役場から
新田博が着任してから一週間ほどが過ぎた
四月の陽気が山里にも広がり始め
役場の窓から見える桜も間もなく咲くだろう
ふるさと振興課の机の上には
分厚いファイルが何冊も並んでいる
新田は一冊のファイルを閉じた
「これが道の駅関係は一通りでしょうか」
向かいに座る奥田課長は苦笑いした
「一通りと言えば一通りです ただ
本当に大事な事は紙には書いてありません」
「と 言いますと?」
「人です」
奥田は即答した
新田は少しだけ目を細めた
奥田は続ける
「補助金の書類は引き継げます
予算書も引き継げます
ですが地域との関係だけは引き継げません」
窓の外へ視線を向けながら話した
「温泉旅館の女将さん 農家の皆さん
移動スーパーの担当者 診療所の先生
皆それぞれ事情があります」
「なるほど」
「まず話を聞いてください」
奥田は穏やかに笑った
「雨実村では それが一番大事です」
新田は静かに頷いた
県庁時代にも似た話は聞いた事がある
だが ここではそれが数字以上の
意味を持つのだろう
奥田は別のファイルを取り出した
「こちらは人口推計です」
新田は目を通した
人口七百六十人
有権者六百三十人
年々減少傾向
数字だけ見れば決して楽観できる
状況ではない
「厳しいですね」
「ええ」
奥田も認めた
「だからこそ
この村は色々考えなければなりません」
暫く沈黙が続いた
やがて新田が口を開いた
「奥田課長は
この村の将来をどうお考えですか」
奥田は少し考えた
そして首を横に振る
「私の考えは
もうあまり重要ではありません」
「そうですか?」
「はい」
奥田は笑った
「これからは新田課長や小川主任たちの
時代ですから」
新田は返事をしなかった
だが その言葉には重みがあった
数年にわたり村を支えてきた人間だからこそ
言える言葉だった
午後
引継ぎを終えた二人は役場を出た
向かった先は道の駅「雨実の里」だった
平日の昼間にもかかわらず
直売所には客の姿がある
地元野菜の売り場では高齢の女性たちが
談笑していた
「よい施設ですね」
新田が言う
「みんなで作った施設ですから」
奥田は少し誇らしそうだった
建物を見上げながら続ける
「退職後は
ここで少し手伝う事になりまして」
「責任者代理でしたか」
「ええ 大層な肩書ですが人手不足ですよ」
二人は笑った
その時だった
売店から小川菫が出て来た
「お二人とも こちらでしたか」
「ちょうど良かった」
奥だが手招きする
菫が近づいてくる
春風が吹き抜けた
奥田は道の駅を見回した
そしてゆっくりと口を開く
「私は今日で課長を終わります」
菫は静かに頷いた
「はい」
「ですが
村からいなくなる訳ではありません」
そう言って道の駅を指差した
「暫くここにいます」
菫の表情が少しだけ和らぐ
奥田は二人の顔を見比べた
県庁から来た新しい課長
そして若い主任
此れから村を支える人たちだった
「頼みますよ」
その言葉に特別な説明はなかった
それでも十分だった
菫は力強く頷いた
「はい」
新田も静かに頭を下げた
奥田は満足そうに笑った
山々の向こうでは
春の雲がゆっくり流れていた
四月下旬
平地では桜の季節が終わりかけていたが
山間部の雨実村ではようやく満開を
迎えていた
村を流れる清流沿いの桜並木には
多くの人が訪れている
地元住民だけでなく
道の駅へ立ち寄った観光客の姿もあった
その朝
ふるさと振興課の電話が鳴った
「はい 雨実村役場ふるさと振興課です」
受話器を取った菫の表情が少し引き締まる
「はい……分かりました 直ぐに確認します」
電話を切る
向かいの席で書類を見ていた
新田課長が顔を上げた
「何かありましたか」
「桜並木の駐車場です」
菫は立ち上がった
「満車になっているそうです」
「平日の朝ですよね?」
「はい」
「そんなに人が?」
新田は少し驚いた
人口七百六十人の村である
そこまで混雑するとは思っていなかった
菫は慣れた様子で頷く
「この時期だけです」
そう言うと内線電話を取った
「中村さん 今大丈夫ですか?」
数秒後
菫は短く状況を説明した
「分かりました お願いします」
電話を切る
新田は興味深そうに見ていた
「駐在さんですか」
「はい」
「連携が早いですね」
「毎年のことですから」
菫は苦笑いした
「最初の年は私も慌てました」
新田は思わず笑う
どうやら今の自分と同じだったらしい
十分後
二人は公用車で桜並木へ向かった
川沿いには淡い桜色が続いている
春の日差しの中
多くの人が写真を撮っていた
臨時駐車場として使われている
空き地には既に車が並んでいる
「これは予想以上ですね」
新田は感心したように言った
その時だった
交通整理をしていた制服姿の男性が
此方へ歩いてくる
中村駐車場だった
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
菫が頭を下げる
中村は周囲を見回した
「今年は人が多いですね」
「何かありましたか?」
菫が尋ねる
「事故やトラブルはありません」
中村は答えた
「ただ 午後には駐車場が足りなくなるかも
しれません」
菫は頷く
「では 旧小学校跡地を開放しましょう」
「助かります」
会話が実に自然だった
新田はその様子を見ていた
誰も慌てていない
大声も出さない
だが 必要な事は次々決まっていく
役場
駐在所
地域
長年の積み重ねがそこにあった
中村が笑いながら言った
「小川主任も慣れたもんですね」
「何年もやっていますから」
「最初の年は顔が真っ青でしたけどね」
「忘れてください」
菫は少し頬を膨らませた
新田は思わず吹きだした
そんな時代もあったのだろう
しかし今の菫は違う
状況をみて判断し 人と連携し
必要な対応を進めている
主任として十分に仕事を熟していた
川の向こうで桜が風に揺れる
花びらが一枚 二枚と舞落ちた
新田はその景色を見上げた
赴任してまだ二週間
分からない事ばかりだった
それでも一つだけ分かってきたことがある
雨実村は数字だけの村ではない
資料には載らない人の繋がりによって
支えられている
そしてその中心に
小川菫という職員がいる
新田は静かに頷いた
先ずは この村を知る事から始めよう
そう思いながら 満開の桜を見上げた




