第21話 川の音
最初の一滴が落ちたのは、夕方だった。
ぽつり。
リディアの手の甲に、冷たいものが触れる。
「……降ってきましたね」
ガレスが空を見上げた。
黒い雲は、もう村の上空まで広がっている。
風も、昼間とは明らかに違っていた。湿った空気が、川のほうから吹いてくる。
リディアは川へ目を向けた。
水面が、いつもより暗い。
「……水位が上がっています」
カイルが答えた。
「ええ。先ほどより、かなり」
リディアは川を見つめた。
雨は、まだ弱い。それなのに、川の流れは目に見えて速くなっていた。水面を流れていく枝が、あっという間に視界から消えていく。
ゴウ……。
遠くで、低い音がした。
「……今のは?」
リディアが尋ねる。
「川でしょう」
カイルが答えた。
けれど、その声にもわずかな緊張が混じっていた。
もう一度。
ゴウ……。
今度は、はっきり聞こえた。
川が鳴っている。
リディアは無意識に一歩、後ろへ下がった。
「西側は?」
「補強を急がせています」
カイルが振り返る。
「ガレス。西側の作業員に伝えてください。雨が強くなる前に、固定できるところまで終わらせる」
「分かった!」
ガレスが走っていく。
すぐに、あちこちから声が上がった。
「石を持ってこい!」
「そっちは土を固めろ!」
「木材を先に!」
人が動く。
リディアは黙って川を見た。
濁った水が、いつもより速く流れている。水面には、枝や葉がいくつも浮かんでいた。
そのとき。
ゴトン。
何かが岸へぶつかった。
「……?」
リディアが目を向ける。
川岸に置いてあった丸太だった。昨日まで、そこにあったものだ。
一本。
また一本。
水に押されて動いている。
「丸太が……」
ガレスが駆け寄った。
「ダメだ! 流れていっちまう!」
「ガレス、危険です!」
カイルが即座に止めた。
「戻れ!」
ガレスが足を止める。
次の瞬間、丸太が流れに乗った。
ゆっくりと。
そして、一気に加速する。
ドンッ!
鈍い音がした。
丸太が堤にぶつかった。
土が、わずかに崩れる。
誰も口を開かなかった。
もう一度。
ドンッ。
今度はさっきより大きな音だった。
堤の土が、ぱらぱらと落ちる。
「……カイル」
「はい」
「堤は」
「今のところ、持っています」
そう答えたカイルの目は、川から離れない。
水は、さらに増えていた。
川岸に立っているだけで怖い。足を滑らせれば、そのまま持っていかれそうだった。
もし人が落ちれば。
あの濁流の中から戻ってくることは、できない。
「去年とは……違いますね」
リディアが呟く。
「ええ」
カイルが答えた。
「そのようですね」
雨粒は次第に大きくなり、音が増えていく。
叩きつける雨粒の音が、すぐに途切れなくなった。川の音と混ざり合い、どちらが雨で、どちらが川なのか分からなくなる。
「作業員を下げましょう」
リディアが言った。
「まだ工事を続けます」
カイルが川を見る。
「西側だけは、補強を終えたい」
「危険では?」
「危険です」
カイルは即答した。
「ですが、今のうちに終わらせなければ、もっと危険になります」
リディアはカイルを見る。
その目は、いつものように落ち着いていた。
けれど。
川の音だけが、どんどん大きくなっている。
「……分かりました」
リディアは言った。
「ただし、無理はしないでください」
「承知しました」
カイルが作業員たちへ指示を出す。
「西側を優先! 丸太には近づくな! 水際の作業は最低限に!」
人が動き始める。
雨は、さらに強くなった。
川が鳴っている。
ゴウッ。
さっきよりも、はっきりと。
まるで、何か巨大なものが水の中で蠢いているようだった。
リディアは川を見つめた。
堤の向こうには、麦畑がある。
その先には、村がある。
もし。
ここが崩れたら。
これまで作ってきたものが、全部流される。
その考えが、初めて現実のものとして浮かんだ。
雨は、さらに激しくなる。
作業員たちの足元にも水が溜まり始めた。
「土嚢、こちらへ!」
カイルが叫ぶ。
「持ってこい!」
人が走る。
リディアも周囲を見渡した。
石、土嚢、木材。まだ使える資材が、いくつも積まれている。
「私も――」
「お嬢様?」
「私も運びます」
リディアが土嚢へ手を伸ばす。
「いけません」
カイルが即座に言った。
「でも、人手が必要だわ!」
「必要です。だからこそ、あなたは下がってください」
「いいえ、手伝うわ――」
その瞬間だった。
バキィッ。
何かが折れる音がした。
二人が振り返る。
雨で濡れた木材の山が、傾いていた。
「……!」
積み上げてあった資材が、一気に崩れる。
「お嬢様!」
カイルが駆けた。
リディアの肩を掴む。
強く引き寄せる。
次の瞬間。
ドンッ!
木材が地面に叩きつけられた。
反射的に瞑っていた目を開けると、カイルがリディアの上に覆いかぶさるようにして庇っていた。
「カイル!」
しばらく、何も聞こえなかった。
雨の音だけがする。
「……カイル?」
「……大丈夫です」
カイルがゆっくり身を起こす。
けれど。
左腕から、血が流れている。
「……!」
リディアの顔から血の気が引いた。
「怪我を……」
「かすり傷です」
「嘘よ」
リディアが駆け寄る。
「血が出ているわ」
「これくらい、なんでもありません」
カイルは立ち上がった。
そして。
リディアを見る。
「それより」
声が低かった。
「なぜ、ここへ?」
「……え?」
「下がっていてくださいと申し上げたでしょう。危険だと。」
「でも、みんなを…カイルだけをここに置いて行けないわ――」
「だからといって、ここへ来ていい理由にはなりません」
初めてだった。
カイルが、はっきりと怒っている。
「カイル……」
「私は軍人ですよ」
カイルは腕の傷を見た。
「これくらい、なんでもありません」
そして、リディアを見る。
「ですが、あなたは違う」
「……」
雨の中でも、その声ははっきり聞こえた。
「あなたは、ここにいなくてはならない人です」
リディアは言葉を失った。
カイルは続ける。
「あなたがいなくなれば、誰がここを守るのです」
「……でも」
「ダメです」
リディアが顔を上げる。
「カイルも危ないわ」
一瞬。
カイルの表情が止まった。
「……私も、ですか」
「ええ」
リディアは答えた。
「あなたも危ないわ。だから、戻って」
「それは、できません」
「どうして?」
「まだ、終わっていません」
カイルは堤を見る。
川は、さらに水位を上げている。
「お願いです」
カイルが静かに言った。
「下がってください」
「……」
「ガレス」
「はい!」
「お嬢様を安全なところへ」
「分かった!」
ガレスがリディアの腕を取る。
「嫌よ」
リディアが抵抗する。
「カイル!カイル!」
けれど。
カイルはもう堤へ向かっていた。
腕からはダラダラと血が流れている。
それでも、足を止めない。
「カイル!」
振り返らない男の背中を見つめる。
胸が締め付けられるように痛い。
追いかけようとする体をガレスに止められる。
「リディア様!」
「離して!」
「ダメです!」
カイルの背中が、雨の向こうへ遠ざかっていく。
リディアは立ち尽くした。
自分には、何もできない。
震える手を、もう片方の手で強く押さえる。
それでも、震えは止まらなかった。
川が鳴っている。
カイルの姿が、雨の向こうで小さくなる。
リディアは、ただ見ていることしかできなかった。




