第16話 奪われた名前
第16話 奪われた名前
契約書の表紙から、アリアの名前が消えていく。
一文字ずつ、黒い染みへ飲み込まれるように。
「何をしているの……?」
アリアが契約書を閉じようとしても、指が動かない。
まるで身体の所有権まで奪われたようだった。
黒い扉の奥から伸びた白い手は、アルベルトの肩を掴んだまま離さない。
『返して。』
少女の声が、再び響く。
『その身体も、その力も、全部私のものだから。』
「ふざけないで。」
アリアは歯を食いしばる。
「これは私の身体よ。」
『違うよ。』
少女は楽しそうに笑った。
『アリア・フォン・ルミナスは、十年前に死んでいるもの。』
その一言に、世界が止まった。
「……何ですって?」
セレスティアの顔から血の気が引く。
アルベルトは苦しそうに視線を逸らした。
その反応を見て、アリアは悟った。
二人とも、何かを知っている。
「説明して。」
誰も答えない。
「お父様!」
アリアの怒声に、アルベルトはゆっくりと口を開いた。
「十年前、お前は一度死んだ。」
幼いアリアは、管理局が起こした事故に巻き込まれた。
肉体は残った。
だが、魂だけが消滅した。
「私はお前を失いたくなかった。」
アルベルトは震える声で続ける。
「だから、禁じられた契約を使った。」
「空になったお前の身体へ、別の魂を入れたのだ。」
アリアの胸が強く痛んだ。
自分は転生者だ。
前世の記憶を持っている。
ずっと、偶然この世界へ転生したのだと思っていた。
だが違った。
自分は呼び出された。
死んだ令嬢の身体を満たすために。
『分かった?』
扉の奥から少女が姿を現す。
白い髪。
赤い瞳。
そして――アリアと同じ顔。
『私は本物のアリア。』
少女が一歩踏み出すたび、契約書の文字が書き換わる。
【所有者――アリア・フォン・ルミナス】
【偽装魂――排除開始】
アリアの身体が透明になっていく。
指先から光の粒となり、崩れ始めた。
「アリア!」
クロードが駆け寄ろうとする。
しかし黄金の壁に阻まれ、近づけない。
「嫌だ……!」
彼は拳から血が出るほど壁を殴った。
「あなたが何者でも関係ない!」
「私が仕えてきたのは、今ここにいるあなたです!」
その声が、消えかけたアリアの意識へ届く。
レオンも叫ぶ。
「勝手に消えるな!」
「俺の運命を変えた責任を取れ!」
アリアは小さく笑った。
名前も、身体も偽物かもしれない。
それでも、彼らと過ごした時間まで偽物ではない。
「そうね。」
アリアは消えかけた手で契約書を掴んだ。
「本物かどうかを決めるのは、過去じゃない。」
「今を生きてきた私よ。」
契約書が激しく震える。
少女の笑顔が消えた。
『やめて。』
「私の運命を、私が買い取る。」
【取引対象――アリア・フォン・ルミナス】
【買い取り価格――二つの魂】
その文字を見たセレスティアが叫ぶ。
「駄目よ!」
「その契約が成立すれば、どちらか一人しか残れない!」
少女は初めて恐怖を見せた。
『待って!』
だがアリアは迷わず署名した。
黄金の光が二人を包む。
そして契約書の最後に、残酷な条件が浮かび上がった。
【勝者決定方法――記憶の奪い合い】
次の瞬間、アリアの目の前から、クロードの顔が消えた。
「……あなたは、誰?」
その言葉に、クロードの表情が凍りついた。




