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『悪役令嬢は破滅の運命を買い取り、世界を支配する  作者: 谷本遥叶


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第29話 存在しない従者


「クロードという人間は、最初から存在しなかった」


契約書に残された一文を、アリアは何度も読み返した。


文字は消えない。


書き換えようとしても、契約書は沈黙したままだった。


「クロード……」


名前を口にするたび、胸の奥が鋭く痛む。


けれど、思い出せない。


顔も、声も、どれほど長くそばにいたのかも。


ただ、彼が自分にとって何より大切な存在だったという感覚だけが残っていた。


「その名前を、どこで知った?」


レオンが不思議そうに尋ねる。


彼の身体からオルディスの気配は消え、漆黒だった瞳も元の色へ戻っていた。


「分からないわ」


アリアは銀色の鍵を握りしめる。


「でも、この人は私を助けるために、自分の存在を差し出した」


アルベルトが契約書へ手を伸ばす。


「存在を代償にした契約は、記録も記憶もすべて消す。本人を知る手がかりは残らないはずだ」


「なら、この鍵は何?」


アリアが掌を開く。


古びた銀の鍵には、確かに文字が刻まれている。


――運命の外側で待っています。


それを見た瞬間、アルベルトの表情が変わった。


「その鍵を捨てろ」


「理由を説明して」


「世界の外側は、生者が行く場所ではない」


彼は低い声で告げた。


「運命から消された者、歴史に存在しない者、世界に拒絶されたものが漂う領域だ」


「クロードはそこにいるのね」


「存在しているとは限らない」


「それでも行くわ」


アリアは迷わなかった。


自分を救うためにすべてを失った者を、見捨てる選択など最初から存在しない。


「入口はどこ?」


アルベルトは答えなかった。


その沈黙を見て、アリアは契約書を開く。


【検索対象――銀色の鍵】


【対応する扉――存在しません】


「扉がない?」


契約書の表示に、レオンが眉をひそめる。


「鍵があるのに、開ける扉がないのか?」


「いいえ」


アリアは王都を見渡した。


崩れた建物。


傷ついた人々。


オルディスとの戦いによって、世界は大きく変わった。


その中で、一つだけ不自然な場所がある。


王城の地下。


始まりの災厄が封じられていた空間だ。


「あの封印は、世界の内側に存在していたものではない」


アリアが呟く。


「世界の外側から何かを閉じ込めるための境界だった」


アルベルトの顔が青ざめた。


「なぜ、それを……」


「あなたの反応で確信したわ」


アリアは歩き出す。


レオンとイリスも後を追った。


王城地下の最深部。


そこには、黒く焼け焦げた巨大な魔法陣が残っていた。


中心には、鍵穴だけが浮かんでいる。


扉も壁もない。


空間そのものに開いた鍵穴だった。


「これを開けば、何が起こる?」


レオンが問う。


アルベルトは苦しそうに答える。


「世界の外側と内側がつながる」


「なら、クロードを連れ戻せる」


「それだけではない!」


アルベルトの声が地下に響く。


「外側には、この世界から消された存在が無数にいる。扉を開けば、奴らも戻ってくる!」


アリアの手が止まった。


世界から消された存在。


その中には、管理局が処分した危険な者もいるだろう。


鍵を使えば、クロードだけでなく、何が侵入するか分からない。


「それでも開けるの?」


レオンが静かに尋ねる。


アリアは銀の鍵を見つめた。


記憶のない相手のために、世界を危険へさらす。


管理者としてなら、許されない選択だ。


だが今のアリアは、もう世界の支配者ではない。


自分の未来を、自分で選ぶ一人の人間だった。


「開けるわ」


鍵を差し込む。


カチリ、と小さな音が響いた。


次の瞬間、地下全体が激しく揺れ、空間に巨大な亀裂が走る。


亀裂の奥には、星も大地もない真っ白な世界が広がっていた。


その中央に、一人の男が立っている。


黒い執事服。


傷だらけの身体。


顔は見えない。


それでもアリアの胸は強く締めつけられた。


「クロード……?」


男がゆっくりと顔を上げる。


しかし、その瞳は人間のものではなかった。


真っ白な瞳で、彼はアリアを見つめる。


「その名前で、私を呼ばないでください」


冷たい声だった。


男の背後に、数え切れないほどの影が現れる。


王、英雄、魔物、そして管理局の執行官たち。


世界から消された者たちが、一斉に亀裂へ向かって歩き出す。


「私たちは、あなたを待っていました」


クロードの姿をした男が微笑む。


「世界を奪い返すために」


そして彼の手には、アリアと同じ黄金の契約書が握られていた。

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