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菫さんの春

三月中旬

まだ空気には冬の冷たさが残っていたが

山の斜面には少しずつ春の色が

戻り始めていた

小川菫は役場から借りたカメラを助手に置き

まだ薄暗い道を雲見台へ向かっていた

村の春を記録しておきたかった

四月になれば 雨実村は瀬河市の一部になる

村役場という名前も変わる

だからこそ 今の雨実村を写真に

残しておきたかった

雲見台に着いたのは 日の出前だった

車を降りると 冷たい山の風が頬を撫でた

息を吐くと 白い息が小さく流れていく

菫はカメラを取り出し 高台の先へ歩いた

やがて東の空が少しずつ明るくなる

山々の間に 白い雲海が広がっていた

雨実村の集落は その雲の海から

頭を出した山々の間に静かに佇んでいる

菫は息を止めるようにして

シャッターを切った

一枚 もう一枚

ファインダーの中には

何年も見慣れてきた村の景色があった

けれど今日は少し違って見えた

「……綺麗」

誰に聞かせるでもなく 菫は呟いた

それから村へ下り 観光梅林へ向かった

白や淡い紅色の梅が咲き始め

春の風が枝を揺らしている

次に向かったのは 村の龍神の滝だった

水は冬の冷たさを残したまま

岩肌を伝って勢いよく流れている

その音を聞きながら 菫はカメラを構えた

さらに古道へ

苔むした石 木漏れ日 

道端に顔を出した小さな草花

観光客には気付かれないような場所も

菫にとっては雨実村の大切な一部分だった

昼前になると 山道を下りて工場へ向かった

京洛醸造株式会社の工場はほぼ完成していた

新しい建物の外壁が春の光を受けて

輝いている

その前で菫は立ち止まり カメラを構えた

工場だけではない

入口の看板

搬入口

周囲の山々

工場の向こうに見える村の風景

何枚も撮影した

「ここも もう村の風景なんだな……」

以前なら ここには何もなかった

今では 雨実村で働く人たちが集まる場所に

なろうとしている

菫は少しだけ笑った

最後に向かったのは道の駅だった

駐車場には村内外から来た車が並び

店内には春野菜や梅の商品 

地元のお菓子が並んでいる

カメラを首から下げたまま

店内を歩いていると

聞き覚えのある声がした

「小川さん?」

振り返る

そこにいたのは以前の上司だった奥田だった

「奥田さん!」

久しぶりの再会だった

「元気そうだな」

「はい 奥田さんもお元気そうで」

二人は笑いながら 

道の駅の片隅で少し話をした

「いよいよだな」

奥田がそう言った

「四月一日」

菫は頷いた

「はい」

「最初にここへ来た頃は

まさかこんなことになるとは思わなかったよ」

奥田は店内を見渡した

「道の駅もできた 工場まで来た

それに合併か」

菫は少し考えてから答えた

「色々ありましたね」

「本当に」

奥田は笑った

「でも 京洛醸造が来てくれたのは

大きかったな」

「はい」

菫も工場の方向を思い浮かべた

「村に働く場所が一つ増えました」

「若い人が残る理由になる」

奥田は頷いた

「それは大きいよ」

暫く二人は黙って道の駅の店内を眺めた

そこには 村の農家が作った野菜があり

加工品があり 観光客がいて

村で働く人たちがいる

以前とは少し違う風景だった

奥田が言った

「小川さん」

「はい」

「いい村になったな」

菫は少し照れたように笑った

「……まだ これからですよ」

「そうだな」

奥田も笑った

「だから これからも頑張れ」

「はい」

別れ際 菫はもう一度カメラを取り出した

道の駅の外観

春の山

その向こうに見える京洛醸造の工場

そして そこへ向かう人々

シャッターを切る

その日の夕方

菫は役場のパソコンに写真を取り込んだ

雲海 梅林 滝 古道 

工場 道の駅

一枚 一枚 写真を確認していく

最後に 

村のホームページへ新しいページを作った

タイトルを入力する

「春の雨実村ーー新しい季節を迎えて」

少し考えてから 菫は公開ボタンを押した

画面に写真が並ぶ

その中には 

昔から変わらない山の風景もあれば

今年初めて加わった工場の姿もあった

菫は椅子の背にもたれ 

画面を静かに見つめた

雨実村は変わった

けれど 山も川も 梅林も 

古道も残っている

変わったものと 変わらないもの

その両方が この村の今だった

窓の外では 春の風が木々を揺らしていた

菫はカメラを机の上に置いた

そして 小さく呟いた

「……春ですね」

春はもうすぐそこまで来ていた

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