第28話 世界になる者
第28話 世界になる者
【個人としてのアリア消滅まで――六十秒】
数字が減り始めた瞬間、アリアの意識へ無数の人生が流れ込んできた。
生まれたばかりの子供の泣き声。
戦場で仲間を失った兵士の絶望。
愛する者と結ばれた喜び。
裏切られた怒り。
世界中に存在する人々の記憶と感情が、濁流のように彼女を飲み込んでいく。
『これが、世界……。』
自分の声すら、どこから聞こえているのか分からない。
身体はない。
手も、足も、心臓もない。
今のアリアは風であり、大地であり、海であり、人々の中にある運命そのものだった。
『耐えられるはずがない。』
オルディスの声が世界中に響く。
『一人の人間が、数十億の苦痛を受け止められるものか。』
【残り五十秒】
オルディスはレオンの身体を操り、黄金の玉座から立ち上がった。
その顔には再び余裕が戻っている。
『お前は間もなく自我を失う。』
『そうなれば、空になった世界を私が取り戻すだけだ。』
王都では、魂を抜かれたクロードが倒れていた。
その周囲には、民衆の身体が人形のように立ち尽くしている。
アリアは世界とつながったことで、そのすべてを感じ取っていた。
クロードの身体が冷えていくことも。
レオンの魂が、オルディスの奥で抵抗していることも。
そして、買い取った人々の魂が、契約書の中で彼女を呼んでいることも。
『アリア様。』
聞こえるはずのない声。
クロードだった。
彼の魂は肉体を離れ、黄金の光の中に浮かんでいる。
『あなたは一人ではありません。』
「でも、このままでは私は消える。」
『ならば、私たちに分けてください。』
「何を?」
『世界の重さを。』
その言葉と同時に、買い取った魂たちが次々と輝き始めた。
兵士。
商人。
貴族。
平民。
年齢も身分も違う人々が、アリアへ手を伸ばす。
『あなた一人に守られるだけでは、解放されたとは言えない。』
『自分たちの運命は、自分たちでも背負わせてくれ。』
【残り三十五秒】
アリアは理解した。
世界を支配する者になろうとしたから、自分一人へすべてが集まった。
ならば、支配しなければいい。
「世界の所有権を、分割する。」
『何だと?』
オルディスの声が揺れる。
アリアは世界中の空へ、巨大な契約書を広げた。
【取引対象――世界の運命】
【所有者――世界に生きるすべての者】
【契約条件――自らの未来を選ぶ権利】
黄金の文字が、一人一人の魂へ刻まれていく。
『やめろ!』
オルディスが叫び、世界を覆う黒い糸を伸ばす。
だが糸に触れた人々の魂は、次々とそれを引きちぎった。
これまで運命を決められていた者たちが、初めて自分の意思で未来を選んだのだ。
【残り二十秒】
オルディスの身体が崩れ始める。
『私がいなければ、世界は争いで滅びる!』
「争わない世界を押しつけるために、誰かを犠牲にする方が間違っている。」
『人間は愚かだ!』
「ええ、愚かよ。」
アリアの声が穏やかになる。
「だから失敗して、選び直すの。」
黒い糸がすべて消え、レオンの漆黒の瞳に光が戻った。
「アリア……。」
しかし、消滅までの数字は止まっていない。
【残り十秒】
世界の重さは分けられた。
それでも、世界と同化したアリアの魂は戻れない。
クロードが叫ぶ。
『アリア様! 戻ってください!』
「もう無理よ。」
『あなたは、運命を買い取るのでしょう!』
その言葉に、アリアは沈黙した。
自分の運命は買えない。
それは最初から変わらない絶対の規則だった。
【残り五秒】
その時、黒く焼け焦げた契約書が王都の地面から浮かび上がる。
最後のページに、見覚えのない署名が現れた。
【契約者――クロード】
【取引対象――アリアが消滅する未来】
【買い取り価格――クロードの存在】
「やめなさい!」
初めて、アリアが取り乱した。
だがクロードの魂は、静かに微笑んでいた。
『今度こそ、あなたを守らせてください。』
【契約成立】
数字がゼロになる。
世界を白い光が包んだ。
光が消えた時、王都の石畳には一人の少女が倒れていた。
金色の髪。
黒いドレス。
アリアだった。
彼女はゆっくりと目を開く。
「クロード……?」
しかし、その場に彼の姿はない。
それどころか、誰一人として彼の名前を覚えていなかった。
契約書の最後には、ただ一行だけ残されていた。
【クロードという人間は、最初から存在しなかった】
アリアの頬を、理由の分からない涙が静かに流れ落ちた。




