第30話 帰ってきた者たち
「世界を奪い返すために」
クロードの姿をした男が、黄金の契約書を開いた。
その瞬間、白い世界に並んでいた無数の影が動き出す。
王。
英雄。
魔物。
そして、歴史から消された管理局の執行官たち。
彼らは音もなく亀裂へ近づき、王城の地下へ入ろうとしていた。
「止まりなさい!」
アリアが契約書を掲げる。
【対象――世界の外側に存在する者たち】
【侵入を禁止する】
黄金の文字が空中へ浮かび、亀裂の前に巨大な壁を作り出した。
だが、クロードが指を鳴らしただけで壁は粉々に砕け散った。
「あなたの契約は、ここでは効きません」
「どうして?」
「ここは運命の存在しない場所だからです」
クロードの白い瞳が、冷たくアリアを見つめる。
「運命がなければ、買い取ることも、書き換えることもできない」
アリアは唇を噛んだ。
これまで彼女を支えてきた力が、初めて完全に無効化されている。
レオンが剣を抜き、亀裂の前へ立つ。
「お前が本当にクロードなら、なぜアリアを傷つける?」
「クロードという人間は消えました」
男は感情のない声で答えた。
「今の私は、外側の管理者です」
「管理者……?」
アルベルトの顔色が変わる。
「まさか、外側にも管理局が存在するのか?」
「管理局ではありません」
クロードは背後の影たちへ視線を向けた。
「ここにいる者たちは、あなたたちに奪われたのです」
戦争を止めるために消された王。
英雄を生み出すため、悪役にされた騎士。
世界の均衡を守るという理由で、存在そのものを奪われた人々。
彼らは死んだのではない。
世界から追放され、この白い場所へ捨てられていた。
「数百年分の怒りと記憶が、私の中に流れ込んできました」
クロードの声がわずかに震える。
「彼らはずっと待っていた」
「自分たちを消した世界へ戻る日を」
影の中から一人の少女が前へ出た。
幼い顔には、黒い亀裂が走っている。
「私は、英雄が生き残るために死ぬ運命を与えられた」
次に老いた王が口を開く。
「私は、戦争を始める悪王として歴史を作り替えられた」
「俺たちにだって、生きる未来があった!」
無数の声が重なり、地下全体が震える。
アリアは何も言い返せなかった。
彼らの怒りは正しい。
管理局は世界を守るためという理由で、数え切れない人生を犠牲にしてきた。
だが、彼ら全員を世界へ戻せば、現在の歴史は崩壊する。
死んだはずの王が戻り、滅びた国が復活し、過去と現在が混ざり合う。
世界は確実に混乱する。
「あなたは彼らを戻したいの?」
アリアが尋ねる。
「はい」
「世界が壊れても?」
クロードは一瞬だけ沈黙した。
「この世界は、彼らを犠牲にして作られた偽物です」
その言葉がアリアの胸へ突き刺さる。
「なら、壊れて当然だと?」
「奪われた者たちには、奪い返す権利があります」
クロードが黄金の契約書へ手を置く。
【外側の住人を、世界へ再登録します】
亀裂がさらに広がった。
地下だけではない。
王都の空。
遠くの山。
海の上。
世界中に同じ白い亀裂が現れていく。
「まずい!」
アルベルトが叫ぶ。
「すべての外側が同時に開けば、現在の世界が過去に上書きされる!」
レオンがクロードへ斬りかかる。
しかし刃が届く前に、見えない力で壁へ叩きつけられた。
「邪魔をしないでください」
「クロード!」
アリアが叫ぶ。
その名に、男の動きが止まった。
ほんの一瞬。
白い瞳の奥に、かつての彼の光が戻る。
「アリア……様」
しかし、背後の影から黒い手が伸び、クロードの身体へ絡みついた。
「迷うな」
「お前は我々の器だ」
「世界を取り戻せ」
数千の声が彼の頭の中へ流れ込む。
クロードは頭を押さえ、苦しそうに膝をついた。
「黙れ……!」
アリアは亀裂へ踏み込もうとする。
だがアルベルトが腕を掴んだ。
「行けば、お前も外側に取り込まれる!」
「それでも、クロードを置いていけない」
「彼を救えば、外側の者たちも世界へ戻る!」
「なら、全員を救う方法を探すわ」
「そんな方法はない!」
その瞬間、アリアの銀色の鍵が強く輝いた。
鍵の表面に、新たな文字が浮かび上がる。
【選択してください】
【現在の世界を存続させる】
【外側の世界を復元する】
二つの未来。
どちらかを選べば、もう一方は完全に消滅する。
現在の世界には、レオンや家族、王都の人々がいる。
外側には、クロードと奪われた無数の命がいる。
クロードは白い世界の中から、苦しそうにアリアを見つめた。
「私を……選ばないでください」
その言葉とは裏腹に、彼の手はアリアへ伸びていた。
銀色の鍵が二つに割れ、それぞれ別の扉へ変わる。
【選択まで――三十秒】
そしてアリアの背後で、レオンの声が響いた。
「アリア」
振り返ると、彼の胸に消えたはずの黒い紋章が浮かんでいる。
「俺の中に、まだオルディスがいる」
レオンの片目が漆黒に染まった。
『選べ、アリア』
オルディスが彼の口で笑う。
『どちらを選んでも、お前は大切なものを失う』
二つの世界。
二人の大切な存在。
そして残された時間は、二十秒。
アリアは銀の鍵を握りしめ、静かに目を閉じた。




