第12話 技師と職人
翌朝。
リディアのもとへ、一通の手紙が届いた。
差出人の名を見た瞬間、彼女は少しだけ目を見開いた。
アレクからだった。
封を開く。
中には、簡潔な文と、一枚の為替証書が入っていた。
『川ならこれくらいはかかるだろう』
それだけだった。
金額を見る。
「……千ペクト」
七百ペクトを頼んだはずだった。
リディアはしばらく証書を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「……困った人ね」
そう言いながらも、その顔にはわずかな笑みが浮かんでいた。
◇
その日の昼。
リディアは村人たちを集めた。
畑仕事をしていた者も、家にいた者も、みな広場へ集まってくる。
先日の嵐を越えてから、村には少しだけ明るさが戻っていた。
冬を乗り切り、嵐を乗り越え、何より麦が収穫できた。
僅かな自信と、先への希望が、ようやく村人たちの間に芽生え始めていた。
だからこそ。
リディアは、最初にこう言った。
「皆さん。先日の嵐について、話があります」
集まった人々が顔を上げる。
「私たちは、嵐に勝ったわけではありません」
ざわ、と空気が揺れた。
「西の畑は被害を受けました。それでも、他の畑を守れたのは、皆さんが畝を高くし、排水を作り、縦穴を掘り、川岸を補強したからです」
ガレスも黙って聞いている。
「だから、あの結果は失敗ではありません。むしろ、とても大きな一歩でした」
リディアは一度、川の方へ目を向けた。
「でも……川そのものは、何も変わっていません」
誰も口を開かなかった。
「次に同じ雨が降ったら、同じ場所が壊れるかもしれません。もっと大きな雨なら、今回守れた場所まで水に浸かるかもしれない」
静かな声だった。
けれど、誰も目を逸らさなかった。
「この土地でこれからも暮らしていくなら、そのたびに祈るだけでは駄目です」
リディアは皆を見渡した。
「川を変えます」
「……川を?」
「はい」
ざわめきが広がった。
「川岸を補強します。崩れやすい場所は形を変える必要があります。流れが集中する場所も調べます」
地面に置かれていた木の棒を拾い、土の上に線を引いていく。
「畑から川へ水を逃がすための排水路も増やします。場所によっては、もっと大きな暗渠も必要になるでしょう」
線が増えていく。
「雨が一度に川へ流れ込まないよう、水を一時的に受ける場所も必要です」
「……そんなことが、できるのか?」
誰かが呟いた。
リディアは少し考えてから答えた。
「分かりません」
意外な答えに、村人たちが顔を上げた。
「私は、こうしたいという考えを持っているだけです。実際に川をどう造り替えるのか。どれだけの幅が必要なのか。どの場所を掘り、どこを残すのか」
リディアは首を横に振った。
「それは、私には分かりません」
そして、はっきりと言った。
「だから、知っている人を呼びます」
◇
数日後。
ガレスと、もう一人の男が町へ向かった。
種芋を探しに行った、あの男だった。
あの旅から戻って以来、彼はガレスと並んで、リディアから仕事を任されることが増えていた。
「技師を探してください」
出発前、リディアは二人に言った。
「それから、石工、大工、鍛冶職人。できれば川や道の工事を経験した人を」
「見つかりますかね」
「分かりません」
男が苦笑する。
「またそれですか」
「だって、本当に分からないもの」
リディアも苦笑した。
「でも、探さなければ見つかりません」
「……違いねえ」
ガレスが肩をすくめる。
「行ってきます」
「ええ。気をつけて」
二人は町へ向かった。
◇
それからさらに数日。
何人かの技師と職人が、リヴェルへやって来た。
最初に川を見せる。
次に畑を見せる。
そして、村の状況を説明する。
けれど。
「……これを全部やるのか?」
川を見下ろした男が、呆れたように言った。
「はい」
「金は?」
「千ペクトあります」
「千?」
男が笑った。
「この規模で?」
リディアは黙った。
「それだけじゃねえ。人手はどうする?」
「村人の協力は得られます」
「農民だろう?」
「はい」
「農作業をしながら工事もするのか?」
「……すべてを、というのは難しいと思います」
「だろうな」
別の男が川岸を見ながら鼻を鳴らした。
「川をいじるって言うが、どこをどうするつもりだ?」
リディアは持ってきた紙を広げた。
そこには、彼女が考えた大まかな図が描かれている。
「まず、この辺りの流れを――」
「嬢ちゃん」
男が遮った。
「これは誰が考えた?」
「私です」
「……そうか」
男は紙を見た。
しばらく眺めたあと、ため息をつく。
「悪いが、俺には無理だ」
「どうしてですか?」
「川は畑みたいに、こうしたいからこうする、ってわけにはいかねえ」
別の男も口を挟んだ。
「水の流れは、そんな簡単なもんじゃない」
「はい」
「それに、こんな工事をするなら測量も必要だ。資材もいる。人間もいる。道具もいる」
「はい」
「……分かってんのか?」
「分かっていません」
リディアは正直に答えた。
男が目を瞬く。
「だから、あなたたちにお願いしているんです」
しばしの沈黙。
その言葉に、男は困ったように頭を掻いた。
「そういうことじゃねえんだがな……」
その日のうちに、二人が帰った。
翌日にも、一人。
さらに翌日には、別の職人が荷物をまとめた。
「こんなところで仕事をしても、まともな材料も手に入らん」
「それに、女の考えた工事に付き合ってるほど暇じゃねえ」
「こっちは遊びじゃないんだぞ」
その言葉だけを残して。
◇
夕方。
広場には、集めた道具だけが残っていた。
人が減った。
思ったより、ずっと早かった。
村人たちも、何となく気まずそうにしている。
「……やっぱり、無理なんじゃないか」
誰かが呟いた。
別の誰かが答える。
「俺たちだけじゃ、川なんてどうにもできねえ」
リディアは何も言わなかった。
目の前には、土の上に描いた川の図。
何度考えても、そこから先へ進まない。
知識はある。
こうしたほうがいいという考えもある。
けれど。
実際に川を見れば、知らないことばかりだった。
「……難しいわね」
ぽつりと呟く。
隣にいたガレスが振り返った。
「お嬢様」
「大丈夫よ」
リディアはすぐに笑った。
「まだ始まったばかりだもの」
そう言ったものの。
胸の奥には、小さな重さが残っていた。
◇
翌朝。
リディアは広場へ向かった。
すると。
まだ二人、残っていた。
一人は、若い男だった。
紙を広げ、何かを書いている。
もう一人は、少し離れた場所で、黙って川を見ていた。
「……あなたたちは」
リディアが声をかけると、若い男が顔を上げた。
「ああ。おはようございます」
「帰らなかったのですか?」
「はい」
男は少し照れたように笑った。
「帰る理由がなかったので」
もう一人の老人が、川から目を離さずに言った。
「俺もだ」
「……」
リディアは二人を見た。
まだ、何も知らない。
名前すら。
けれど。
昨日までとは、少しだけ違う空気が流れていた。
リディアは、二人の前に立った。
「もう一度、最初から話してもいいですか?」
若い男が顔を上げる。
老人が、ゆっくりとこちらを向いた。
「もちろんです」
若い男が答えた。
そして老人は、わずかに口元を上げた。
「今度は、最後まで聞こうじゃねえか」
リディアは頷いた。
川は、まだそこにある。
越えなければならない仕事も、山のように残っている。
それでも。
ほんの少しだけ。
前へ進める気がした。




