第15話 頼れる右腕
翌朝。
リディアが工事現場へ向かうと、昨日までとは明らかに様子が違っていた。
「……あら?」
人が、迷っていない。
誰がどこで何をするのか、どの材料をどこへ運ぶのか、誰が技師の手伝いをし、誰が鍛冶場へ向かうのか。それぞれが、自分の仕事を知っている。
昨日までなら、リディアが一つずつ確認していたことだった。
「おはようございます、リディア様」
声をかけてきたのは、技師のエドだった。
「おはようございます。今日は……ずいぶん早いのですね」
「カイル様に、朝のうちに今日の作業を決めておくようにと言われまして」
「カイル様に?」
「はい。昨日のうちに、必要なものを全部聞かれました」
技師が苦笑する。
「私が水車のことを話したら、今度は鍛冶職人に何が必要か聞いて、木材の量まで確認して……」
「そうですか」
リディアは周囲を見回した。
老職人バルドは若い職人たちと何かを相談している。少し離れたところでは、ガレスたちが木材を運んでいた。
そして、その中央に。
「リディア様」
カイルが立っていた。
編まれた銀髪に、整いすぎた横顔。几帳面な立ち姿と、泥の跳ねた長靴。
最後の一つだけが、この現場に馴染もうとしていた。
「おはようございます」
「おはようございます。……これは、カイル様が?」
「昨日のうちに皆さんから話を聞いただけです」
「それだけ?」
「はい」
カイルは平然としている。
「皆さん、自分の仕事については私より詳しいですから」
そう言って、手元の書類に目を落とした。
「ただ、仕事が重なっていたので、順番を整理しました」
「順番を?」
「はい。技師が設計をしている間に、鍛冶職人が作れる部品を作る。木材を切っている間に、別の者が運搬路を整える。全員が同じ仕事をする必要はありません」
リディアは目を瞬いた。
言われてみれば、その通りだった。
けれど、昨日までの自分には、そこまで考える余裕がなかった。
「それから」
カイルが続ける。
「食事の時間も決めました」
「……食事?」
「はい」
「それは……」
「昨日、昼食を食べていない者が何人もいました」
「……」
リディアは何も言えなかった。
「工事を急ぐのは構いません。ただし、人間は食事をしなければ動けません」
「そうですね……」
「リディア様もです」
「え?」
「あなたも昼食を抜いていました」
「……見ていたんですか?」
「指揮をする人間が倒れたら、全員が困りますから」
あまりにも淡々と言われて、リディアは返す言葉を失った。
「それから、昨日の計画について一つ」
「はい」
「このまま全員を工事に回すのは危険です」
「危険?」
「畑があります」
カイルは西側の畑を見た。
「今は工事だけを優先できますが、農作業の時期になれば、村人を工事に出し続けることはできません」
「……そうですね」
「ですから、今のうちに工事の優先順位を決めます」
カイルは紙を広げた。
「まずここ。次にここ。ここは雨が降った場合に備えて後回しにします」
迷いがない。
「必要な人数も変えます。常に全員を動員する必要はありません」
リディアは紙を覗き込んだ。
自分が考えていた工事が、いくつもの仕事に分けられている。
人、材料、時間、天候、農作業。それらが、一つの表の中に並んでいた。
「……すごいですね」
思わず口から出た。
「何がですか?」
「いえ……」
リディアは少し考えた。
「私、一つのことしか見ていなかったのかもしれません」
「そんなことはありません」
カイルは即座に否定した。
「あなたが、何をしたいのかを決めたから、今こうして動いているんです」
「……」
「私がしているのは、それを実行できる形にしているだけです」
リディアは、しばらく彼を見つめた。
自分がやらなければと思っていたこと。
全部、自分が見なければと思っていたこと。
それを、誰かに任せてもいいのかもしれない。
そんな考えが、初めて浮かんだ。
「では、私は何をすればいいでしょう?」
「今まで通りです」
「今まで通り?」
「あなたが必要だと思うことを考えてください」
カイルは淡々と言った。
「その代わり、細かいことは私に任せてください」
その言葉に、リディアは小さく頷いた。
