新たな一歩
八月上旬
朝九時
雨実村役場の応接室には
古川村長 新田 菫が席に着いていた
間もなく秘書が扉を開ける
「京洛醸造株式会社の皆さんが
お見えになりました」
入室したのは三人だった
担当者の伏見
営業部長の桂
技術担当の亀岡
そして その後ろから一人の男性が静かに
歩み出る
伏見が紹介した
「本日は弊社を代表してまいりました」
「代表取締役の山科です」
古川村長は立ち上がり 深く一礼した
「本日は遠路ありがとうございます」
名刺交換が終わると 山科が口を開いた
「前回 伏見から現地視察の報告を受け
其の後 桂 亀岡からも
詳しい説明を聞きました」
「社内で検討を重ねた結果
本日は正式なお話をするために参りました」
応接室に静かな緊張が流れる
山科は続けた
「弊社としては 雨実村で
クラフトビール事業を行う可能性について
正式な協議をお願いしたいと考えております」
菫は思わず新田と顔を見合わせた
村長は静かに頷く
「ありがとうございます」
「村としても大変光栄なお話です」
山科は続ける
「ただし 本日は進出を決定する場では
ありません」
「事業性 採算性 地域との連携など
一つ一つ確認しながら進めたいと
考えています」
村長も同じように答えた
「その姿勢に 私どもも賛成です」
「急いで結論を出すことなく
お互いの納得のできる形を
探してまいりましょう」
桂が資料を開く
「弊社から一つご提案があります」
「民間企業単独ではなく
雨実村と共同で第三セクター方式の
可能性も検討したいと考えています」
新田は驚いた表情を見せる
菫も思わず資料へ目を落とした
村長は少し考えてから答える
「ありがとうございます」
「それも一つの可能性として
慎重に検討させていただきます」
その日 四時間に及ぶ最初の協議が始まった
結論は何一つ出なかった
しかし お互いに
「次回も話合いましょう」と
約束を交わした
雨実村と京洛醸造株式会社は
この日正式に未来への第一歩を踏み出した
翌週
住民投票を目前に控えた最後の住民説明会
公民館には多くの村民が集まっていた
合併協議の内容が一通り説明されたあと
新田が演台へ立つ
「最後に 皆様へ一つご報告があります」
会場が静まり返る
菫がスクリーンを操作する
映し出されたのは
『京洛醸造株式会社との協議について』
という文字だった
会場がざわつく
新田は落ち着いた声で説明する
「本村では現在
京都のクラフトビール会社と
雨実村での事業展開について正式な協議を
開始しております」
さらに菫が続ける
「現時点では 工場建設が決定したわけでは
ありません」
「建設場所 事業方式 採算性など
今後時間をかけて検討してまいります」
前列の男性が手を挙げる
「つまり 工場が来る可能性が有ると
いうことですか」
新田は素直に答えた
「はい」
「可能性があります」
「ただし 現段階では正式ではありません」
続けて菫が言葉を添える
「私たちは期待だけをお伝えしたいのでは
ありません」
「現状を正確にお伝えすることが
行政の役割だと考えています」
会場は静まり返った
やがて後方から声が上がる
「もし工場が出来れば 若い人の働く場所も
増えるな」
別の村民が呟く
「税収も増えるかもしれない」
しかし別の席からは慎重な意見も聞こえる
「まだ決まった話じゃない」
「期待しすぎるのは早い」
説明会終了後 公民館の外では
村民同士の話し声があちこちで聞こえた
「企業が来るなら
合併しなくてもいいんじゃないか」
「いや 将来のことは分からない」
「どちらにしても働く場所が増えるのは
ありがたい」
住民たちの心は 一つではなかった
其々が雨実村の未来を思い
自分なりの答えを探し始めていた




