ホタルの夜
六月中旬
雨実村には初夏が訪れていた
昼間は汗ばむほどの陽気だったが
日が傾くと山から涼しい風が下りてくる
この季節になるとふるさと振興課は
少しだけ慌ただしくなる
ホタルの季節だからだ
役場のふるさと振興課
お小川菫はパソコンの画面を見ながら
配信機材のチェックをしていた
カメラ
予備バッテリー
モバイル通信機器
配信用パソコン
確認項目を一つずつ消していく
「毎年やっているとは聞いていましたが
本格的ですね」
新田博が感心したように言った
「はい」
菫は頷く
「今年で四年目です」
「続いているんですね」
「最初は視聴者は十数人でしたけどね
最もその半分は 私の妹の友達でした」
菫は少し笑った
「それでも山中さんが続けようって」
山中幸一
前ふるさと振興課職員
現在は海の駅事業の責任者として
別の地域で働いている
ホタルのライブ配信のアイデアは
温泉旅館の女将が持ってきたものだった
そして山中さんと小川さんが
始めた事業だった
予算はほとんどない
派手な企画でもない
それでも
「村を知ってもらうきっかけになればいい」
という重いで続けて来た
「今年は初めて山中さんがいない年なんです」
菫は静かに言った
「そうですか」
「だから少し緊張しています」
そう言いながらも 手は慣れた様子で
機材を整えている
新田は思った
この事業もまた 山中から菫へ受け継がれた
ものなのだろう
その日の午後
温泉旅館
若女将候補の田中美咲はスマートフォンを
見ながら考え込んでいた
三十歳
大阪市内のホテルで勤務した経験を持ち
この春に村へ戻ってきた
「お母さん」
「何?」
帳簿を見ていた女将の早苗が顔を上げる
「今年は旅館をもっと宣伝したい」
早苗は少し首を傾けた
「毎年十分来てくれているでしょう」
「でももっと知ってもらえると思う」
美咲はスマートフォンを見せた
そこには村のライブ配信告知画面が
表示されている
「都会の人って 生のホタルを見た事が
無い人が多いの」
「そういうものなのかしら」
「そういうものなの」
美咲は即答した
「ホタルなんて当たり前だと思っていたけど
当たり前じゃないんだよ」」
早苗は少し考え込む
「宣伝は良いけどね」
「うん」
「来てもらうだけじゃだめよ」
美咲が首を傾ける
「ホタルを見て終わりじゃない」
早苗は窓の外を見た
「温泉もある」
「料理もある」
「村の人もいる」
「また来たいと思ってもらわないと」
美咲は黙った
大阪のホテルで学んだ接客
集客
広告
それとは少し違う考え方だった
夕方
西の空は茜色から群青色へとゆっくり
変わり始めている
川沿いの遊歩道を歩くと水の流れる音が
少しずつ大きくなった
山から吹き下ろす風は
昼間の暑さを忘れさせるほど涼しい
何処からかカジカガエルの鳴き声が
聞こえてくる
若もには夕空が映り込み
流れる水が細かく揺れるたびに
光も揺れた
雨実村では見慣れた風景だった
しかし村の外から来た人が見れば
それだけで十分に特別な景色だ
配信会場となる川辺
清流が流れる
周囲は木々に囲まれている
菫たちは機材の設置を進めていた
そこへ一台の軽トラックが止まる
「お疲れ様です」
降りて来たのは古川一村長だった
「村長」
菫が頭を下げる
「様子を見に来ただけですよ」
古川は穏やかに笑った
「今年も始まりますね」
「はい」
古川は川の流れをみつめる
「最初はずいぶん小さな企画でした」
「そうですね」
菫も笑った
「機材も借り物ばかりでした」
「それでも続けてきました」
「山中さんのおかげです」
古川は静かに頷いた
配信開始まで まだ少し時間があった
菫は機材の最終確認を終え
川沿いの遊歩道をゆっくり歩いていた
辺りは夕闇に包まれ始めている
川の流れは変わらず静かだった
ふと前方に人影が見えた
高校生ぐらいの男女だった
二人並んで歩いている
互いに少し照れたような距離感だ
だが どこか楽しそうでもある
菫は思わず足を止めた
「あら」
見覚えがあった 村の子たちだった
瀬河高校に通う二年生
小学校の頃から知っている
田植え体験にも来ていたし
夏祭りの手伝いもしていた
「そういうお年頃か」
菫は小さく笑った
