表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/5

春の田圃

五月中旬

雨実村にも田植えの季節がやって来た

役場庁舎の窓から見える山々は

鮮やかな新緑に覆われている

ふるさと振興課では朝から慌ただしい空気が

流れていた

「参加者は全部で二十八人です」

小川菫が手元の資料を確認しながら言った

「去年より多いですね」

新田博は少し驚いた

「はい 田植え体験は毎年人気なんです」

菫は微笑んだ

「子供連れのご家族多いですね」

今回の田植え体験は 

村が毎年行っている交流事業だった

都市部から参加者を募り

実際に田植えを体験してもらう

昼食には地元食材を使った料理も

振る舞われる

その中には移住に興味を

持っている参加者も少なくなかった

「午後は移住説明会でしたね」

「はい」

菫は頷いた

「四組参加予定です」

新田は資料を見る

大阪市 神戸市 県庁所在地

其々事業は違う

だが共通しているのは地方暮らしへの

関心だった

「四組ですか」

「多くはありません」

菫は正直に言った

「でも ゼロじゃありません」

その言葉には不思議な力があった

人口七百六十人の村

それでも興味を持って来てくれる人がいる

それだけで意味がある


午前九時

会場となる棚田には参加者が集まり

始めていた

山の斜面に沿って広がる田んぼ

遠くから水の流れる音が聞こえる

子供たちの歓声も響いていた

「皆さん 本日は雨実村へようこそ」

菫が参加者の前に立つ

マイクは無い

それでもなれた様子で説明を始めた

「今日は田植え体験を通じて雨実村の

自然や暮らしを感じていた抱ければと

思います」

参加者たちが頷く

新田は少し離れた場所から見ていた

堂々としている

初めて会った時の印象より

ずっと頼もしく見えた

「課長も参加してください」

突然 菫が言った

「え?」

「田植えです」

「私は見学でいいのでは」

「ダメです」

即答だった

近くにいた中村駐在まで笑っている

「課長 観念してください」

「中村さん迄」

「毎年役場職員は全員参加です」

菫はそう言って長靴を差し出した


三十分後

新田は田んぼの中にいた

泥が足にまとわりつく 思うように歩けない

「難しいですね」

「最初は皆そうですよ」

菫は慣れた手つきで苗を植えていく

参加者の子供達も泥だらけに

なりながら笑っていた

新田も思わず笑う

県庁の会議室では決して味わえない

時間だった


昼前

作業が終わる頃には全員が

汗だくになっていた

棚田には整然と苗が並んでいる

風が吹く

植えたばかりの苗が小さく揺れた

その光景を見ながら新田は思った

人口七百六十人

資料にはそう書いてあった

しかし目の前にある景色は数字だけでは

表せない

この村には 人がいる

暮らしがある

未来を残そうとする人たちがいる

その中心で動いているのがいるのが

小川菫だった

午後からは移住説明会

新田は田んぼの向こうに広がる山々を

見上げた

今日の仕事はまだ終わらない



田植え体験を終えた参加者たちは

昼食会場となった道の駅の

交流施設へ集まっていた

地元の女性たちが用意した昼食が並ぶ

山菜の天ぷら

炊き込みご飯

味噌汁

漬物

どれも雨実村の日常の味だった

参加者たちの表情も明るい

午前中の田植え体験が好評だったことは

見ていて分かった

しかし 菫の仕事はまだ終わらない

午後からは移住希望者向け説明会が

予定されていた


午後一時

役場の会議室

参加したのは四組だった

大阪市から一組

神戸市から一組

県庁所在地から二組

夫婦だけの世帯もあれば

小さな子供連れの家族もいる

菫は前方のスクリーンに資料を映した

「本日は雨実村の暮らしについて

ご説明します」

参加者たちが資料へ目を向ける

新田は会議室後方の席に座っていた

今回は補足説明役である

「まずは教育環境についてです」

スクリーンに学校の写真が映る

「雨実村には小学校と中学校は統一校です」

菫は続けた

「児童生徒数は多くありません

そのため一人一人に目が届きやすい

環境です」

参加者がメモを取る

「高校へ進学する場合は

多くの生徒が瀬河高校へ進学しています」

次の資料が表示された

「通学には路線バスを利用します」

続いて医療

「村内には雨実村総合診療所があります」

診療所の写真が映る

「内科を中心とした診療を行っています」

菫は一度言葉を切った

そして付け加えた

「ただし専門的な治療や入院が必要な場合は

瀬河市や県庁所在地の病院を

利用することになります」

良い面だけではない

それも正直に伝える

次は交通だった

「村内に鉄道はありません」

資料をみていた参加者が顔を上げる

「主な公共交通機関はバスになります」

運行時刻表が映し出される

「瀬河駅方面への便は有りますが

本数は都市部ほど多くありません」

参加者たちは真剣な表情で確認している

「お車を所有されてる方が多いです」

それも現実だった


続いて道の駅

スクリーンに『雨実の里』の写真が映る

参加者の中には午前中に立ち寄った人もいた

「こちらは二年前に開業した道の駅です」

菫の表情が少し柔らかくなる

「地元農産物の販売や観光案内などを

行っています」

「雇用も生まれているんですね」

参加者の一人が尋ねた

「はい」

菫は頷いた

「大きな人数ではありませんが

地域の働く場の一つになっています」


説明が終わると質疑応答に移った

「冬の積雪はどのくらいですか?」

「買い物は不便ではありませんか?」

「インターネット環境は?」

「子育て支援制度はありますか?」

次々と質問が出る

菫は一つ一つ丁寧に答えていった

分からない部分は新田が補足する

資料を確認しながら 正確な情報を伝える


やがて最後の質問がでた

「移住を考える場合 実際に体験する機会は

ありますか?」

菫は微笑んだ

「あります」

参加者たちが顔を上げる

「毎年 夏休みの始め頃に二泊三日の

移住体験事業を実施しています」

スクリーンに昨年の写真が映る

「実際に村内の住宅へ

宿泊していただきます」

「仕事体験や地域交流もあります」

「暮らしを体験した上で

判断していただければと思います」


説明会が終わったのは午後三時過ぎだった

参加者たちは会場を後にしていく

最後に大阪から来た若い夫婦が菫へ

声を掛けた

「今日はありがとうございました」

「こちらこそありがとうございました」

「移住体験 申し込んでみようと思います」

菫は少し驚いた

だが嬉しそうに微笑む

「お待ちしています」


全員が帰った後

会議室の片づけをしていた新田が言った

「小川主任」

「はい?」

「よい説明会でした」

菫の首を傾ける

「そうでしょうか」

「良い事ばかり言わなかった」

新田は資料を閉じた

「それが良かったと思います」

菫は少し考えた

そして静かに答える

「住んでから後悔して欲しくないんです」

新田は頷いた

その言葉に 

この村への思いが込められている気がした

今日植えた苗も 

きっと風に揺れているだろう

人も村も すぐには育たない

時間がかかる

だからこそ

焦らず向きあることが大切なのだ

新田はそう思いながら

静かに窓の外を見つめていた


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