11 濃霧の中
シャイナーの貴族専用ホテル、ローテンベルガーの館前には深緑の重厚感のある年季の入った馬車が止まっていた。
「ねえ、見て。アレイダ。あの馬車、少し古いけど素敵ね。格好がいいわ」
メセトラーム侯爵家の紋章が描かれた鉄紺の車体の馬車から、薄い金の髪の少女がその馬車を見つめていた。
やがて、その馬車がホテル正面に止まり、少女が下りてくると、ホテルの中から数名の男性が出てきた。
その中には立派な体躯の、ミリヤムと同じくらいの薄い金髪の男性がいた。
彼は、まっすぐにミリヤムに向かうとそっとひざまずいた。
「恐れ入りますが、メセトラーム侯爵家ご令嬢ミリヤム様でいらっしゃいますか?」
「ええ、そうよ。あなたは?」
「わたくしは、伯爵をしております、アンドレアス=ヴァウテルスと申します」
ミリヤムは、礼にのっとった叔父に驚きを隠せなかった。
「アンドレアス様……。私の叔父様でいらっしゃいますね。どうか、お立ちください。礼を尽くすべきは、私の方でございましょう」
「いいえ……」
アンドレアスは、言葉少なに再度一礼をした。
「はるばる、ようお越しいただきましてありがとうございます」
立ち上がると、まだ背の小さなミリヤムとどうしても視線は合わない。
アンドレアスは、そのままの姿勢でいることにしたようだ。
「ご息女様の使者のお向かいはすでにうかがっております。明日、本宅までご一緒いたします。どうぞ今夜はごゆるりとおくつろぎください」
「ありがとうございます、叔父様」
ミリヤムは、アンドレアスに見送られながら、ローテンベルガーの館に入った。
山荘のように装飾はしているけれど、その実、宝石のような高価な装飾品がさりげなく置かれていたり、質の良い布製品が廊下に置かれたソファにかけられていたりと旅路の途中に寄るには心がほぐれるような演出がされていた。
「アレイダ。ここは、本当に素敵な宿ね。おとといの保養所もよかったけれど」
ミリヤム付メイドであるアレイダ=ゼンデンが、ベッドメイクの調整をしながら、微笑んだ。
「左様でございますね。これほど立派な宿とは」
「恐れ入ります、わたくし、ヴァウテルス家執事のフーベルトゥス=オイゲンと申す者でございます。ミリヤム様はおいででしょうか」
数回のノックの後、そんな声が聞こえてきた。
アレイダが即座に動く。
「失礼ですが、どのようなご用件でいらっしゃいますか」
「はい、恐れ入ります。当家当主のアンドレアス=ヴァウテルスがご挨拶に上がりたいとのことでございます」
侯爵家の婚約前の女性への訪問だ。夕方、まだ早い時間ではあるが、万が一醜聞などが広まったら大事だ。念には念を入れよということだろう。
「ええ。わかったわ」
ミリヤムが承諾すると、アレイダがドアを開いた。
「ミリヤム様。本日は、本当に遠路はるばるお越しいただきまして、ありがとうございます」
客間のソファに行儀よく座るミリヤムに、礼を述べ終わったアンドレアスが、はっとした表情を浮かべた。
「どうなさったの?」
「いえ。そうおくつろぎのご様子が、あなたのお母様ペトロネラ様にとてもよく似ていらしたので……」
「お母様に……」
「はい。わたくしの妹でもありました、ペトロネラですが、家族でよく遠乗りをしていた時、この宿で一泊することがあったのです。そして、まさに、この一室で、今まさにあなた様のように微笑んでいらっしゃった。瞼を閉じると、昨日のことのように感じられます」
「そう……だったの」
「ええ……」
アンドレアスは、懐かしむように微笑んだ。
「ミリヤム様、何かご不自由はございませんか?」
「いいえ。十分にしていただいているわ……。ただ……」
「ただ? やはり、何かございましたでしょうか」
「いいえ? それは大丈夫なのだけど、叔父様?」
「はい」
アンドレアスは、首を傾げた。
「かしこまった口調を改めていただけるかしら。もちろん。おじいさまがいらしたりした場合は、難しいでしょうけれど」
アンドレアスは、相好を崩した。
「いいのかい? 結構、あのまま続けるのは大変だったんだ」
その柔らかな口調とイントネーションに、亡き母ペトロネラをふと、思い出したミリヤムは、涙をぼろぼろとこぼした。
「どうした? やっぱり、何かしただろうか」
「いいえ。違うのです。お母様を、思い出してしまって……」
亡くなった時から葬儀の時ですらも一滴も流れなかった涙が、ここにきて落ちるとは……。
ミリヤムは、混乱した。
「失礼……」
アンドレアスがミリヤムに近づき、その肩を抱きしめた。
「気が張っていたんだね。ここなら、泣いてもいいんだよ」
そうして笑うアンドレアスに母の面影が重なった。
「ふぇ……、お母様……」
暫くの間、子供らしく泣くミリヤムの嗚咽が部屋中を満たした。
*
