四月
四月
朝 雨実村に春の風が吹いていた
役場の前には
まだ少し冷たい空気が残っている
玄関には新しい看板が掲げられていた
『瀬河市役所雨実支所』
これまでとは違う名前
けれど 建物も
そこに働く人たちも
そして窓から見える山々も変わらない
新田はこの日 県庁へ向かう
菫は新しい辞令を手に 支所の入口に立った
「今日からですね」
新田が言う
「はい」
菫は笑った
「頑張ります」
「頼んだよ」
新田はそう言って 少しだけ頭を下げた
やがて一台の車が支所の前を通り過ぎる
その先には
京洛醸造株式会社の工場が見える
道の駅には
すでに朝から買い物客が訪れている
畑では
冬を越したビール麦が春の風に揺れている
そして 村のどこかでは
今日から新しい生活を始める人たちがいる
古川村長はいない
雨実村役場ももうない
それでも
雨実村はそこにあった
山があり 川があり 畑があり 人がいる
四月一日
雨実村にとって 新しい朝が始まった
雨実村には まだ少し冷たい風が残っていた
山の木々には淡い新緑が混じり始め
道端では小さな花が春の光を受けている
立花修司は 自転車のペダルを踏みながら
いつもの道を京洛醸造株式会社の工場へ
向かっていた
今日から 正式な勤務が始まる
高校を卒業してから
まだ何日も経っていない
それでも制服でなく
会社から支給された作業着を着て
自転車に乗っている自分が
少しだけ不思議だった
最初に通ったのは 村崎家の前だった
「乙女……いないな」
思わず声を出しかけた
しかし 家の前に乙女の姿はない
玄関も静かだった
修司は少しだけ笑った
「もう畑かな」
そのままペダルを踏み続ける
少し先へ進むと 畑が見えてきた
そこに 乙女の姿があった
父親と一緒に畑に入り 何かを確認している
冬を越したビール麦の畑だった
修司は自転車の速度を落とした
「乙女!」
声に気づいた乙女が振り向く
「おはよう 修司!」
修司は自転車を止めた
「もう仕事?」
「今日から」
「そっか」
乙女は笑った
「頑張ってね!」
「乙女もな」
「うん」
短い会話だった
けれども それだけで十分だった
修司は再び自転車にまたがる
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい!」
乙女の声を背中に受けながら
修司は走り出した
畑の向こうには 春の山が広がっていた
やがて道の駅が見えてきた
朝の道の駅では
すでに開店準備が始まっている
搬入口では野菜を運ぶ農家の姿があり
店内からは人の声が聞こえてくる
修司はその前を通り過ぎながら
ちらりと建物を見た
ここにも
これから何度も来ることになるだろう
そして その先
雨実村の小中学校が見えてきた
校門の近くには
一台のスクールバスが停まっていた
古川さんだった
少し前まで雨実村長だった古川は
作業服姿でバスの周囲を確認していた
タイヤを見て 車体を確認し 運転席へ回る
修司は自転車を走らせながら
その姿に気づいた
「古川さん……」
古川も修司に気づいた
「おう 立花君」
修司は自転車を止めることなく
少し速度を落とした
「おはようございます」
「今日から仕事だな」
「はい!」
「気を付けて行けよ!」
「古川さんも!」
二人は笑って それぞれの方向へ進んだ
修司の自転車は工場へ向かって走った
古川は 青月村へ
スクールバスのエンジンを静かに始動した
古川はバックミラーを確認し
ゆっくりと学校を出た
雨実村を抜け 山道を走る
青月村へ向かう道には
まだ朝の冷気が残っていた
やがて青月村の集落へ入る
バスが停留所に到着すると
最初の児童が駆け寄ってきた
「おはようございます」
「おはよう」
続いて 小学生 中学生が一人 また一人と
乗り込んでくる
「おはようございます」
「おはよう」
古川は一人一人に声を掛けた
最後の子供が乗り込む
古川は人数を確認する
「よし 全員いるな」
バスの扉が閉まる
青月村の子供たちは それぞれの席についた
窓の外には
慣れ親しんだ青月村の景色が流れていく
やがてバスは山道へ入り
雨実村へ向かって走り始めた
子供達の通う学校は もう青月村にはない
けれど
学ぶ場所がなくなったわけではない
バスの先には 新しい学校がある
そしてその途中には
京洛醸造株式会社の工場がある
道の駅がある
新しく人が暮らし始めた家々がある
古川は前方を見ながら ハンドルを握った
「今日も 安全運転だ」
小さく呟く
バスは春の山道を進んでいく
其々の場所へ向かう人たちの新しい一日が
静かに始まっていた