「分かりました」
*
その日の昼。
リディアは久しぶりに、きちんと食卓についていた。
「……昼食って、こんな時間に食べるものだったのですね」
「本来はそうですよ、お嬢様」
ハンナが笑う。
「最近のお嬢様は、朝から晩まで何かしていましたから」
「そうだったかしら」
「そうですよ」
ハンナは呆れたように笑った。
「畑に行って、工事を見て、帳簿を書いて、また畑に行って……」
「そんなに?」
「そんなにです」
リディアは首を傾げた。
自分では、忙しいとは思っていた。
けれど、それがどれほどだったのかは、よく分かっていなかった。
その横では、ニコがパンを頬張っている。
「ニコ、そんな急いで食べなくても大丈夫よ」
「でも、午後の仕事があるから!」
「仕事?」
「薪を運ぶんだ!」
胸を張るニコに、ハンナが笑った。
「この子もすっかり屋敷の雑用係ですね」
「俺、もっとできるよ!」
「はいはい。でも重いものを持つ時は気をつけてね」
「分かってる!」
そんな二人を見て、リディアも小さく笑った。
「……カイル様が来てくださって、少し楽になりましたね」
「そうですね」
リディアは笑った。
変わっていくものもある。
けれど、変わらなくていいものもある。
そのことが、少し嬉しかった。
*
午後。
カイルは屋敷の中を見ていた。
正確には、屋敷と呼ぶには少し寂しい建物だった。
部屋はある。
机もある。
食器も最低限はある。
だが、領主が暮らし、領民を迎える場所として考えると、あまりにも足りない。
来客用の椅子がない。
書類を保管する場所も足りない。
執務室と私室の区別も曖昧。
使用人が動くための場所も整っていない。
そして何より。
「侍女は?」
カイルが尋ねた。
「おりません」
ハンナが答えた。
「……そうですか」
「私がお世話をしていますので」
「あなたは、畑仕事もあるでしょう」
「はい。でも、こちらの下働きも続けさせてください」
ハンナははっきりと言った。
「お嬢様がここへ来られたときから、私はここで働いてきました。これからも、ここにいたいんです」
カイルは少し考えた。
「分かりました」
「ありがとうございます」
「ただし、仕事量は調整します」
「え?」
「あなた一人に負担が偏らないようにします」
カイルは屋敷を見回した。
「領主の身の回りの世話をする者と、屋敷の雑務をする者は別に必要です」
「……」
「あなたがここにいることと、あなた一人に頼ることは別です」
ハンナは目を丸くした。
やがて、ふっと笑う。
「……はい」
「それから」
カイルはニコを見る。
「君」
「俺?」
「手伝いをするのは構いません。ただし、無理な仕事はしないこと」
「分かった!」
「返事だけはいいですね」
「ちゃんとできるよ!」
カイルはわずかに口元を緩めた。
「では、薪を運ぶときは大人と一緒に」
「はい!」
そしてカイルは、屋敷の奥へ視線を向けた。
「侍女を一人、呼びます」
「侍女?」
「はい」
「どなたを?」
「これから探します」
*
数日後。
一人の若い女性が屋敷を訪れた。
「初めまして、お嬢様」
柔らかな茶色の髪をまとめた女性が、丁寧に頭を下げる。
「エレナと申します」
子爵家の三女。
家を継ぐ立場ではないが、幼い頃から貴族令嬢としての教育を受け、家の中で侍女たちの仕事も身近に見てきた。
そして何より。
カイルが、リディアのそばに置く人間として選んだ女性だった。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
リディアが頭を下げる。
エレナは少し驚いたように瞬いた。
「そんなにかしこまらないで。歳の近い話せる相手ができて嬉しく思っているの」
「そうですか? そう言っていただけると嬉しいです。私も、お嬢様というより……妹ができたような気持ちです」
エレナは笑った。
「ふふ、よろしくね」
「はい!」
「では、まず……」
エレナはリディアの姿を見た。
いつもの服。
簡素にまとめられた髪。
そして、少し泥のついた靴。
「お嬢様」
「はい?」
「その靴で、この後どちらへ?」
「畑です」
「……なるほど」
エレナは少しだけ考えた。
