8 父の帰還
弔いの鐘がメセトラーム領ガジェゴスの町に響いた。
泣き腫らした眼でマリアンネ=メセトラーム侯爵第一令嬢が、ミリヤム=メセトラーム侯爵第二令嬢に尋ねた。
「お父様は、帰ってこられるのかしら」
ミリヤムは、首を振った。
「わからないわ……。もう、宿営地は出立されていると思うのだけれど」
「そうなのかしら」
「……きっと、王都にも寄られてから、お帰りになるとは思うのよ」
「きっとそうね……」
マリアンネはハンカチで涙を拭った。
「お義母様の死も知らず、おかわいそうなお父様……」
ミリヤムは、実の母の死に立ち会っても、涙が出なかった。
それなのに、冷たくあしらわれていた継子のマリアンネが、これほど涙を流しているのに、実子の自分は涙の一滴も溢れてこない。
「マリアンネ様、ミリヤム様。最高神ディアグ神殿から神官長様がお越しでいらっしゃいます」
執事グーアハルト=ケンネルが、来訪を告げた。
ペトロネラ=メセトラーム侯爵夫人の遺体は、すでに屋敷内の礼拝堂に安置済みだ。
「ええ。お通しして頂戴」
マリアンネは、あふれる涙はそのままだが、なんとか気丈に過ごそうとしていた。
侯爵夫人の死により、第一子であるマリアンネに正式に行使権が移行したためだ。
年相応に泣き暮らしてもかまわないのだが。
近々帰還する、シーウェルト=メセトラーム侯爵の顔を見るまで気丈に過ごすつもりなのだろう。
それでも、涙はこぼれてくる。
ミリヤムは、泣けない自分と家政に関わることのできない、居場所のない自分にいたたまれなさを感じていたが、ペトロネラの遺体のそばを離れたりしなかった。
純白の神官服を着た少しふくよかなジョス=ユボー神官長が、礼拝堂に入ってきた。
長い裾を蹴り上げるたび、神官服の裾に刺繍されたディアグの光が水鏡に映る姿を模した金糸が光を反射させる。
そして、悲痛な表情でペトロネラを見つめているミリヤムを見とがめた。
「恐れ入ります。あの方は?」
「第二令嬢のミリヤム様でいらっしゃいます」
「ああ、それでは控えていただくようにお伝えいただけますか?」
「実のお母様のご葬儀ですが……」
「あの方は、侯爵家の実権には関わりのない方とお伺いをしております。慎ましさをお知りいただきませんと」
グーアハルトが、ミリヤムのそばに立った。
「ミリヤム様。大変申し訳ございません。これから、ペトロネラ様のご葬儀を執り行います。どうぞ、ご自室にお控えくださいませ」
「いやよ。私も参列するわ」
「いいえ。申し訳ございません。ミリヤム様には、そのご資格がございません」
「どうして……」
「──大変申し訳ございません……」
苦渋に満ちたグーアハルトの表情に、すべてを察したミリヤムは、母、ペトロネラの冷たい手をもう一度握り締めその甲にキスを落とした。
「ごめんなさい……お母様、どうか、ミリヤムを見守っていてね」
ミリヤムの小さな影は、薄暗がりの廊下を抜けて、自室のドアの中に消えた。
*
翌日。
朝もやが立ちこめる侯爵家の墓地に、小さな影が揺らめいている。
ミリヤムだ。
埋葬を終えたばかりの土の上、そっと、ペトロネラの好きだった花束を置いた。
「こんな、寂しいところにこれからお母様はずっといるのね……」
空が、夜を完全に押しやり、朝日の暖かさがミリヤムの冷たく冷えた頬をゆっくりと温めていく。
裏の林からも、早鳴き鳥の新しい朝を祝福するさえずりが聞こえる。
「ミリヤム!」
礼拝堂裏手にある墓地に、マリアンネの声が響いた。
「どうしたの……こんなに早く」
「マリアンネ……」
ミリヤムは、弱り切った表情を浮かべた。
「──ごめんなさい……。お墓参り、したかったの……」
「そうなの……。そうよね……。でも、もう少し明るくなってからの方がよかったのかもしれないわ。使用人たちで幽霊騒ぎになっているわよ」
「あら……、それは、ひどいわね……」
「そうね。……ミリヤム。体が冷えてしまうわ。さ、屋敷に帰りましょう」
「ええ、わかったわ……」
ミリヤムは、最後に膝をつき、母に祈りを捧げた。
*
「ミリヤム様。本日の授業はいかがいたしましょうか」
家庭教師のオルガ=セーデルグレーンが、ミリヤムの居室のドアをノックした。
「オルガ先生……」
「お母様を亡くされたばかりですし、喪に服されるというのでしたら、失礼をさせていただきますが……」
「そうね……。今回、私には本当に何もないことがわかったわ。マリアンネが選び取れるものを、私は何一つ持っていないの」
ミリヤムの笑顔は、悲壮といえるように変化した。
