第14話 指揮官
アルヴェニア王宮。
アレクの執務室に、一人の男が呼ばれていた。
「殿下、お呼びで?」
扉の前に立つ男が尋ねる。
長い銀髪を後ろで丁寧に編み、軍服の襟まで一分の乱れもない。額から瞼へ、古い傷が一筋走っていた。
相変わらず、無駄に絵になる男だ。
「ああ。入ってくれ」
男が部屋へ入る。
アレクは机の上に置かれた資料を手に取った。
「君に、行ってほしいところがあるんだ」
「どこへ?」
「エルディアのリヴェル領、私の投資先だ。」
「……リヴェル?」
男の眉がわずかに動いた。
「エルディアの、あの?」
「ああ」
「……貧しい隣国の領地に?」
「そう」
男はしばらくアレクを見つめた。
「殿下」
「なんだい?」
「何か、自暴自棄にでもなられましたか?」
「ひどいな」
アレクが笑う。
「そんなんじゃないよ」
「では、なぜ私が?」
「面白いからだよ」
「……は?」
アレクは机の上の資料を、男の前へ放った。
ばさり、と紙が広がる。
「これを見てみろ」
男は一枚目を手に取った。
そこに記されていたのは、リヴェル領の現状だった。
人口。
収穫量。
税収。
荒れた農地。
度重なる洪水。
流出した住民。
そして、長年放置された川岸。
男の表情が変わっていく。
「……これは」
次の紙を見る。
「廃村したも同然では?」
「ああ」
アレクは頷いた。
「私も最初に見たときは、そう思った」
「では、なぜ投資を?」
「その次だ」
アレクが指で資料を叩く。
男は次の紙をめくった。
そこには、収穫された麦の量。
じゃがいもの栽培。
新しく整えられた畑。
排水の改良。
そして、今後の治水計画。
「……これは」
「ほんの数か月だ」
「数か月?」
「ああ」
男が顔を上げた。
アレクは楽しそうに笑っている。
「村人たちは、今ではパンにジャムをつけて食べている」
「……ジャム?」
「しかも砂糖をほとんど使わずに作れる果実まで見つけた」
「…………」
「じゃがいもと麦も育てている。今までほとんど収穫できなかった土地でね」
男は資料をめくる手を止めた。
「一体、何が……?」
「それが面白いところなんだ」
アレクは椅子から立ち上がった。
「さらに今度は、こんなものまで作った」
別の紙を取り出す。
そこには、川岸に組み上げられた大きな木製の構造物が描かれていた。
「これは?」
「ベルトコンベアというらしい」
「……何です?」
「石や資材を、人が何度も運ばなくてもいいようにする機械だ」
男は眉をひそめた。
「そんなものを?」
「作った」
「誰が?」
「領主だ」
「……」
男はしばらく黙った。
「本当に?」
「私も自分の目で見た」
アレクは楽しそうに続ける。
「水の流れを使って動かしている」
「水力を?」
「そう」
「……」
男は資料をもう一度見た。
「殿下」
「なんだ?」
「本当に、あのリヴェルですか?」
「そうだよ」
アレクは笑った。
「面白いだろう?」
男は深く息を吐いた。
「面白い、というより……理解が追いつきません」
「だから君に行ってほしいんだ」
「私に何を?」
「カイル、君に指揮を取ってほしい」
男の顔から、わずかに笑みが消えた。
「……指揮を?」
「ああ」
「殿下。私は軍務があります」
「知っている」
「それに、私は領地経営の専門家でもありません」
「それも知っている」
「では――」
「君ならできる」
アレクはあっさりと言った。
男は黙った。
「人を動かせる。物資を管理できる。金の使い道を考えられる。問題が起きれば、その場で判断できる」
「……」
「それに、君は昔から、そういうことを考えるのが好きだっただろう?」
「好きでやっていたわけではありません」
「そうだったな」
アレクが苦笑する。
「兄上のために、全部覚えたんだった」
男の表情が少しだけ曇る。
アレクはそれ以上、その話には触れなかった。
「嫌なら行かなくてもいい」
「……」
「本当は私が行きたいくらいなんだ」
「殿下が?」
「だって、面白そうだろう?」
男は呆れたように息を吐いた。
「殿下は、本当に……」
「ひどいな」
「いえ」
男は資料へ目を落とした。
荒れた土地。
乏しい収穫。
減り続ける人口。
そこから、わずかな期間で生まれた変化。
そして、見たこともない運搬機械。
「……分かりました」
アレクが目を輝かせる。
「行ってくれるのか?」
「視察だけです」
「もちろん」
「しばらく様子を見て、必要な指揮だけ執ります」
「それで十分だよ」
男は資料をまとめた。
「では、準備します」
「ああ」
男が部屋を出ようとする。
「ああ、そうだ」
アレクが呼び止めた。
「何です?」
「一つだけ言っておく」
「?」
「君が思っているより、ずっと変わった少女だよ」
「……領主のことですか?」
「そう」
アレクは笑った。
「会えば分かる」
◇
数日後。
リヴェル領。
馬車が、ゆっくりと坂を下っていく。
男は窓の外を眺めていた。
荒れた土地。
けれど、以前聞いていた話とは少し違う。
畑がある。
排水路が整えられている。
川岸では、何人もの人間が働いている。
「……本当に変わっているな」
思わず呟いた。
やがて馬車が屋敷へ到着する。
御者が扉を開けた。
男が降りる。
そこへ、一人の少女が駆けてきた。
「お待ちしていました」
淡い色の髪。
まだ少女らしさの残る顔立ち。
華奢な身体。
けれど、靴には土がついていた。
男は一瞬、目を止めた。
「リヴェル領主、リディアです」
「カイルです」
「……」
この少女が?
