5 陽光
この場所は、屋敷に勤める者の中でも少数の者しか訪れない場所であった。
陽光がさんさんと降り注いているだろう屋外を思うと、北東に位置し中庭に面したこの部屋には、いつもひんやりと一定の空気が流れているのだ。
暖かい季節だ。
暖炉にも火は入っていない。
ミリヤム=メセトラーム侯爵令嬢は、その居室に入り二度目の身震いをした。
「お母様、お加減はどう?」
ベッドの上には、ただ虚空を見つめるペトロネラ=メセトラーム侯爵夫人が横たわっている。
呼吸するたびに沈む胸あたりを見て、母親の生を実感した。
笑うわけでも言葉を発するわけでもない。眠くなったら眠り、起き上がりもしない。
それでも、ミリヤムにとっては母親だ。
──実際にこの部屋を訪れたのは、母が病を得てから初めてとはなるが。
いや、流行り病に罹患する前の母親の部屋にも入ったことなどない。
だから、実質、初めて入ったことになる。
母ペトロネラが元気だったころの面影が薄れてしまっていたとしても──。
(中庭の風景は、ここからはこんなに美しく見えていたのね……)
ミリヤムは母のベッドに近づき、その冷たい腕をいとおしそうにさすった。
三度ほどさすると心地良いのか、虚空を見つめていた目が閉じた。
「お母様……」
ミリヤムが声をかけると、ふ、とその表情が柔らかくなった。
「ミリヤムが、来ましたよ」
そう声をかけ、ただひたすらにその腕をさする。
しばらく経った頃、小さなノックとともにドアが開いた。
「ミリヤム様! 何をしておいでなのですか?!」
昔から母ペトロネラ付のメイド、コロンブ=フラヴィニーが手一杯の荷物と入ってきて、ベッドサイドにいるミリヤムに対し恐ろしいような表情を浮かべている。
その表情は、今までのミリヤムへの最大の警戒の表情でもあり、フラヴィニーにとっての唯一の主人を守護する心の表れであったろう。
「奥方様にお触れにならないでくださいませ!」
ミリヤムは、その言葉に素直に従い名残惜しそうに母の腕をそっとベッドに戻した。
「ごめんなさい。フラヴィニーが嫌なら、もうしないわ」
しょぼんと肩を落とす今までのミリヤムからは、思いもよらない反応に、フラヴィニーは目を丸くした。
だが、その間もくるくると持ってきた荷物をしまい、ペトロネラの世話を焼いてくれている。
「ありがとう。あなたのおかげで、お母様は快適に過ごせているのね。お話しできないお母様の代わりに、お礼を言わせてね。ありがとう。フラヴィニー」
そういって深く頭を下げるミリヤムにフラヴィニーは驚愕した。
「ど……、いかがされたのですか? ミリヤム様、何かお加減でもお悪いのですか?」
その言い方に、ミリヤムは苦笑する。
「いいえ、違うわ。体調が悪いとかはないの。心配させてごめんなさいね」
「……お医者様を呼びましょうか」
そんなフラヴィニーに、失笑を隠せなかった。
「いいえ、マリアンネにもクレマー先生を呼ばれてしまったけど、私は正常だわ。……いいえ、むしろ、今までが異常だったのね。フラヴィニーにも今までひどい態度をとってしまったわ。本当にごめんなさいね……」
「いいえ! いいえ……、滅相もないことでございます」
「それにしても、お母様は。ずっと、こう、なのね? 回復されたりはしないのね?」
「ええ。クレマー医師様のおっしゃりようによりましたら、この先、以前のように起き上がったりお笑いになることは、全く望むべくもないそうで……」
「──そう、そうなの……」
そこで、ミリヤムの瞳から、美しい雫が零れ落ちた。
「ミリヤム様……」
フラヴィニーは慌てて、ハンカチを手渡した。
「お珍しい……、ミリヤム様もお泣きになるのですね……。あ! 申し訳ありません」
そう言った瞬間、フラヴィニーは自分の頭部を守る仕草をした。
今まで自分がしでかしていたことに弱り切ったようにミリヤムは小さなため息をつく。
「フラヴィニー。本当に今まで、私はあなたにまで、ひどいことをしていたのね……」
何もしてこないミリヤムに腕を下ろしながら、不思議な視線を送る。
「ねえ、フラヴィニー。私、また、お母様の様子を見に来てもいいかしら。もちろん、お母様をこうして献身的に看てくださってる、あなたの指示に従うわ」
瞬間、その今までのミリヤムからは到底聞いたことがない言葉に驚愕し、言葉が出ないフラヴィニーだったが、頭を振って、笑顔を作った。
「ええ、ええ。ミリヤム様、どうぞお越しくださいませ。奥方様も、ほら、ご覧くださいませ。ミリヤム様のことお分かりでいらっしゃいますよ。こんなに柔らかなお顔をされていらっしゃいますもの」