もちろん声は掛けない
向こうも気づいていないようだった
二人は川辺へ目を向けながら何か
話しをしている
時折笑い声も聞こえた
その様子は何処にでもいる
高校生の姿だった
けれど人口七百六十人の雨実村では
そういう何気ない光景が少しだけ
特別だった
村に子供は多くはない
高校へ進学すると村の外へ出る機会も増える
そのまま帰ってこない人もいる
だからだろうか
菫は二人の後ろ姿を見ながら
少し嬉しい気持ちになった
「仲良くね」
聞こえないほどの小さな声で呟く
やがて二人は川沿いの小道を歩いて行った
その先では
まだ光る前のホタルたちが
草むらに身を潜めている
若い二人の未来がどうなるかは分からない
進学するかもしれない
就職するかもしれない
村を離れるかもしれない
それでも今この瞬間だけは
雨実村の初夏の夕暮れの中に
確かに存在していた
菫は微笑みながら踵を返す
配信開始の時間が近づいていた
川の流れの向こうでは
最初のホタルが
飛び立つ時を静かに待っていた
空が暗くなり始める
ライブ配信開始
画面には夕暮の川が映る
視聴者数が少しづつ増えていく
県外
県庁所在地
大阪
東京
コメントが流れる
「綺麗な場所ですね」
「本当にホタル出るんですか?」
「初めて見ます」
周囲が完全に暗く頃
川辺は不思議な静けさに包まれていた
街灯は殆どない
空を見上げれば無数の星が浮かんでいる
山の稜線は黒い影となって夜空との
境界を描いていた
川の流れだけが絶え間なく続いている
耳を澄ませば水が石に当たる柔らかな音まで
聞こえてくる
人の声は自然と小さくなっていた
まるで誰でもが何かを
持っているようだった
最初の一匹が光った瞬間
その場の空気が変わった
川辺の草むらから淡い黄緑色の光が
ふわりと浮かび上がる
そして二匹
三匹
光は少しずつ増えていった
やがて無数の光が川沿いを漂い始める
急ぐこともなく
競う事もなく
ゆっくりと夜の闇を舞っていた
小さな光が現れる
「出ました」
菫が小さく呟く
光はゆっくりと川辺を漂う
水面に映る光と空中を飛ぶ光が重なり
川そのものが淡く輝いている様にも見える
その光景は派手ではなく
けれど目を離せなくなる美しさがあった
まるで大和川と夜が一緒になって作りだした
一夜限りの灯りだった
やがて数十匹
無数の光が夜の闇に浮かび上がった
視聴者コメントが一気に増える
「すごい」
「本物なんだ」
「行ってみたい」
「子供に見せたい」
その様子を見ながら
美咲は静かに息を吐いた
「やっぱり伝わるんだ」
その横で早苗が言う
「でもね」
「うん」
「本当に良いのは画面じゃ伝わらない」
川の音
風の匂い
温泉の湯気
夜の静けさ
「だから来てもらわないとね」
美咲は笑った
「それはお母さんの勝ちかな」
早苗も笑う
「半分ずつよ」
ホタルの光は川の上流から下流へと
ゆっくり流れていく
その向こうには温泉旅館の灯りが
小さく見えていた
山々は夜の闇に溶け込み
その姿は見えない
だが確かにそこにある
昼間には気づかない静かな存在感が
村全体を包んでいた
古川はその景色を眺めながら思う
この風景は何十年も前から変わらず
ここにあった
そして願わくば何十年先にも
残っていて欲しい
そんな思いが自然と胸に浮かんでいた
ライブ配信終了後
古川村長は川辺に残っていた
ホタルが静かに飛んでいる
「良い夜ですね」
新田が言った
「ええ」
古川は頷く
「村には何もないという人もいます」
暫く沈黙が続く
「ですが」
古川はホタルの光を見つめながら続けた
「残してきたものはあるんです」
その言葉に菫は少しだけ
山中の姿を思い出した
今年はここにいない
けれど
山中が始めた小さな配信は続いている
ホタルの光は静かに流れ続けている
その夜旅館には数件の宿泊問い合わせが入り
役場の移住相談ページへのアクセス数が
大きく伸びた
しかし菫が一番うれしかったん尾は
数字ではなかった
配信終了直後に流れたコメントだった
「いつか雨実村へ行ってみたいです」
菫はパソコンを閉じる
窓の外ではホタルが静かに飛んでいた
小さな光だった
けれど その光は確かに誰かへ届いていた




