3 回帰
見渡す限りの草原にそよと風が吹いている。
騎乗していた馬は、だいぶん遠くまで行ってしまった。
砂利道の埃っぽさが、鼻先をくすぐった。
その時、完全に止まっていた息を吹き返す。
ミリヤム=メセトラームは、目を開ける。
痛む首を撫でながら、体を起こす。
乗馬用のドレスに血が流れた跡がついていた。
「私……どうしたのかしら……」
「ミリヤム様!」
早駆けをしてきたミリヤムよりも三十分ほど遅れて、ミリヤム付きメイドのアレイダ=ゼンデンが、慌ててミリヤムに駆け寄ってくる。
「どうされたのですか? 大丈夫でしょうか? ひっ」
アレイダがミリヤムの流れた血に気がついた。
顔をぬぐったミリヤムの手に、乾ききっていない血がつく。
「アレイダ……頭と首が痛いわ」
おそらく落馬をしたのだろう。
打ち所が悪く、死んだのかもしれない。
ならば、今、生きているのは誰だ。
「ミリヤム様……! 人を呼びに行ってきます! どうかそのままで!」
「いいわ。大丈夫。それより、馬は?」
ミリヤムが、振り返ると、走り去っていった馬が来た道を戻ってきた。
「オーレア……」
オーレアと呼ばれた馬は、申し訳なさげにミリヤムに鼻先を押し付けた。
ミリヤムは、ほっと息をついた。
なにしろ今いるところからは、屋敷に戻るには5ディグル(5km)ほど離れている。
馬がいなければ、どうにもならない距離だ。
「オーレア、戻ってくれてありがとう……」
アレイダが怪訝な表情でミリヤムを見つめた。
どこか、今までのミリヤムと違うものを感じたのだ。
「ミリヤム様……、大丈夫でしょうか? 痛みはございますか?」
「ええ。大丈夫よ。心配かけてごめんなさい」
普段のミリヤムならここで罵詈雑言が戻ってくる。
だが、そのミリヤムからありえないことに、アレイダを気遣うような言葉が返ってきた。
「誰……?」
「アレイダ……、私は、ミリヤムよ」
「いいえ……、違うわ。本当のミリヤム様なら、そんな風には絶対に言わない……」
だが、ここにいるのは、ミリヤム=メセトラーム侯爵令嬢その人である。
ただ。──落馬するまでの彼女は、もういない。
今いるのは、十二歳で処刑にて命を落としたミリヤムだ。
……どうして、今、ここにいるのか説明してほしいのは、ミリヤム自身だ。
こうして、太陽の暖かさを感じ、風のそよぎを感じている。
血潮の動き、喉の渇き、鼻腔を通る呼吸。
「……どうして、私が生きているの」
答えは、返ってはこなかった。
*
「ただいま、帰宅いたしました」
「……ミリヤム……、血がついているわ。頭を打ったのね?」
居間でミリヤムを出迎えたのは、異母姉のマリアンネ=メセトラーム侯爵令嬢だ。
今までの異母妹のミリヤムとの違いに、すぐに気がついたが、言葉にはできなかった。
「そうね……、落馬を、してしまったみたい……」
マリアンネは二重の意味で目を丸くした。
今までの異母妹のふるまいではなかったからだ。
「……あなた、本当にひどい頭の打ち方をしたようね。お医者様を呼びましょう」
「いいえ。そこまでは必要ないわ。怪我は、痛まないもの」
「でも……、今までのミリヤムとは全然違うわ……」
「そうね。私にも、訳が分からないの……。ただ……」
「ただ……?」
「私に今できることは、今までマリアンネ、あなたにずいぶんひどいことをしてきたこと、それを謝ることだけだわ」
ミリヤムは、深々と頭を下げた。
「私が間違っていたわ。本当にごめんなさい。今までひどいことばかりをしてきた。謝罪なんかで許されるわけがないけれど。本当に申し訳なかった。許してなんて、言えるわけがないけれど……」
マリアンネは、驚きのあまり立ち上がった。
床に編みかけのレースが転がった。
「セルマ! そこにいる?」
マリアンネは、声を上げた。
マリアンネ付きのメイド、セルマ=ルオナヴァーラが急いでやってきた。
「ミリヤムが、おかしいわ。すぐにお医者様を呼んでちょうだい」
*
すぐにお抱えの医師ヨッヘム=クレマーがやってきて、怪我の治療と合わせて、全体的なミリヤムの状態を事細かく調べ上げた。
「クレマー様。ミリヤムはひどい状況なのでしょうか……」
クレマー医師も診察の途中に従順に診察をさせてくれるミリヤムに目を丸くしていた。
今までのミリヤムであれば、治療のためというのに指一本触れさせることすらしてくれないどころか、ひどい言葉を投げつけるだけではなく、医療用品の入ったトレイまで投げつけてくるありさまだった。
それが、打って変わって丁寧な受け答えをするかと思えば、「私のために来ていただいて申し訳ございません」と気遣う。