ミリヤムが見ると、ペトロネラは、赤子のような柔らかな笑顔を浮かべていた。
先ほどの虚空を見つめる無表情な顔とは全く違っている。
「お母様……」
その笑顔は、ミリヤムの人生で初めて見る美しさだった。
*
「ミリヤム。お義母様に会いに行ったって本当?」
ミリヤムの異母姉であるマリアンネ=メセトラーム侯爵令嬢が、驚愕の表情のまま聞いてくる。
居間のソファにまで陽光が届き、持っているティーカップの中の紅茶にそれが揺らいでいる。
「ええ、本当よ。マリアンネも紅茶いかが?」
「いただくわ……、それよりも、どういう風の吹き回しなの。本当に、あなたが、あなたみたいなのが改心したとでもいうの?」
小さなため息をついた。紅茶の香り高い湯気が、そのため息に揺らぐ。
マリアンネの前に、淹れたての紅茶が、静かに置かれた。
「なんといわれても、仕方がないわ」
「今までの所業については、お父様に裁いてもらうのがいいかもしれないわね」
「お父様は、まだ、戦地でしょ?」
「ええ。でも、再来週にはお戻りのようよ。先ほど、お手紙が来たわ」
「だとしたら、ヴェンデリンも一緒なの?」
マリアンネの頬がバラ色に染まる。婚約者であるヴェンデリン=ボルケスティン伯爵令息が、シーウェルト=メセトラーム侯爵とともに戻ってくるのだという。
西の隣国ブルサスコとの戦争が、ようやく終わるとのことらしい。
「和平を結ぶということなのかしら」
ミリヤムが首をかしげるが、同様にマリアンネも同じような思案顔だ。
「そこのところは、わたくしにもわからないわ。お父様がよくおわかりだと思うの」
「帰ってきたら、お尋ねしましょうね」
「それよりも! ミリヤム、あなた、お義母様にひどいことなさってはいないでしょうね」
「しないわ。けれども、マリアンネ。あなたも、お母様には会いに行ってはいなかったのね……」
マリアンネは、痛いところを衝かれたという風情で、自身の右膝を睨んだ。
「ごめんなさい。違うの……、あなたとお母様の関係を責めているのではないの。お母様がひどい態度をとっていたのには、間違いはないもの」
マリアンネの顔が苦痛にゆがんだ。
ミリヤムは、ティーカップをテーブルに置いてマリアンネを正面から見つめる。
「いままで、私を含めて、お母様もずっとマリアンネを傷つけてきた。それは、紛れもない事実だわ。本当にごめんなさい。どうか、許して、なんて絶対に言わないけれど。心から、本当に謝罪するわ。今まで、私たちが傷つけてきて申し訳なかった。ごめんなさい」
マリアンネは、止められないほどの涙をこぼしていた。
その胸中には、生まれた時からの心の傷があふれ出ていた。
実の父親からも本当の意味で愛されることがなく、継母からは疎まれ、異母妹からは、暴力まで振るわれていた自分。
それらが瞬間的に心の奥底からあふれ出ていた。
「そんなの、そんな言葉だけで、許せるなんてあるわけないでしょ!」
「そうね。わかってる」
「あなたなんて、嫌いだし、一生憎み続けるわ。決まっているでしょ」
「そうね……」
「私、お義母様があのご病気になって、今みたいに動けなくなって、本当にせいせいしているのよ。いい気味だと思っているわ」
「……。そう思っていても、仕方ないわね」
「そうでしょ! 当たり前よね!」
堰を切ったように、今までの悲しみがマリアンネから溢れ、壊れるほどに泣き続けた。
ミリヤムは、その背中に触れることもせず、マリアンネを見つめていた。
雲が何度か影を作り、陽光がまた燦々と降り注いだ頃。
ようやくマリアンネが、顔を上げた。
「マリアンネ。大丈夫……?」
「ええ……。少し、頭が痛いけれど……」
「泣きすぎると、痛くなるわよね」
「へえ、ミリヤムも泣くことあったんだ」
「それはそうよ。ちょっと、目的は、違ったけれど」
ミリヤムが苦笑するのを見たマリアンネは、いたずらっぽく笑う。
「ちょっと、その、目的って……。知りたいような、知りたくないような」
ミリヤムは眉を寄せて、笑った。
「もう、私には必要のない企みだわ」
その笑顔を見て、マリアンネは腑に落ちたように、一瞬、ため息をついた。
「本当に、今までのミリヤムとは、今のあなたは違うのね」
「ええ。信じてもらえるわけはないけれど」
「うん。まだちょっと、信じられてはいないけれど。でも、わかったわ。私、マリアンネは、これからのミリヤムを信じる。……誓うわ」
ミリヤムは面食らったような表情を浮かべた。
「どうして? マリアンネ」
「こんな仲だったけど、二人きりの姉妹よ。それ以上の理由がいるかしら?」
その笑顔は、降り注ぐ陽光を浴びて天使のように輝いていた。