男は思った。
事前に聞いていた話では、彼女は公爵家の令嬢。
そして――
王太子との婚約を、手ひどく破棄された少女。
王都では、そんな噂まで聞いていた。
華やかな社交界から追われ、辺境へ送られた哀れな令嬢。
少なくとも、男が耳にしていたのはそんな話だった。
だが。
目の前にいる少女は、そんな噂とは少し違っていた。
「遠いところをありがとうございます」
「……こちらこそ」
男は答えた。
そして、その視線は少女の背後へ向いた。
「これは……?」
川岸から、大きな音が聞こえてくる。
木と木が噛み合う音。
水車が回る音。
そして、長い帯がゆっくりと動いている。
ベルトコンベア。
資料で見たものと同じだった。
「工事に使っています」
「……そうですか」
男は目を細めた。
そして、ふと気づく。
リディアの手にも、土がついていた。
「領主自ら、工事を?」
「はい」
「……」
男は少しだけ考えた。
この可愛らしい少女が。
あの機械を?
この畑を?
この村を?
「まず、川を見せていただけますか」
「もちろんです」
リディアはすぐに歩き出した。
男もその後を追う。
◇
川岸。
男はしばらく黙って周囲を見渡した。
補強された岸。
新しく掘られた排水路。
石材の集積場所。
作業する村人。
技師。
職人。
そして、水車とベルトコンベア。
「……ずいぶん手を入れましたね」
「まだ途中です」
「これを、あなたが?」
リディアは少し考えた。
「考えたのは私です。でも、実際に作ったのは技師や職人の方たちです」
「なるほど」
男は頷いた。
その答えが、少し意外だった。
普通なら、領主として自分の功績を語るところだ。
だが彼女は、自分の仕事と他人の仕事を分けて話している。
「では、今一番困っていることは?」
リディアはすぐに答えた。
「人手です」
「ほう」
「それから、資材。資金も足りません」
「人手なら、増やせばいい」
「そう簡単ではありません」
「なぜ?」
「農民を工事に回しすぎれば、畑が止まります」
男は黙った。
「外から人を呼んでも、住む場所がありません。食事も必要です。さらに技術者も足りません」
「……なるほど」
「だから、工事だけを早くすることもできません」
リディアは川を見た。
「畑も守らなければならない。村の生活も止められない。全部を同時に進める必要があります」
男は黙って彼女を見た。
その言葉を聞いて、ようやく理解した。
アレクがなぜ、この少女を面白いと言ったのか。
目の前の少女は、ただ思いつきを口にするだけではない。
この土地で暮らす人間の生活そのものを見ている。
「……では」
男は尋ねた。
「あなたは、この領地をどうしたいのです?」
リディアは少し驚いた顔をした。
そして川の向こうを見る。
「雨が降っても、怯えなくていい村にしたいです」
「……」
「食べるものがあって。働けば、それだけ暮らしが良くなって。子供たちが大人になったとき、この村を出なくてもいいと思えるような場所に」
男は黙って聞いていた。
「そのために、まず川を変えたいです」
リディアは静かに言った。
「畑を増やして、収穫を安定させたい。道も整えたい。人が来ても困らないようにしたい」
そして。
「……そのためには、私一人では無理だと思っています」
男は、わずかに目を見開いた。
自分の限界を理解している。
それを認めたうえで、人を頼ろうとしている。
男は、ふっと息を吐いた。
「分かりました」
「え?」
「あなたは、何をどうしたいのか。それだけ言ってください」
リディアが目を瞬く。
「そこからは、私の仕事です」
「……」
「人を集めます。仕事を分けます。順番を決めます。必要なものを調達します」
男は川岸を見渡した。
「あなたが、つまらないことに時間を割く必要はありません」
リディアは、しばらく何も言わなかった。
「……つまらないこと?」
「人を動かすことです。物を運ぶことです。誰に何を頼むか考えることです」
男は淡々と言った。
「あなたが考えるべきことは、もっと別にある」
「別に……?」
「ええ」
男は初めて、少しだけ笑った。
「この領地を、どうしたいのか」
リディアは目の前の川を見た。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
「では、始めましょう」
男はそう言った。
その日。
リヴェルの工事に、初めて正式な指揮官が加わった。




