6 家庭教師
屋根に跳ね返るくらいの雨が降っていた。
家庭教師であるオルガ=セーデルグレーンは、半地下のベッドから身を起こした。
慎ましやかなノックのあと、メイド長エルヴィール=ラビューが顔を見せた。
「おはよう、オルガ先生。よく眠れた?」
「ええ。エルヴィールさん。今日は雨なのね」
「いい降りっぷりよ。おかげで洗濯物が干せなくて困ってしまうよ」
「そうね。でも、たぶんだけど、あと二時間くらいで雨が上がりそうよ」
「え、オルガ先生、天気も見られるのかい? 何かの魔法かい?」
オルガは、困ったように首を傾けた。
「違うわ。この地域って雨が上がる前に特徴があるのよ」
「え、そうかい? そんなのがあるのかい?」
「まあ、ここからじゃあまり屋外の様子はわかりづらいけれど。ここからでもわかることがあるわ。少し風が弱まってきたじゃない?」
「ああ、言われてみれば」
「あと、風向きが変わったわ。少し、まだ、降りそうだけど、昼前には雨はやむと思うわ」
「へー。魔法みたいだね」
「それより、エルヴィールさん。どうしたの? こんな時間じゃまだ早いじゃない?」
「あ、いや。今日から、ミリヤム様の授業も担当されるっていうからさ。景気づけにいいものを食事に出そうと思ってさ」
「え。……なんか悪いわ……」
「なんのなんの。性格が変わったっていうけどさ。あのミリヤム様さ。なんかの企みに違いないから。あんたは、ここの屋敷には珍しい良識があるんだ。……おいそれとやめてほしくはないからね」
ふふ。オルガは少し噴き出した。
「エルヴィールさんは心配性ね。簡単にやめたりなんかしないわよ」
「そうかい。それなら安心だけど。まあ、いいわ。もうすぐ来れるかい。食事セッティングしちゃうけれど」
「そうね。着替えを済ませたらすぐに行くわ」
エルヴィールとオルガは、同じように笑顔で頭を下げた。
*
朝食を終えたオルガは、マリアンネの居間のドアをノックした。
マリアンネ=メセトラーム侯爵令嬢付きの侍女ブノウト=デュヴェルジェがオルガを出迎えた。
「いらっしゃい。オルガ先生。おはようございます」
勉強机についていたマリアンネが、ペンを置き立ち上がり、一礼をする。
ソファに座っていたミリヤム=メセトラーム侯爵第二子令嬢も同様にした。
オルガとミリヤムは、回帰してからの初対面だ。
以前のミリヤムであれば顔を見せただけで、そこら中にあるものが飛んできていた。
そのため、ミリヤムに対し身構えるオルガに、ミリヤムはほんの少し苦笑する。
(なにもされない?)
「オルガ先生。昨日お話したのですが、今日から、ミリヤムも授業に参加したいというの。よろしいかしら」
侯爵令嬢からの正式な依頼である。否も応もない、のだ。
「かしこまりました。ですが、お二人には、お受けいただく授業にかなりの差があるかと存じます。お時間をお分けしてお受けいただくということでよろしいでしょうか」
「ええ。」
「もちろんだわ」
二人の令嬢は、同意した。
「それでは、先に、マリアンネ様の授業を執り行いまして、それから、ミリヤム様の居室での……ミリヤム様、お部屋にお伺いしての授業とさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか」
「そうね。お願いしたいわ」
オルガは、過去のミリヤムの部屋の惨状を知っているだけに一旦躊躇したが、当のミリヤムの落ち着いた様子に覚悟を決めたようだ。
マリアンネの壁に作り付けられている本棚には、カヴァネスであるオルガ専用の教材となる書籍が置いてあるが、その書籍の数冊を緊張しながらミリヤムに手渡した。
「ミリヤム様。恐れ入りますが、マリアンネ様の授業の間、自習をなさっていただくことはできますでしょうか」
「ええ、でも、このご本は?」
「マリアンネ様も過去にお使いであった書籍となります。まずは、文字を覚えていただきたいと存じます。……左様でございますね。まずはこの書籍の文字を紙でなぞって書く練習をお願いできますでしょうか」
「わかったわ」
ミリヤムは素直にうなずいた。その素直さにオルガは目を白黒させた。
「ふふっ」
ミリヤムの変わりようにいやというほど驚いてきたマリアンネが、思わず笑みをこぼした。
「オルガ先生。もう、そんなにおびえなくても、ミリヤムは乱暴を働いたりしないわ」
「……左様でございますか」
信用できないといった風情でミリヤムを盗み見る。
「オルガ先生。マリアンネ。そろそろ自室に戻るわね。オルガ先生、後ほどどうぞよろしくお願いいたします」
「あ、はい。かしこまりました」
その慌てるオルガに、マリアンネはまたふきだした。
*
