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夏の訪問者

夏休み最初の日曜日

朝七時過ぎ

小川菫はいつもより一時間速く

役場へ出勤した

空は雲一つない青空だった

役場前の駐車場には

既に新田の姿が見えた


この役場前の駐車場には 自販機が無い 

役場前だし バス停前でもあるから

一台ぐらいあってもいいのに

そんな事を新田は思っていた


「おはようございます」

「おはようございます」

新田は水筒からお茶をだして

一口飲んでいた

「緊張しますか?」

図星だった

「少しだけ」

「私もです」

二人は苦笑いする

今回の移住体験には四家族が参加する

大人八名 子供五名

人数としては多くない

だが受け入れる側としては

十分な規模だった


菫は参加者名簿を確認した

大阪市の会社員夫婦

堺市の共働き夫婦

広島市の家族

岡山市の夫婦

其々の事情は違う

だが共通しているのは

「今の暮らし以外の可能性をみてみたい」

という事だった


午前九時過ぎ

一台目の車が役場前へ入ってきた

「来ましたね」

菫は小さく息を吐いた

無事に到着した

それだけで少し肩の力が抜ける

続いて二台 さらに一台

全員到着した

「皆さん おはようございます」

菫は笑顔であいさつした

「本日は雨実村移住体験にご参加いただき

ありがとうございます」

参加者たちは少し緊張した様子で頷く

車体面同士が多い

当然だった

その中に小学三年生くらいの男の子がいた

「あっ!」

突然声を上げる

「どうしたの?」

母親が聞く

「トンボ!」

男の子は駐車場わきを指差していた

赤とんぼが飛んでいる

「ほんとだ」

母親はスマートフォンを取り出した

菫は少し驚いた

村では珍しくもない光景だったからだ

だが都会では違うのかもしれない

そんな小さな発見が 少し嬉しかった

最初の予定は道の駅見学だった

道の駅 雨実の里

到着すると奥田が待っていた

「ようこそ雨実村へ」

奥田の穏やかな笑顔に

参加者たちの表情も少し和らぐ

直配所 加工施設

地元野菜売り場 観光案内所

参加者たちは熱心に説明を聞いていた

「平日でもこんなに人が来るんですね」

大阪の男性が驚く

「年間十万人ほど利用されています」

奥田が答えた

「人口より多いんですね」

思わず笑いが起きる


午後

空き家見学

縁側のある古民家

山が見える庭

静かな環境

「すごい……」

岡山から来た女性が呟いた

「映画に出てきそう」

菫は少し誇らしくなった

自分たちには当たり前の景色

だが誰かにとっては憧れなのだ


夕方

旅館で交流夕食会が始まった

田中早苗と美咲が迎える

「今日は沢山召し上がってくださいね」

テーブルには料理が並ぶ

鮎の塩焼き

山菜ごはん

夏野菜の天ぷら

清流豆腐

名水わらび餅

苺のデザート

「美味しい……」

参加者の声が上がる

「鮎を食べたの初めてです」

「川魚ってこんな味なんですね」

会話が弾み始めた

やがて移住者との交流会が始まる

「実際に住んでみてどうですか?」

参加者からの質問が出る

「不便なことはあります」

移住者の一人が笑った

「でも 

その不便さを上回る魅力もあります」

菫はその言葉を聞きながら会場を見渡した

笑顔

会話

料理の香り

誰もが雨実村の事を真剣に知ろうとしている

窓の外では夏の虫が鳴いていいた

移住体験一日目は 穏やかに幕を開けた


雨実村で暮らすとはどういう事か

良いところだけではなく

不便なところも含めて見てもらう

それが 菫のやり方だ



移住体験二日目

朝六時過ぎ

温泉旅館の窓から差し込む朝日で

菫は目を覚ました

昨日の交流会は予想以上に盛り上がった

参加者同士も打ち解け始めている

だが今日が本番だった

今日は観光ではない

暮らしを見てもらう日である


朝食後

一行は村の農園へ向かった

案内役は地元農家の井上だった

「今日は草取りを体験してもらいます」

参加者たちは帽子を被り 軍手を付ける」

「思ったより暑いですね」