「マリアンネ様……あれは……、失礼。あの方は、本当にミリヤム様なのでしょうか……」
「は? どういうことですの?」
「いえ。幼いころから診させていただいておりますので、ミリヤム様ご本人だとわかります。ですが……」
そこで、クレマー医師は一息ついた。
「お怪我は、問題ございません。頭部と頸部、つまり首ですね。若干の痛みがあるようではございます。そして、意識についても問題はございません。どこをどう見ても、ミリヤム様ご本人であると、ご診察いたしました。ただ……」
マリアンネ様も困ったように首をひねる。
「あの、ミリヤム様は、本当にご本人様なのですか?」
*
部屋に戻り、アレイダや他のメイドの手を借り、湯あみを済ませ衣服を整えると、だいぶ心が落ち着いてきた。
落ち着いているようにふるまっているけれど、本当に説明をしてほしいのは、ミリヤム自身だ。
今は王国暦325年だという。
であるならば、ミリヤムは九歳ということになる。
磔刑に掛けられ処刑された、あの痛みは忘れることがどうにもできなさそうだ。
だが、肌を見てもその傷跡はなかった。
どういうことなのか。
覚えている自分は、十二歳で異母姉マリアンネとその夫となったヴェンデリンを刺殺し、その咎を受け処刑された。
今ではどこかの墓の中に埋葬されているはずである。
「本当にどういうことなの……」
それだけではない。
自分が自分ではないようだ。
なにしろ、過去、誰に対しても罵詈雑言を浴びせ、嘘をつき、実際に傷をつけ
手を上げてきた、そんな自分だ。
その過去のすべてを悔い改めている。
あの、マリアンネへの謝罪は、紛れもなく、心からの本音であった。
「それにしても、325年か……」
この年、西の隣国ブルサスコが、初夏、この国グリュックスブルグ王国に宣戦布告をした件で戦争状態に入っているはずだ。
そのせいで、父シーウェルト=メセトラーム侯爵とマリアンネの婚約者であるヴェンデリン=ボルケスティン伯爵令息が戦線に出ているはずである。
「お父様には、当分お会いできないのね……」
それ自体が良いことか悪いことか今のミリヤムには、わからないことだった。
*
翌日。
マリアンネとダイニングルームで顔を合わせた。
「おはよう。ミリヤム。よく眠れた?」
過剰に気遣うような雰囲気が言葉の端々に伝わってきて、ミリヤムは思わず苦笑してしまう。
「ええ。マリアンネ。ありがとう。マリアンネも眠れた?」
その言葉にマリアンネはびくっと肩を震わせた。
「それが……」
「ああ、ごめんなさいね。今までの私じゃないみたいだから、眠れるわけがないわよね」
「そうじゃない、けれど……」
「いいの。気味が悪くなって当然だもの」
「ねえ……、何か、企んでいることでもあるの?」
意を決して、といった風情でマリアンネは声を上げた。
説明ができるのであれば、ミリヤム自身も誰かに説明を求めたいところではあるのだ。
「以前の私なら、そう捉えられても仕方のないことだけれど。今の私は違うのよ。信じてもらえないとはわかってはいるけれど」
マリアンネはそう話すミリヤムの顔をまじまじと見た。
ミリヤムは、マリアンネの瞳を正面から受け止める。
先に目を逸らしたのは、マリアンネだ。
「ごめんなさい。今のミリヤムを信じることは、できないわ……」
「ええ。そうね。私自身、こうして、またマリアンネとここにいることが本当に信じられないもの」
「え……、どういうこと?」
マリアンネはその真意が分からず、きょとんとした瞳でミリヤムを見つめた。
ミリヤムがあいまいな微笑みを返したところ、従僕たちがテーブルに着く二人の前に朝食を運んできた。
尤も、ミリヤムの前に料理を置いた従僕は、慎重に慎重を重ね、本当に恐る恐るといった風情ではあったが。
ミリヤムは、苦笑いで従僕に声をかける。
「もう、私に対してそんなにおびえなくていいのよ」
そっと皿を置いた従僕は、逃げるようにして身を引いた。
「何か粗相がありましたでしょうか」
執事であるグーアハルト=ケンネルが慌てた様子で飛び込んできた。
グーアハルトの目にも不審だという光が宿っている。
「いいえ。そうではないの。グーアハルトもいつもありがとう。今までひどいことばかりで本当にごめんなさい」
従僕たちも一様に目を見開いて、これから天変地異でも起こるのではないかとお互いを見ておびえるように窓の外を見た。
その様子を目の端で盗み見たミリヤムは困った顔をしたが、品よく食事を始めた。
そのマナーは、前日の朝とは違う、完璧なマナーであった。
それを目撃した全員が、目を見張り嘆息を漏らした。




