一本の電話
移住体験が終わって数日後
七月下旬の午後だった
雨実村役場の窓の外では
蝉が盛んに鳴いている
ふるさと振興課では菫が移住体験の
アンケート集計を行っていた
「予想より評価が高いですね」
向かいの席で新田が資料を見ている
「川遊びと交流会の満足度が特に高いです」
「良かったです」
菫は少し肩の力を抜いた
準備は大変だったが
やって良かったと思える結果だった
その時 ふるさと振興課の内線電話が鳴った
「新田課長 村長室までお願いします」
珍しい呼び出しだった
「何でしょうね?」
新田は立ち上がった
「すぐ戻ります」
そう言って課を出ていく
しかし 三十分後
戻ってきた新田の表情は少しだけ違っていた
「どうかしました?」
菫が尋ねる
新田は周囲を確認してから小さく答えた
「後で 村長室まで来てもらえますか」
「え?」
「話があります」
その声はいつもより少し低く慎重だった
午後三時
菫は村長室の扉を叩いた
「失礼します」
部屋には古川村長と新田がいた
机の上に冷茶が三つ並んでいる
村長はいつもの穏やかな表情だったが
どこか考え込んでいるようにも見えた
「座ってくれ」
菫は椅子に腰を下ろした
少し沈黙が流れる
やがて古川が口を開いた
「県から電話があった」
県!?
菫は思わず新田を見る
「地域振興課です」
新田が補足する
「広域行政に関する研究会を
立ち上げたいそうです」
「研究会?」
「はい」
古川が頷いた
「まだ合併の話しではない」
そこで一度言葉を切る
「だが将来的に
地域運営について考える場だそうだ」
蝉の声だけが聞こえていた
菫は何となく胸騒ぎを覚えた
「参加自治体は?」
新田が答える
「瀬河市」
一つ
「雨実村」
二つ
「そして青月村です」
菫は黙った
青月村 人口約三百人
山を越えた先にある小さな村
買い物も 通院も 高校への進学も
多くを瀬河市に頼っている
近年は人口減少も著しかった
「青月村も参加するんですか?」
「そのようです」
新田は静かに答えた
「県としては 将来的な行政サービス維持を
考える為研究会だと説明しています」
言葉は穏やかだった
だが
部屋にいる三人とも解っていた
こうした話が出る時
その先に何があるのかを
「村長はどう思われますか」
菫は尋ねた
古川は窓の外を見た
夏空の向こうの山並みが見える
その先には雨実村の集落が広がっている
「分からん」
珍しく即答だった
「まだ 何も分からんよ」
そして続ける
「ただな」
古川はゆっくり振り返った
「話を聞かないという
選択肢は無いと思っている」
新田も静かに頷く
「私もそう思います」
菫は手元の資料へ目を落とした
数時間前まで見ていた
移住体験のアンケート
自然が素晴らしい
子育て環境が魅力的
また来たい
そんな言葉が並んでいる
雨実村にはまだ可能性がある
そう信じている
だが同時に
将来への不安が消えたわけでもない
蝉の声が窓の外から聞こえていた
夏はまだ始まったばかりだった
しかしその日
雨実村の未来を巡る新しい物語もまた
静かに動き始めていた