朝食を済ませた一行は、馬車の列を作り一路ウルブリヒのヴァウテルス家を目指した。
この日は深い霧の中だった。
もう二十ディグルにも満たない距離だ。午後にはたどり着けるだろう。
ミリヤムの目には、泣いたことがわかるほどの腫れがはっきりとあった。
「ミリヤム様、お目をお冷やしいたしますか?」
アレイダが心配そうに冷えたおしぼりを差し出した。
「ありがとう。アレイダ。心配、かけてしまったわね」
「いいえ」
(ミリヤム様は、お強いお方ではないのだわ。やはり、少女でいらっしゃるのだ。私も、ミリヤム様をお支えできるよう、しっかりしないと)
アレイダは、伸びあがって馬車の窓から、霧の立ち込める風景を見ているミリヤムをまぶしそうに見た。
「やはりクッションをお持ちいたしますか?」
「いいわ。大丈夫」と、ミリヤムは笑う。
しばらく後、順調に進んでいた馬車列が、急に止まった。
「どうしたの?」
御者は困ったように眉を寄せたが、霧が深く先が見えないらしい。
そうして、時間が無意味に過ぎたころ、一騎の早馬が馬車列の横を通り過ぎようとした。
「あんた!どうなさったね!」
「お、これは、ヴァウテルス家の! いやさ、この先で三台の馬車同士の事故でさ!」
「なんですって!」
その知らせを聞いたアンドレアスは、その霧の中、執事フーベルトゥスとともにミリヤムの馬車を訪れた。
「というわけで、しばらく、ここから動けないみたいなんだ。すまないね、せっかく来てもらっているのに」
「いいえ。先ほどもチラリと小耳に挟みましたが、怪我人が出ているらしいですわね……」
「ああ、どうも観光馬車を利用していた家族と辻馬車に乗っていた家族の子供たちが危ないという話だね。まあ、医者でもない私たちには、何もできないよ……」
「叔父様。お願いがあるのです。私をその事故の現場に連れて行ってはいただけないでしょうか」
「え? それは、あまりにも危険じゃないか?」
「ええ……わかってはいます……。それでも、どうか、私をお連れください」
何回かの問答の末、アンドレアスは数人の従者とミリヤム、アレイダを連れて事故現場に乗り込んだ。
そこには、辻馬車の後続に乗っていたこの地域に故郷を持つプロタグニスタ騎士団の騎士ベルノルト=フロイデンタールとヴィリ=グルムバッハがおり、負傷者の救助と事故の見分などを人々とともに行っていた。
そこに現れたのは、高価そうなドレスを着た背の小さな少女だ。
一様に目を丸くした。
「恐れ入りますが、負傷者の方はこれだけですの?」
立派な騎士服に身を包んだ自分たちに臆することもなく少女が尋ねてくる。
二人は、目を白黒させた。
「いいや、まだ、動ける者たちは、こちらに集まってもらっている。それ以外の者は……」
彼らが指し示した場所には、もう、事切れようとする子供たちが土の上に転がっていた。
二歳から七歳くらいの五人の子供たちだ。
頭部から血を流すもの、怪我はないように見えても、どうしてか倒れてしまった子供……。様々だった。
「ひぃっ……」アレイダは、震え上がってその場で立ち尽くした。
つい、と。ミリヤムがその子供たちのそばに足を進めた。
「お嬢さん。何をしてるの、危ないよ」騎士ヴィリがミリヤムを制しようとしたが、お構いなしに足を運び、一番幼い子供の前、土の上に跪き、祈った。
その時、ミリヤムを中心に風が起こった。その風に乗って、立ち込めていたような濃霧がすっかりと晴れた。
「なんだ? 何が起こっている?」
それを眺めている皆が目を丸くした。
暫くすると、ミリヤムの身体から金の光が溢れてくる。
その光はほんのりとした炎のように揺らいでいく。
「こ、これは、なんだ?」
アンドレアスが、驚愕の声を上げた。
二歳の女児の裂けていた頭の傷が、もうそこに傷があったかどうかわからないくらい薄くなり、完全に治っていた。
「あぁーん。ママー」
女児は、息を吹き返した!
ミリヤムは、続いて、その横に横たわる少年のために祈る。
彼の傷もすぐに治り、何が起こったのかわからないとでもいうように、胡座をかいてその場に座った。
最後の一人。
ミリヤムの祈りの炎が揺らぎ、たどたどしいような光となったが、その時、幼い声がミリヤムの耳朵に届いた。
「お姉ちゃん、がんばれ!」
ミリヤムは笑顔を深くして、自身の力を振り絞った。
最後の一人は、貧しい衣服の少女であった。
彼女は、きつく閉じていた目を突如として開いて、大きく吐息をついた。
「私……、生きてる?」
歓声が事故現場を包む。
その歓声が上がるのに合わせてか、ミリヤムがどうっと土の上に倒れた。
アレイダが叫ぶ。
「ミリヤム様!」
(ごめんなさい。アレイダ……、また、心配かけてしまったわ……)
そのあと、ミリヤムの意識は、深淵に落ちていった。




