其々の春
三月も終わりに近づいていた
雨実村の山々には ところどころ
淡い春色が見え始めていた
役場の窓から差し込む朝の光も
冬とは少し違っている
新田がいつものように机に向かい
合併後の事務引き継ぎに関する資料を
確認していると 電話が鳴った
「はい 雨実村ふるさと振興課 新田です」
相手は県庁の担当者だった
「新田さん お疲れ様です 実は人事の件で
正式にお伝えしておきたいことがありまして」
新田は手を止めた
「はい」
「四月一日付けで
県庁へ復帰していただくことになりました」
暫く 新田は黙っていた
驚きはなかった
合併準備もほぼ終わり
引き継ぎも最終段階に入っている
最初に言われていた出向期間は三年だった
けれど 合併という大きな仕事が
一区切りついた今
自分が戻る時期が来たのだろう
「承知しました」
電話を切った後
新田は椅子に深く座り直した
机の上には
雨実村へ来てから作った資料が
何冊も並んでいる
最初の合併協議
住民説明会
住民投票
京洛醸造株式会社の誘致
三自治体の合併準備
その一つ一つを思い返していると
小川菫が声を掛けた
「新田さん?」
「ああ」
「どうかしました?」
新田は少し笑った
「……四月一日ですか?」
「そう」
「そうですか……」
菫は寂しそうに笑った
「やっぱり 来るものが来たって感じですね」
「俺もそう思う」
新田は窓の外をみた
「でも ここまで来たんだ あとは
個々の人たちがやっていく番だ」
菫は小さく頷いた
「はい」
その夕方
古川村長は 村長室で一人
窓の外を眺めていた
村長として この村の役場に座るのも
あとわずかだった
やがて 新田と菫が村長室へ入ってきた
「失礼します」
「おう」
古川は二人をみて 穏やかに笑った
「とうとう この日が来たな」
新田が答える
「はい」
「寂しいです」
菫が正直に言うと 古川は少し笑った
「俺だって寂しいよ」
窓の外には 役場の建物と
その向こうに広がる山々が見える
「だがな」
古川はゆっくりと話した
「村長がいなくなっても 村はなくならん」
「村役場の名前が変わっても
ここで暮らす人たちの生活は続く」
新田も菫も黙って聞いていた
「それに 若い人たちが残ってくれる」
古川は
京洛醸造株式会社の工場がある方向へ
目を向けた
「小川さん あなたもや」
「新田さんは県庁へ戻る それでいいんだ」
古川は立ち上がった
「人間は ずっと同じ場所にいる必要はない」
「次の人に渡していく それが仕事だ」
その言葉を聞きながら 菫は目を伏せた
三月最後の日
古川は村長として最後の登庁を終えた
職員たちが集まった小さな挨拶の場で
古川はいつものように
大きな声を出すことなく静かに語った
「長い間ありがとう」
「この村は これからも変わっていくだろう
だが 変わってはいけないものもある
人を思いやること
困った時に助けあうこと
この土地を大切にすること
それだけは そうか忘れないでほしい」
最後に深く頭を下げた
拍手が起こる 古川は何度も頷いた
そして一人で役場の玄関へ向かった
振り返る
長い間見慣れてきた役場の建物
「……ありがとうな」
誰にいったのか 自分でもわからなかった
ただ 古川は静かに笑って 役場を後にした




