10 旅路
馬車の窓が雨でけぶっている。
「この樹海峠を越えたら、宿に入りますよ。もうしばらくのご辛抱を」
ミリヤム=メセトラーム侯爵第二令嬢は、そっとあくびをかみ殺した。
「ええ。大丈夫よ。ありがとう、アレイダ」
そばに寄り添うのは、ミリヤム付きのメイドのアレイダ=ゼンデンだ。
ミリヤムのヴァウテルス家への来訪の旅について聞いたとき、周囲は清々したような空気が流れたが、アレイダだけがほんの少しばかりの抵抗を示した。
「まあ、確かに、今のミリヤム様なら何の心配もなさそうだけど、ちょっと前のミリヤム様に戻らないっていう保証はないしね」
メセトラーム侯爵家メイド長のエルヴィール=ラビューは、アレイダに労いのお茶を淹れてくれながら、微笑んだ。
「ええ。以前のミリヤム様だったら間違いなく無理です」
「そうね。だけど。あのくらいの御子って、その子なりの成長速度っていうのがあるしね」
「メイド長のところのお子さんもそうでしたか?」
「そうね。ここの仕事が忙しかったから家に戻ることが結構少なかったしね。会うたびに背も伸びてるし、態度も性格も違っててね。すこぉしだけ楽しかったわ」
「へえー」昔を懐かしむエルヴィールをアレイダはうらやましそうに眺めた。
アレイダはまだ19歳と若いが、このままミリヤム付きのメイドを続けていくのならば結婚や子育ては難しいだろう。
「でも、私にはミリヤム様がいますしね」
「ミリヤム様だって、いつかはご結婚なさるんだから、心配しなくたって大丈夫さ」
「そうでしょうか……」
「私だって、適齢期はとうに過ぎてたわ。でも、それでもいいと嫁にもらってくれる家があったからね」
「そうなんですか」
「そうさ。まだまだ、心配するもんじゃないよ。あら、お茶冷めちゃったね」
エルヴィールは、冷めたお茶を入れ替えてくれた。
その時の様子を、思い出すとアレイダの心はそっとほぐれた。
「どうしたの?アレイダ」
少しばかり広い川面が宿の窓から滔々と流れているのが見える。
川沿いの盆地の平野に集落が作られていた。そこに、貴族専用の高級ホテルがたてられていた。
「いいえ。大丈夫ですわ。ご心配おかけしてすみません」
「そうなの? それならいいけれど。こうして屋敷を離れるの初めてだから、頼りにしているのよ。アレイダ。そういえば、アレイダは、こうした旅はしたことあって?」
「いいえ。私も屋敷のあります、ガジェゴスの出身ですから」
「あら、ごめんなさい。そうだったわね」
「もしかして、ミリヤム様。私の素性をご存じだったのですか?」
「えと、ちょっとだけ人に頼んで、調べてもらったの。弟さんのことも気になったし」
「弟のことまで……」
「ごめんなさい。いやよね。勝手に調べるなんてひどいことをしたわ」
アレイダは、首を横に振った。
「いいえ。違うんです。ミリヤム様が私なんかのことを気にかけてくださるなんて、思いもしなかったので」
「だって。アレイダは、私の一番そばにいてくれているから、信じたいし、もし、困っている事情があるなら、それを解消したいと思うじゃない」
ミリヤムは、困ったように唇を尖らせた。
「それに、弟さん、ラミロさんだっけ、身体弱いっていうのを知ってしまって……。本当にごめんなさい」
「ラミロのことまで、ご存じなんですね」
「で、こうしてアレイダを連れ出してしまったけど、ラミロさんのことは安心していいわ。クレマー先生に月一回になると思うけど、診てもらえるように手配しているから」
先日もヨッヘム=クレマー医師がアレイダの弟、ラミロ=ゼンデンのもとに往診に行ったという報告がミリヤムの耳に届いたばかりだ。
「安心してとは、言えないかもしれないけれど。多少は、侯爵令嬢の力を信じてくれると嬉しいわ」
*
翌日も馬車の旅は続く。
雨はやんだが、雨の後の道は泥を跳ねあげる。
馬車の中もそう楽ではない。一応は街道に石畳は敷かれているが、そのために馬車自体が跳ね上がってしまうのはいかんともしがたい。
この日は一〇ディグル先のオチョアの町で一泊し、その後翌日朝早くからガリンド峠を通ることになっている。
「ねえ、アレイダ。ガリンド峠って素敵なところなのかしら」
「そうですねえ。穀倉地帯であるトレンメル地方の平野が見られるそうですから」
「平野ってみたことがないの。どんな風景なのかしら」
「そうですね。私もとても楽しみです。ガリンド峠自体も風景が美しいようですよ」
「そうなの? とても楽しみね」
「とはいえ、山道です。さ、今日はお早めにお休みください」
ミリヤムは、アレイダのいうことを素直に聞いた。
ベッドの中に潜り込んで、小さな顔を覗かせる。
「アレイダ。おやすみなさい」
「おやすみなさいませ。よい夢をご覧ください」
アレイダの微笑みを見ながら、まだほんの少女であるミリヤムは眠りについた。