「では、畑へ行くためのお召し物を用意しておきます」
「え?」
「毎回、泥のついた服を洗うより、そのほうが合理的ですから」
「……ありがとうございます」
リディアは嬉しそうに笑った。
エレナも笑う。
「お任せください、お嬢様」
*
それから、少しずつ。
屋敷が変わっていった。
執務用の机が整えられた。
書類を保管する棚が置かれた。
来客を迎えるための部屋も整えられた。
食事の時間も決まり、リディアの予定には余白が生まれた。
今までなら、朝から夜まで何かをしていた。
けれど。
「お嬢様、午後の三時まではこちらの書類を」
エレナが予定を示す。
「三時以降は?」
「カイル様が工事の報告をまとめてくださるそうです」
「では、その時間に次の計画を考えられますね」
「はい」
リディアは少し嬉しくなった。
考える時間がある。
それは、思っていた以上に大切なことだった。
そして数日後。
久しぶりに、きちんとしたドレスを着ることになった。
「こちらを」
エレナが差し出した。
「……綺麗ですね」
「カイル様が用意されたものです」
「カイル様が?」
「はい。領主として人を迎える機会も増えるでしょうから、と」
リディアはドレスを見つめた。
王都を離れてから、こういう服を着ることはほとんどなかった。
「着てみます」
「はい」
エレナが手伝い、髪を整える。
鏡の前に立ったリディアは、少し不思議な気持ちになった。
そこにいるのは、かつて王都で公爵令嬢として暮らしていた頃の自分に近い。
けれど。
「……少し、動きにくいですね」
「ふふ」
エレナが笑った。
「畑仕事には向きませんね」
「はい」
「ですが、お似合いですよ」
「ありがとうございます」
リディアは鏡の中の自分を見つめた。
もう王都へ戻ったわけではない。
ここはリヴェル。
自分が選び、守りたいと思った場所だ。
ただ。
その場所で、自分が公爵令嬢だったことまで捨てる必要はないのかもしれない。
*
その日の午後。
屋敷の前に、一台の馬車が止まった。
「アレク様がお見えです」
「アレク様が?」
リディアは玄関へ向かった。
扉が開く。
「久しぶりだな、リディア嬢」
「アレク様。お久しぶりです」
アレクはいつものように笑いながら、リディアを見た。
そして。
「……うん?」
「どうしました?」
リディアが首を傾げる。
アレクは、もう一度彼女を見た。
いつもと違う。
土のついた服ではない。
髪も整っている。
きちんとしたドレスを着ている。
立派な貴族令嬢のようだ。
「……いつもと違うな」
「そうですか?」
「ああ」
リディアは自分の服を見下ろした。
「カイルが用意してくれたんです」
「……カイルが?」
アレクの声が、ほんの少しだけ低くなった。
「はい。領主として人を迎えることも増えるから、と」
「そうか」
「侍女も手配してくれました」
「……侍女も?」
「ええ。ハンナにもここで働いてもらっていますが、一人に任せるのは大変ですから」
「確かに、そうだな……」
アレクは笑った。
笑っている。
けれど。
なぜか、少しだけ面白くない。
「最近は、ちゃんと食事もできるようになりました」
「それはよかった」
「それに、工事の細かいこともカイルが見てくれるので、私も少し考える時間ができたんです」
「……そうか」
……。
来てから、カイルのことばかりだな。
「アレク様?」
「いや」
アレクは笑顔を作った。
「何でもない」
そこへ、背後から声がした。
「アレクシス様」
振り返る。
カイルだった。
「お久しぶりです」
「ああ、カイル」
二人の視線が交わる。
「君のおかげで、ずいぶん変わったようだな」
「領主が領主らしく働けるようにしただけです」
カイルは淡々と答えた。
「それはよかった」
アレクは笑った。
けれど、その目は笑っていなかった。
自分でも、なぜこんなことが気になるのか分からない。
ただ。
いつも泥だらけになっていた少女が、今日は綺麗なドレスを着ている。
そして、それを用意したのが。
自分ではなく、目の前の男だった。
それがなぜか、少しだけ気に入らなかった。
アレクは、自分でも理由の分からない小さな苛立ちを胸の奥にしまい込んだ。