大阪から来た男性が苦笑した

「また午前中なんですけどねぇ」

井上は笑う

「夏本番になったらもっと暑いですよ」

畑では小学生たちも一緒に作業を始めた

「これ抜いていいの?」

「それは雑草!」

地元の子供が教える

都会の子供と村の子供が並んで土に

触れている

菫はその様子を見ながら少し安心した

一時間ほどで参加者たちは汗だくになった

「農家さんって毎日これを?」

広島から来た女性が驚く

「そうですね」

井上は笑った

「機械も使いますけど最後は人の手ですよ」

参加者たちは頷いた

農業は自然と触れ合う穏やかな仕事

そんなイメージを持っていた人も

いたかもしれない

だが現実は体力勝負だった

それもまた大切な現実だった


昼前

一行は村を流れる川へ向かった

水は透き通っている

川底の石まで見えた

「うわぁ!」

子供たちが歓声を上げる

あっという間に靴を脱ぎ始めた

「走らないでねー!」

菫が声を掛ける

近くには消防団たちも待機していた

安全確保の為である

「こんにちは」

大阪の父親が消防団い話しかけた

「消防団って大変ですか?」

「大変ですよ」

団員は笑った

「でも地域で暮らすなら必要な仕事です」

「皆さん本業があるんですよね」

「農家もいますし会社員もいます」

参加者は少し驚いた顔をした

都会ではあまり意識しない

仕組みかもしれない

しかし村では違う

誰かが地域を支えなければならない

それも暮らしの一部だった


午後

菫たちは移動スーパーの停車場所へ向かった

ちょうど白い販売車が到着したところだった

「あ 本当に来た」

参加者の一人が呟く

車内には野菜

肉 魚 惣菜 日用品

思った以上に品揃えが良い

「こんにちはー」

近所の高齢女性が歩いてくる

「今日は暑いですね」

販売員が声を掛ける

「ほんまやねぇ」

二人は自然に会話を始めた

参加者たちはその様子をみていた

「買い物だけじゃないんですね」

岡山から来た男性が言う

「そうなんです」

菫が答える

「見守りも兼ねています」

「見守り?」

「来なかったから様子を

見に行くこともあります」

参加者は黙って販売車を見つめた

都会ならただの移動販売車

しかし雨実村では生活を支える仕組みの

一つだった


夕方

公民館で地域住民との交流会が開かれた

参加者と住民が同じテーブルを囲む

農家 旅館関係者 診療所職員

消防団員 道の駅関係者

様々な立場の人が集まっていた

「移住して困った事はありますか?」

参加者から質問が出る

数年前に移住してきた男性が答えた

「車は必要ですね」

会場に笑いが起きる

「でもその代わり人との距離は近いですよ」

別の女性も頷く

「子供の顔を覚えてくれる人が多いです」

その言葉に参加者たちは

真剣に耳を傾けていた

菫は会場の後ろから様子を見守る

盛り上がっている

それだけで十分だった

移住して欲しい 勿論そう思う

だが無理に勧めるつもりはない

良いところも

不便なところも

全部知った上で選んでほしい

それが雨実村で暮らす人たちへの誠実さだと

思っていた

窓の外では夕焼けが山を赤く染めていた


二泊三日の移住体験も残り一日

参加者たちは今夜

其々の部屋で何を考えているのだろうか

菫は静かに窓の外を見た

山の向こう沈む夕日が

明日もまた暑い一日になる事を告げていた

この二日目の終わりで

参加者たちの中に少し変化が生まれている

最初は 田舎暮らしが楽しそう だったが

二日目の終わりには

実際に住むとなるとどうだろう……



移住体験三日目

温泉旅館の食堂には 昨日までより少し

落ち着いた空気が流れていた

参加者たちは顔見知りになり

会話も自然になっている

子供達もすっかり打ち解けていた

「もう帰るんだね」

広島から来た男の子が言う

「また川で遊びたかったな」

大阪の女の子も頷いた

その言葉を聞いていた菫は思わず微笑んだ

楽しんでもらえたなら

それだけでも十分だった


午前中は自由散策の時間だった

家族ごとに村を歩く

道の駅へ向かう人

