったのに。
……なんか告白したのが馬鹿馬鹿しく感じてくる。
「帰って欲しくないのか?」
先輩はからかいもせずに訊いてくる。
僕は別に先輩に帰って欲しくない訳じゃない。
ただ……僕を理由にしないで欲しいんだ。
だから、帰って欲しくないのかと訊ねる先輩に俯いた。
思ったことをそのまま言葉にしても何も伝わらない気がし、かと言って、どんな言葉を選べば良いのかも分からない。
僕は無言で俯くしかなかった。
すると、先輩は僕の頭上で息を吐いた。
怒った?
「帰らないで」と言えない僕に怒った?
「雪降って来たか……今夜は冷える。中に入れ」
僕の目の前でドアは大きく開き、先輩の手が僕の腕を中へと引いた。
そして、僕は部屋の中に入った。
先輩は僕の背後を取り、部屋の中へ中へと無言の圧力で追い立てていく。
そして、僕は炬燵の中に戻ってきた。
ぽかぽか。
「髪、拭いていいか?」
「あ……はい」
本当は「はい!?」だったが、その時は炬燵の温もりに頭がぼーっとしてきちんとした返事が出来なかった。のほほんとした気持ちでささやかな幸せを全身で感じていると、何かが頭に被さった。
「あぃっ!?」
この洗剤の香りと触り心地はタオルだ。
そして、わしゃわしゃされる。
「お前、免疫力なさそうなんだから気を付けろ」
「炬燵の中に入れば風邪とは無縁なんです」
この春の陽気の中で風邪なんて引くはずがない。
「炬燵で寝たら風邪引くぞ」
「それ、良く聞きますけど、何で風邪引くんだろう……炬燵温かいのに」
隼人も言ってたなぁ。
僕とお母さんの住んでいた家には炬燵がなかったから、その反動もあって冬場はつい珠樹家の炬燵に入り浸っていた。
しかし、隼人のお父さんもお母さんも炬燵で寝るのは駄目だと言ってた。
何でだろう?
「汗かくからじゃないのか?」
先輩は僕の耳の後ろを念入りに拭いてくれる。これは……気持ちいな。
でも、そうなのか。炬燵で風邪説にはちゃんと理由があったのか。
先輩は博識だな。
「出来た」
ふわりとタオルが離れ、視界が晴れる。
先輩の指先がツンツンと僕の髪を摘まむ。
ふむ。
スタイリストですか。
「じゃ、俺もシャワー入って来るから。ケーキ、食べろよ」
タオルを持って立ち上がる先輩。
先輩を見上げれば、彼はにっと笑ってテレビを付け、リビングを出て行った。
………………僕、炬燵から全く動かずに髪を拭かれて、デザートのケーキを用意されて、テレビを付けられちゃってるよ。
もしかして、先輩に尽くされてしまっている……!?
「ヤバいよ……そもそも先輩の返事も聞いてないし、さっきの告白も……あれだし」
僕自身、真っ白な頭の中に浮かんだ言葉をつらつらと捲し立てた感じで、実感がない。
それに、今も先輩が告白に関して全く触れてこなかったから、告白した記憶が忘却の彼方に飛んでいっていた。
「先輩の中で話ってどうなってんの……?」
はっきりさせたいけど、もし、先輩とああ言う関係になったら……。
「想像できない……うう……」
今の僕らの関係に名前ってあるのかな。
先輩に告白されて、ずるずると返事を先伸ばしにして、いざ告白したら信用されず、先輩を襲って、先輩は何事も無かったかのように振る舞う――関係。
誰か、この関係の名前を教えて……。
ねぇ、蓮。教えてよ。
『それ、友達って言うんだよ』
「友達?Aさんと僕が?」
『Aと君が。ちょっと、遊杏!今何時か分かってるのかい!?それはしまいなさい!』
無意識に蓮に電話を掛けていた僕は蓮の怒鳴り声にはっとした。
蓮は電話向こうで遊杏ちゃんを叱ったようだが、僕は蓮に電話し、先輩をAさんに変えて一部始終を話していたことに今更気付いた。
今日は疲れているのかな。
「友達……図々しいよ。上司だし」
『上司?あ、そうなの。まぁ、今はまだ様子見だよ。Aも戸惑ってるのかもしれないし。ねぇ、董子ちゃん、見た!?ねぇ、見たよね!?今持ってったよね!?遊杏!!!!』
先輩が戸惑う?
