第32話 カイルという人
カイルという人は、よく分からない。
リディアは、最近になってそう思うようになった。
アルヴェニアの軍人で、優秀な指揮官だったことは知っている。軍を辞めてリヴェルに残ったことも、仕事を支えてくれていることも分かっている。
けれど。
「……どうして、あんなに何でもできるのかしら」
思わず呟いたところで、ちょうど近くを通ったロイドが足を止めた。
「カイル様のことですか?」
「ええ」
リディアは頷く。
「軍人なのに、領地のことまで詳しすぎるでしょう? 工事の人員も、畑の収穫量も、砂糖の売り先まで。その上、城まで作ると言い出すのだもの」
「ああ……」
ロイドは、少し考えてから答えた。
「カイル様は、もともとそういう教育を受けておられますから」
「教育?」
「ご実家の跡取りと同じ教育を受けておられましたので。幼い頃から、領地の管理や財政、人の動かし方を学ばれていたと聞いています」
「……そうだったの」
リディアは、これまでのカイルを思い返した。
畑を見る目。工場の生産量を考えるときの判断。商人との話し方。
どれも、軍人として身につけただけのものとは思えなかった。
そこへ、ミレイユがやってきた。
「カイルの話をしていたの」
「そうでしたか」
ミレイユも足を止める。
「それなら、納得できるわ。でも、どうして軍人になったの?」
リディアが尋ねると、ロイドとミレイユが、一瞬だけ視線を交わした。
「……それは」
ミレイユが、言葉を選ぶように口を開く。
「私たちからは、お話しできません」
「ご本人から、お聞きになったほうがいいかと」
ロイドも静かに頷いた。
「……そう」
リディアはそれ以上、聞かなかった。
けれど、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
そういえば、戻ってきたときも、カイルは理由をあまり語らなかった。
「ただ」
ロイドが続けた。
「軍では、有名な方でした」
「そんなに?」
「はい。大きな部隊を任され、判断が速く、兵站にも詳しい。戦場だけでなく、その後の復旧や物資の手配まで考えられる方でした」
「それはもうお強いですしね」
ミレイユが付け加える。
「額から瞼にある傷も、大戦のときのものです。私たちの間では、勲章のようなものだと言われています」
「勲章……」
リディアは、思わずその言葉を繰り返した。
あの傷を、カイルはいつも何でもないものとして扱っている。川の工事で腕に怪我をしたときも、血を流しながら、リディアや領民の安全ばかり気にしていた。
「……やっぱり、すごい人なのね」
「はい」
ロイドは迷いなく答えた。
「カイル様は、すごい方です」
その声には、少しだけ誇らしさが混じっていた。
「そういえば」
ミレイユが、ふと思い出したように言った。
「カイル様は、昔から女性にも人気がありましたよ」
「……そうなの?」
思わず、リディアが食い付いた。
「銀色の髪に、あの背丈ですから。顔も整っていますし、家柄もあります。食事に誘われたり、手紙をいただいたり、かなりの数でした」
「そんなに?」
「はい」
「でも、カイルは……」
リディアは、少し離れたところにいるカイルを見る。
誰かと工事の資材について話していた。
「そういうことに、興味があるようには見えないわ」
「実際、ありませんでしたから」
ロイドが言った。
「失礼な態度を取るわけではありません。ただ、本当に興味がないというか」
「へえ……」
リディアは少し笑った。
なんとなく、分かる気がする。
必要なら話し、必要なら助け、必要なら守る。けれど、自分から誰かを追いかけることはない。そういう人だ。
「でも」
ミレイユが少しだけ笑った。
「今のカイル様を見たら、昔を知っている方は驚くでしょうね」
「どうして?」
「だって、こんなに働いているんですから」
リディアは思わず笑った。
確かに、カイルはどこにでもいる。
厨房にも、畑にも、河川工事の現場にも、工房にも、工場にもいる。村人と話していることもあれば、商人と話していることもある。
まるで、働き蟻のようだ。
「……働き蟻」
思わず口に出してしまった。
そのとき。
「お嬢様」
聞き慣れた声がした。
「はい?」
振り返ると、カイルがいた。
相変わらず、いつからそこにいたのか分からない。
「……カイル。あなた、いつからいたの?」
「先ほどからです」
「何をしていたの?」
「工場へ行っていました」
「その前は?」
「畑です」
「その前は?」
「河川工事の確認を」
「……」
リディアは黙った。
「そして、これから?」
「城の業者と打ち合わせがあります」
「……」
やっぱり、この人は働きすぎだ。
「カイル」
「はい」
「少し休んだほうがいいと思うわ」
「ありがとうございます。ですが、本日は――」
「休みなさい」
「……」
カイルが珍しく黙った。
「明日にして。明日にしても、リヴェルはなくならないでしょう? 城も逃げないわ」
しばらく考えたあと。
「承知しました」
カイルは素直に頷いた。
「では、少し休みます」
「ええ」
「ただし」
「なに?」
「明日の朝には再開します」
「……」
やっぱり、この人は変だ。
リディアは小さく笑った。
去っていく背中を見送る。
銀色の髪をきれいに編んだ、長身の美しい男が、泥のついた畑を歩いていく。夕方の風が、その髪の先を揺らしていた。
あんなに立派な人が、工場で汗をかき、村人たちと一緒に働いている。そして今度は、自分のために城を作ろうとしている。
どうして、この人はここにいるのだろう。
帰ってきた日、カイルは言っていた。私にも、ここが必要です、と。
けれど、その前のカイルのことを、自分はほとんど知らない。
「……いつか、聞けるかしら」
誰にも聞こえない声で、リディアは呟いた。
その背中は、今日も振り返らなかった。