「オルガ先生。どうか私に勉強を教えてください。これからを生きられるような知恵を教えてほしいの」
「わかりました。私がお伝えできることは、すべてお伝えさせていただきます」
「ありがとう」
二人はさっそく机に向かった。
翌々日の昼過ぎ。
待ち望んだ先触れが屋敷に戻ってきた。
先触れである騎士は、屋敷内の沈んだ空気に驚きを隠せないようだったが、マリアンネに堂々と告げた。
「マリアンネ様にお伝えいたします! あとひと刻ほどでシーウェルト様ご帰還でございます!」
「ご苦労様。しかと承ったわ」
家紋旗が掲げられ、マリアンネをはじめミリヤムと使用人たちが門の前に並んだ。
遠くから、砂埃が近づいてくるのが見えた。
シーウェルト=メセトラーム侯爵の騎馬の後ろについているのは、エウヘニオ=ボルケスティン伯爵とヴェンデリン=ボルケスティン伯爵令息だ。
シーウェルトが、門をくぐる瞬間、マリアンネをはじめとした全員が頭を下げた。
マリアンネとミリヤムの喪服が、風をはらんで膨らんだ。
騎馬を降り、近づいてくる父に娘たちは一礼をささげる。
「今、帰った。……そうか。彼女は旅立ったのか」
「……。お父様……」
マリアンネは、悲痛に涙をこぼした。
「ミリヤム。お前が、出迎えなど、珍しいな」
ミリヤムは、一度頭を下げてから、久しぶりに会う父の顔を正面から見つめた。
「ええ。お父様。お母様は、立派に旅立たれました」
「そうか。……それにしても、しばらく見ないうちにミリヤム。何かどことなくおかしい感じがするな……。変なものでも食べたのか?」
それを聞いた使用人たちは、どこか苦笑を浮かべた。
「使用人たちが、そんなものを用意するわけないではないですか」
マリアンネが、はっきりとそう言った。
出征前は、おどおどと声も小さく大人しい印象だったマリアンネが、今は自分に対してはっきりと意見を述べている。
シーウェルトは、妻を失った悲しみにひどく心を痛めていたが。
二人の娘たちの変化に、目を見張った。
「旦那様……。この度はお悔やみを申し上げます。奥方様ペトロネラ様は先日、お亡くなりになりまして。すでにご葬儀を済ませております」
執事であるグーアハルト=ケンネルがしっかりと報告をした。
「わかったよ。グーアハルト。お前に任せてよかった」
*
さらに数日が穏やかに過ぎた。
ミリヤムは、母の面影のいまだ残る居室を訪れていた。
ある程度は整頓されていたが、私物についてはそのまま残っている。
書類戸棚をのんびりミリヤムは眺めている。
物語や伝記、フルートが書かれた楽譜などもあった。
その本の間。
ひとつのノートがあった。
きちんと製本されている本ではない。おそらく、手記だろう。
日記のようなものだ。
一つ一つ、なんとか文字を拾っていく。
瞬間。数枚がそのノートからこぼれた。
「いけないわ……」
ミリヤムが、それを拾い上げると書かれていたのは、ペトロネラの生家であるヴァウテルス家に伝わる神話であった。
「女神……カリステ……」
まだ、たどたどしいがゆっくりと読み進めるミリヤム。
「どういうこと……」
そこに書かれていたのは、ヴァウテルス家女児に現れるという、女神カリステの巫女についての記録であった。
「悪を死で償い……、二度目の目覚めで……、我は目覚める……?」
ミリヤムは、悪行の償いとしての死を迎え、過去に戻ったという現実がある。
「これって、……私のこと……?」
体中に震えが走った。
「私は……今まで悪い子供だった……。マリアンネにヴェンデリンも殺したわ……。どういうことなの……」
確かに──。
目覚め直しをしたときに、なぜか心根が根本から180度も変わってしまった。
悪の心が潰えて、善の心を持つに至ったのだ。
ミリヤム自身が望んだことでは、決してない。
それどころか、それまでの人生があの処刑で終わるのだと刑吏に悪態をつきながらも覚悟を決めていた。
それなのに、目覚めたときには全く違う自分になってしまっていた。
「何を、この先、信じたらいいの……」
自分自身すら信じることができず、ミリヤムは主のいない部屋で嘆息した。
「もしかしたら、おじい様なら、私のこの状況について何かご存じなのかもしれないわ……」
ミリヤムは、開いていたノートを閉じ、そっと抱きしめた。
ただ──。
今、母の生家ヴァウテルス家とは交流が途絶えて久しい。
内容も内容だ。手紙をしたためても信じてはもらえぬだろう。
「どうしたら、いいのかしら……」
ミリヤムは、途方に暮れることしかできなかった。
その時、父シーウェルトの書斎では、マリアンネを正式な後継者にするための準備が、行われていた。