*
翌日はよく晴れた。
ガリンド峠の頂上でいったん休憩だ。
少しの平地には、休憩所ともいうべきティーサロンが営業していた。
二階に上がると広めのバルコニーがあり、そこにも客席が作られていた。
ミリヤムは、初めて見る山の自然のすごさを体感し、深い呼吸を繰り返す。
「ミリヤム様。いかがされました?」
「ああ、アレイダ。こうして胸の深くまで呼吸をしたら、すごく気持ちがいいのね。初めて知ったわ」
「左様でございますか?」
その隣で幾重にも連なる山の空気ごとアレイダも深呼吸を繰り返した。
「本当でございますね。この深い山の中だからでしょうか、空気のおいしさを初めて感じました」
「本当に、こんな景色があるのね」
「お嬢様方。本日は、はるばるお越しいただきありがとうございます」
モーニングを着た男性が、ミリヤムに向かって一礼した。
「ようこそ。この峠を過ぎましたら、トレンメル地方となります。お嬢様方は初めてのご来訪でございましょうか?」
男性は、このティーサロンを経営していると名乗った。
「ええ。このように広いとは思ったことがありませんでしたわ」
「左様でございましたか。正面に見える風景は山また山ですが、こちら右手をご覧ください。この後方は大規模な畑作が行われている平野に繋がっております。また、平野の向こうは大海原でございます」
「おおうなばら……。海ね! 海は、まだ見たことがないの! あなたは海に行ったことがあるのかしら」
「左様でございますね。残念ながら、若い頃に一度だけ。ただ、その広さは、この平野以上でございました」
「あら。そうなの……、アレイダ。いつかは私も海を見てみたいわ」
「ええ。ミリヤム様なら、きっとどこまでもお越しになれると思いますわ」
「あら、アレイダ。あなたも一緒に行くのよ」
アレイダは、嬉しそうに微笑んだ。
*
それから、一つ鐘を待たず、馬車は、次の宿にたどり着いた。
峠の小さなザウアーという町の保養所だ。
数日滞在しても物足りないほどの遊興施設が、その保養所には棟を違えていくつも存在しているようだ。
中には、この保養所を目当てにして旅をしに来る者もいると峠のティーサロンの主が言っていたのを、ミリヤムはその光景を目の当たりにして、そっと頷いた。
小さな楽団が楽しげにワルツを奏でている建物があるかと思えば、品の良い紳士淑女たちが賭け事に興じている建物。
クアハウスとでもいうべき、湯気が多く立ち込めるような建物などもあった。
「アレイダ……。こんなところがあるのね……」
「ミリヤム様……。私もこんな光景、見たことがありません……」
「すごいわ……。ティーサロンの方もおっしゃっていたけれど、これだけ楽しげな施設が多いのだったら、確かに、ここを目掛けた旅というのもいいのかもしれないわね」
アレイダもあっけに取られたような生返事を繰り返した。
「本当に……」
やがて馬車は宿泊棟にたどり着いた。
「遠くから、ようこそお越しくださいました。メセトラーム侯爵第二令嬢ミリヤム様」
見ると四十代くらいの茶色の髪をしっかりと結い上げた一見すると慎ましやかだが、素材がしっかりと豪華であるドレスに身を包んだ女性が深々と礼をとっている。
馬車から下りたミリヤムとアレイダは、しっとりと一礼を返す。
「恐れ入ります。本日は、お世話になりますわ」
「ええ。存じております。チェックアウトは、明日とお伺いをしておりますが、延長のご予定などはございますでしょうか」
ミリヤムは、少し、困ったように微笑んだ。
「ええ。祖父の家に参りますの」
「左様でございましたか。では、本日のみのご宿泊でよろしいでしょうか?」
「そうね。よろしくお願いするわ」
「かしこまりました。案内は、アンナ」
柱の陰から、お仕着せの衣装を身にまとった女性が現れ、深々と一礼をした。
「この者がお部屋までご案内いたします。……では。ごゆるりとお寛ぎくださいませ」
「ええ、ありがとう」
女性は、ミリヤムたちが階段を上りきるまで、そのまま深々と一礼した姿勢を変えずにいた。
部屋は4階の特別室があてがわれていた。
すでに、荷物が搬入されている。
「恐れ入ります。こちらのお部屋をご用意させていただきました。いかがでしょうか」
山の中。先ほどの細い通路の両脇にある建物群がやはり楽し気に見える。
そのあと、部屋の内部をざっと見まわしたミリヤムが、アンナに向けて口角をあげた。
「ええ。ありがとう。素敵な部屋だわ」
アンナは、ほっとした顔をして、一礼し辞去した。
翌日には、このガリンド峠を完全に下りて、シェルテルの町でもう一泊することになる。
そして──、シャイナーの町ではヴァウテルス家よりの迎えがあるという。
「初めて、おじいさまにお会いできるのね……」
ミリヤムは、そっと目を閉じた。