川沿いを散歩する人

空き家をもう一度見に行く人

菫は役場で待機しながら

時々参加者からの相談に応じていた

「失礼します」

ノックの音がした

入ってきたのは岡山市から参加した

夫婦だった

「何か気になる事でもありましたか?」

菫が尋ねる

「少しお話を聞きたくて」

夫がそう言った

二人は空き家資料を手にしていた

「実際に住むとなると

冬はどれくらい雪が降りますか?」

「年に寄りますが 多い年は積もります」

「やっぱり車は一人一台必要ですか?」

「はい 正直に言うとその方が便利です」

菫は包み隠さず答える

良い事だけを並べても意味がない

暮らしは現実なのだから

夫婦は何度も頷いていた

「ありがとうございます」

「いえ」

「正直に話していただけ安心しました」

その言葉が少し嬉しかった


昼前

公民館で最後のアンケート記入が始まる

参加者たちは三日間を振り返りながら

ペンを走らせていた

新田が集計用紙を整理している

「どうでしたか?」

菫が尋ねた

「皆さん真剣に考えてくれています」

新田は静かに答えた

「それだけでも大きな成果ですね」

菫も頷いた

移住者ゼロで終わる年もある

それでも意味はある

村を知ってもらう

先ずはそこからだった


午後

帰宅の時間が近づく

参加者たちは荷物を車に積み始めていた

「ありがとうございました」

「お世話になりました」

挨拶が交わされる

菫も一人一人を見送った

そして最後

一台のミニバンだけが駐車場に残っていた

大阪市から来た家族だった

父親

母親

小学三年生の息子

他の参加者が帰った後も

なかなか車に乗らない

やがて父親が菫のところへ歩いてきた

「少しだけ よろしいですか」

「もちろんです」

父親はしばらく言葉を探していた

「実は」

一度空を見上げる

「私は大阪で生まれて 大阪で育ちました」

菫は黙って聞く

「だから こういう暮らしをしたことが

ないんです」

遠くで蝉が鳴いていた

「正直 最初は興味本位でした」

父親は少し笑った

「でも三日間過ごしてみて

考え方が変わりました」

その横で息子が役場前の下段を眺めている

「この子が川で遊んでいる姿を見ていたら」

父親は息子を見る

「こんな育ち方もあるんだなと思って」

母親も静かに頷いた

「ただ 仕事の事もあります」

「そうですよね」

「直ぐには決められません」

「はい」

菫は微笑んだ

「三日で決める必要はありません」

父親は少し驚いた顔をした

「え?」

「移住は人生の大きな選択ですから」

「仕事だけが心配なんです」

本音を漏らした

「そうですよね」

「雨実村の中だけで考えると

難しい職種もあります」

父親が頷く

「でも瀬河市まで通勤している方もいますよ」

「そうなんですか?」

「車で四十分ほどですけど」

「意外と近いですね」

「感じ方は人それぞれですが実際に

そういう暮らしをしている人もいます」

菫は続けた

「もしまた来たいと思ったら

何度でも来てください」

「……」

「春でも 秋でも 冬でも」

「ありがとうございます」

父親は深く頭を下げた

その時

「お姉ちゃん!」

息子が駆け寄って来た

「また川で遊びたい!」

菫は思わず笑った

「また来てね」

「うん!」

元気な返事だった


やがてミニバンが走り出す

車は村道をゆっくり下って行った

見えなくなるまで 菫は手を振り続ける

隣に立っていた新田が言った

「どうなりますかね」

菫は少し考えた

「分かりません」

正直な答えだった

移住するかもしれない

しないかもしれない

それは誰にも分からない

だが

「でも」

菫は夏空を見上げた

「雨実村を好きになってくれたなら

それで十分です」

蝉の声が響いている

三日間の移住体験は終わった

けれど今日蒔かれた種の中には

いつか芽を出すものが有るかもしれない

小川菫は静かに役場へ向かって歩きだした

雨実村の夏は

まだ始まったばかりだった

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