それはないような……いつもと同じ顔だし。
『遊杏が部屋にお菓子を隠し持ってったから、ちょっと引っ張ってくる。じゃあね。おやすみ』
「おやすみ」
引っ張るとか、刑事さんだ。
僕も言ってみたいな。
しかし、これ以上蓮の家族団らんを邪魔しては悪いと考え、僕は携帯電話を切った。
「友達…………」
蓮とも友達のつもりだけど、蓮と先輩とで同じ関係とは思えないんだよなぁ。
そもそも、先輩と友達とか恐れ多い。
でも、友達以上じゃなきゃ休日まで会わないよね?第一、先輩とは同居しちゃってるし。
同居する仲って?
「あー……分かんない。今日はもういいや……」
僕は運動がてら電気を消し、カーテンを開いた。
窓辺に近寄ると冷気が肌を刺す感覚がした。
月が綺麗だ。
だけど、きっとそろそろ見えなくなる。
だって、雪が少しずつ強くなってるから。
国都は多分、今頃初雪に大忙しだろうけど、今日は休みで本当に良かった。いや、今日休みだから、クリスマスに出なきゃいけないんだっけ。
「さむ……」
僕は炬燵に入りながら雪見をすることにした。
「七瀬?寝てるのか?」
八尋は咲也のところに泊まる為に用意していた上下のジャージを着、明かりの消えたリビングに顔を出した。
エアコンは付いている。
しかし、暗い。
否、カーテンが開け放たれ、徐々に薄暗い室内が見えるようになる。
「炬燵で寝るなって言ったろ」
人の言うことを全く聞いていない。
肩まですっぽりと炬燵の中に入って眠る咲也。
彼は冷蔵庫から出したケーキを口にすることもせず、食べる準備だけをして眠りに落ちていた。
咲也の向かいに八尋の為であろうケーキを用意して。
八尋はケーキにラップをして冷蔵庫にしまった。
ケーキはまた明日だ。
「ん………………ゆき……」
寝言が雪とは。
よっぽど嬉しかったらしい。
部屋の明かりを消してカーテンを開けてまで見ていたのだから。
咲也の為に布団を用意しようと八尋が押し入れに向かった時だ。
こんこん。
チャイムがあるのに誰かが玄関ドアをノックする音がした。
『……君、咲也、八尋君、いる?もう寝ちゃった?』
「大野……か?」
八尋は聞き慣れた声に時計を確認してから玄関へと歩いた。
「大野、11時だぞ。非常識だ」
「八尋君!八尋君が家にいないから探したんだよ。外に車あったし、やっぱり咲也の家にいたんだね」
“やっぱり”ってなんだ。
「携帯を使え。それとも何か?会わなきゃいけないことでもあったか?」
八尋が訊ねると優一は玄関ドアの奥、咲也の家の中を覗く。
「おい」
「咲也、起きてない?」
「寝てる」
「じゃあこれ……」
咲也が寝ていると聞いてほっとした表情になった優一はA4サイズの封筒を八尋に差し出した。
差出人の名前も宛先も書かれていない茶封筒。
「八尋君ずっと家に帰ってないし、国都じゃ全然会えないし、手渡しなら確実でいいかなって」
「これ……」
八尋は透けて見えるわけもない封筒をじっと見詰めた。
「うん。彼女の情報。あの人にもお節介じゃないかって言われたけど、これで咲也が前に進めるなら……あとは八尋君に任せるよ。くれぐれも何か言う前に咲也に見られないように」
「…………ああ」
「はぁー、今から国都に帰って雪支度だよ。徹夜だ。何で降っちゃうのかなー。東京だよ?それも本降り。12月から積もるとか有り得ない。まー、世間ではホワイトクリスマスだーって喜ばれてるけど」
「きっと七瀬が願ったからだろうな」
故郷の雪には敵わないだろうが、咲也にとって忘れ難い過去の象徴の一つだろう。
「咲也のお願いなら仕方がないかな。急過ぎて冬用タイヤじゃないんだ。まずくなる前に行くよ。八尋君は車大丈夫?」
「タイヤ積みっぱなしだ」
「そうなんだ。ま、タクシーも呼べるしね。先に言っとこっかな……メリークリスマス」
「メリークリスマス。おやすみ」
ジーンズにシャツ一枚の優一は肩を竦めて暗い階段を慎重に降り、その背中を八尋は見送った。
そして、彼は封筒の中身を一瞥すると、音も発てずにドアを閉めた。