オルガが予想した通り、昼前には土砂降りだった雨がすっかりやんでしまった。
昼食をとったオルガは昼の鐘一つを聞きながら、ミリヤムの部屋の前に立った。
そして、どうしたものかと逡巡を繰り返した。
暫く経ったころ。部屋の中からミリヤム付のメイド、アレイダ=ゼンデンの声がした。
「オルガ先生、遅くありません? 体調でも崩されたのでしょうか」
「そうね。……。たぶん、待っていたら、きっと来るわ」
「それにしても、遅くありませんか? ちょっと見てまいります」
アレイダが、そういって居室のドアを開くと、困った顔でたたずむオルガの姿が見えた。
「……遅くなって、申し訳ございません──」
部屋の奥で、ミリヤムが何か言おうとした瞬間、やはり何かが飛んでくるかとオルガは身構えた。
「オルガ先生。申し出を受けてくれて本当にありがとう。あと、もう、オルガ先生やどんな人にも危害は加えないと約束するわ」
「……、かしこまりました。こちらこそ改めてよろしくお願いいたします」
オルガは意を決し、ミリヤムの居間に足を踏み入れた。
ふわりと切り花と薫り高い紅茶の茶葉の香りが混ざり合う。
見ると窓際には切りたてであろうピンクとオレンジのそれぞれ違う品種のバラがいけられていた。
ソファの後ろのワゴンでは、アレイダが紅茶をゆっくりと淹れ始めている。
「これは、どうされたのですか?」
「ああ、せっかく教えていただくのだから……、いけなかった?」
ピンクとオレンジのバラは、オルガの最も好きな花であり、また、アレイダの淹れてくれている紅茶も最も好む品種であった。
「ミリヤム様……本当に、いかがされたのでしょう」
「いやだわ……、みんなもそんな風に困った顔するのよ。でも、安心して、毒など入れてはいないから。まだ、書き取りが終わっていないの。一旦くつろいでいていただけるとありがたいわ」
「はい……」思いがけない言葉に、混乱していたオルガは、ミリヤムの言う通りソファに座り、アレイダの淹れてくれた紅茶をゆっくりと味わった。
厚かった雲が切れ、細く陽光が天使の梯子を作り出す。
ミリヤムの居室からも、屋敷から東方の草原や森が見える。
しばし、その美しい風景を見つめていると、朝から驚愕していた心が幾分落ち着いてきた。
「は……、私、何を……。申し訳ございません!」
急に自分を取り戻したオルガは、立ち上がった。
「本当に、大変申し訳ございません。ミリヤム様だけにお勉強をしていただいているだなんて」
「いいえ。そこは、気にしなくてよくってよ。それよりも、授業を始めてくださるとありがたいわ」
すっかり恐縮した雰囲気のオルガは、机に向かっているミリヤムの後方から机を眺めた。
まだ大きな文字でゆっくりと羽ペンを動かしているミリヤムの手元を、教育者の目でオルガは見た。
「大変申し訳ございませんが、私以外で文字を教わったということは、ございませんか」
「そうね。ないわね」
オルガは慌てて、マリアンネの部屋にあるような作り付けの本棚を確認する。
先日の部屋改装の前もそのあともその本棚は空っぽであった。
「では、何かご本などもお読みではないと……」
「そうなるわね……」
ミリヤムは恥じ入り、顔を赤らめた。
「まだ、どの文字がなんていうかよくわからないのよ」
「左様でございましたか。大変、申し訳ございませんでした」
「いいえ。いいの。ただ、書き方はこれであっているかしら」
そこには、まだ精度は粗くたどたどしい文字がなんとかならべられていた。
お世辞にもうまいとは言い難い。
「よく、お書きになれましたね。これは、アレイダさんが教えられましたか?」
それを聞いて、アレイダが慌てた。
「いいえ! 滅相もない。私も文字は全く読めません……」
「そうでしたか……、失礼しました」
この時代はまだ、識字率は低いままだった。
アレイダのような使用人が、文字など知る術もないのだ。
(──だとしたら、ミリヤム様は独自の勘のようなものでこれをお書きになったのだ……)
「オルガ先生? いかがされましたか?」
ここ数日で様子がすっかり変わったというミリヤムをオルガはまじまじと見つめた。
「オルガ先生?」
数度のミリヤムの呼びかけで、オルガは目を覚ましたように瞬きを繰り返した。
「……大変失礼をいたしました。このオルガ、必ずミリヤム様をご本が読めるようにさせていただきます」
「ええ。助かるわ。オルガ。そのほかの勉学も同じようにお願いね」
オルガは、明るい顔で笑った。
「ええ、ええ。もちろんでございます!」
それを聞いたミリヤムが、そっと胸をなでおろすと机に向かい羽ペンを持った。
部屋の外では、心配顔だったマリアンネが廊下に差し込む日の光の中、笑顔で自室に帰っていった。




