第33話 凡庸
その男がリヴェルを訪れたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
街道の向こうから、一台の馬車が近づいてくる。
それほど豪華な馬車ではない。
けれど、村を訪れる商人のものとも違っていた。
門のところにいたガレスが、それに気づいた。
「……客か?」
馬車が止まる。
御者が降り、扉を開いた。
そこから降りてきたのは、四十代ほどの男だった。
身なりは整っている。
けれど、貴族らしい華やかさはない。
むしろ、少し疲れているように見えた。
「リヴェル領主、リディア様にお会いしたい」
「どちら様で?」
「隣領の領主だ」
「……領主様?」
ガレスが目を見開く。
男は苦笑した。
「突然の訪問で申し訳ない。だが、どうしても直接お会いしたかった」
「少々お待ちください」
ガレスは急いで屋敷へ向かった。
*
「隣領の領主様?」
報告を聞いたリディアは、少し驚いた。
「はい」
エレナが頷く。
「何か用があるのかしら」
「分かりません。ただ……」
「ただ?」
「かなり思い詰めているように見えました」
「そう」
リディアは少し考えた。
「お通しして」
「承知しました」
◇
応接室。
男は深く頭を下げていた。
「突然の訪問をお許しください」
「こちらこそ。遠いところをありがとうございます」
「……」
男は顔を上げた。
目の前にいるのは、まだ十六歳の少女だった。
淡い灰金色の髪。
静かな灰色の瞳。
けれど、その姿から受ける印象は、男が想像していたものとは違った。
彼女が領主になってから、リヴェルは変わった。
荒れていた畑。
水に悩まされていた土地。
ほとんど人の住まなくなっていた村。
それが、少しずつ変わっている。
麦が育ち。
新しい工場ができ。
人が戻り。
今では、城まで建てようとしている。
ほんの少し前まで。
自分の領地より、リヴェルの方が貧しかったはずなのに。
「……驚きました」
「何がでしょう?」
「この領地です」
男は窓の外を見た。
「私の領も、豊かな土地ではありません」
「そうなのですね」
「ですが、リヴェルほど酷くはなかった」
「……」
「だからこそ、私は……」
男の声が止まった。
拳が、膝の上で強く握られる。
「ずっと、何とかしたいと思っていました」
リディアは黙って聞いていた。
「私の領では、昔から冬になると食べるものが足りなくなります」
「……ええ」
「それでも、税を軽くし、蔵の食料を分け、できる限りのことはしてきました」
「はい」
「先代も、そのまた先代も同じでした」
男は苦笑した。
「皆、尊敬できる領主でした」
「……」
「けれど」
男の顔が歪んだ。
「それだけでは、領民は豊かにならなかった」
静かな声だった。
「今年も、冬が来れば飢えるでしょう。麦が足りず仕事もない。若い者は領を出ていく」
男は俯いた。
「私は、それを何年見てきたか分かりません」
リディアは、何も言わなかった。
「そして、ある日聞いたのです」
男が顔を上げる。
「リヴェルが変わった、と」
「……」
「最初は信じませんでした」
男は小さく笑った。
「何しろ、私の領より貧しかった場所です」
その言葉に、リディアは少しだけ目を伏せた。
「けれど、噂は本当だった……」
男は窓の外を見る。
働く人々。
整えられていく道。
工事の音。
遠くに見える工場。
「本当に、変わっていた」
声が震えた。
「……私には、できなかった」
「……」
「同じように領民を大切にしてきたつもりなのに」
男は立ち上がった。
そして。
深く頭を下げた。
「お願いします」
リディアが目を見開く。
「我々を、救ってくれ」
「……」
「私の使命は、領民を飢えさせないことです」
男の声が震える。
「長く辛酸を舐めてきた領民を、豊かにしてやりたい。それが、私の悲願なのです」
「……」
「そのためなら、私の地位などいつでも返上する」
「そんな……」
「これまでは、その手立てすらなかった」
男は拳を握った。
「失礼ながら、我が領より貧しかった貴殿の土地が、豊かになっていく。それを横目に、冬には草を食むしかない領民たちがいる」
声が途切れる。
「私は……」
男は唇を噛んだ。
「私は、あの者たちが不憫でならない」
肩が震えた。
「私は……」
そして。
「私は、凡庸なのです」
静かな部屋に、その言葉だけが落ちた。
「領民を救いたい。それだけなのに、方法が分からない」
男は拳を強く握りしめた。
「何をすればいいのかも分からない。誰に聞けばいいのかも分からない。何年経っても、何も変えられない」
顔を上げる。
その目には、涙が浮かんでいた。
「私は……あなたの元へ下ってもいい」
「……」
「領主でなくてもいい。あなたの下で働いてでも、領民を救いたい」
リディアは、しばらく男を見つめていた。
やがて。
静かに立ち上がる。
「顔を上げてください」
「……」
「お願いします」
男がゆっくりと顔を上げる。
リディアは、まっすぐに彼を見た。
「……あなたは、領民のために、こうして頭を下げるのですね」
「……」
「それを非凡と言わずして、何が非凡なのですか?」
男の目が大きく開いた。
「私は、あなたの期待に応えられる領主なのかは分かりません」
リディアは少しだけ笑った。
「ですが」
一歩、男へ近づく。
「領民を豊かにしたいと願っているのなら、一緒に方法を探しましょう」
「……」
「私一人では、何もできませんでした」
リディアは窓の外を見る。
「畑を作ってくれた人がいる。工事をしてくれた人がいる。機械を作ってくれた人がいる。ここに戻ってきてくれた人もいる」
そして、もう一度男を見る。
「あなたも、その一人になればいいのです」
「……私が?」
「ええ」
リディアは頷いた。
「いつか、領民たちに言ってもらいましょう」
その声は、穏やかだった。
「あなたがいたから、この領は豊かになった、と」
「……」
「そのために、私もできる限りのことをします」
男は俯いた。
そして。
何度も頷いた。
*
男――コンラート卿が帰ったあと。
リディアは、しばらく閉じた扉を見つめていた。
「とても素敵な人だったわね」
「え?」
エレナが振り返る。
「私、あの人好きだわ」
「……」
部屋の空気が止まった。
アレクも、カイルも、エレナも、ガレスも。
そして、なぜかニコまで黙っている。
「?」
リディアは首を傾げた。
ガレスが、何とも言えない顔をした。
「いや……なんでもありません」
アレクも黙ったまま、どことなく面白くなさそうな顔をしている。
「まあ、それはそれとして――」
リディアは机の上に広げられた資料へ視線を落とした。
「コンラート卿の領地について、もう少し詳しく調べてみましょう」
そこから、リディアとコンラート卿の交流が始まった。
領地のこと、農地のこと、交易のこと。
コンラート卿は、リディアの話を一つひとつ熱心に聞いていった。
話すたびに、リディアは楽しそうだった。
コンラート卿もまた、リヴェルを訪れることが増えていった。
リディアは、すっかりコンラート卿に懐いていた。
その様子を、周囲はなんとも言えない顔で眺めていた。
*
しばらくして。
コンラート卿の領地から、ある報告が届いた。
「石灰石?」
リディアは、報告書を読み返した。
そこに書かれていたのは、山間部で見つかった白い石についてだった。
焼けば、粉になる。
水と混ぜれば、固まる。
その性質を持つ石。
「……石灰」
リディアは呟いた。
石灰石。
石灰。
そして――。
その先にあるもの。
「……面白くなってきたわ」
リディアは小さく呟いた。




