旅立ちの日
三月の終わり
雨実村役場前の桜は まだまだ蕾にも
ならなかった
朝の空気は冷たく 山から吹く風には
冬の名残が残っている
役場前のバス停には
数人の職員が集まっていた
小川菫は肩から提げた鞄を持ち直しながら
停車しているバスの前に立つ男を
見つめていた
山中幸一
ふるさと振興課で共に働いてきた
頼りになる年上の後輩だった
数年前 此のバス停で初めて出会い迎えた
東京から戻ってきた山中は
道の駅誘致の中心となって走り続けた
住民説明会
補助金申請
設計協議
クラウドファンディング
そして 住民投票
多くの出来事を乗り越え
今では道の駅「雨実の里」は
村の新しい顔になっている
その山中が今日 村を離れる
県南部の瀬戸内側で進められている
海の駅整備事業へ異動だった
「寂しくなりますね」
菫がそう言うと
山中は少し困った様に笑った
「大袈裟ですよ
車で来れば半日もかかりません」
「それでも遠いですよ」
「そうかもしれませんね」
二人の会話を聞いていた奥田課長が
小さく笑った
「山中君は前からそういうところがある
自分の事になると案外鈍いんだ」
「課長まで」
「事実だろう」
その横では中村駐在が腕を組んで立っている
「同級生がいなくなるのは少し寂しいな」
「そんなこというなよ」
「本音だよ」
短いやり取りに皆が笑う
その笑い声の中で
山中はふと役場を見上げた
何年も通った建物だった
決して大きくはない
立派でもない
それでも 自分にとっては特別な場所だった
雨実村に戻って来て
多くの人と出会い 多くの事を学んだ
失敗もあった 迷いもあった
それでも 前へ進むことが出来た
それは一人ではなかったからだ
菫がいて 奥田課長がいて
村の人達がいた
だから今がある
バスのエンジン音が聞こえて来た
「そろそろですね」
菫が言った
バスは一旦止まる 運転手も知っていた
「よろしいですか?」
山中は頷き そしてみんなの顔を見回した
「ありがとうございました」
自然に言葉が出た
誰に向けたものなのか
自分でも分からなかった
だが その一言で十分だった
奥田課長が軽く手を振る
「向こうでも頑張れよ」
「はい」
中村駐在も頷いた
菫は小さく頭を下げた
「お元気で」
「ああ 小川主任」
「はい?」
「あとは 頼みます」
一瞬だけ菫が驚いた顔を見せた
そして真っ直ぐ山中を見返した
「はい」
その返事を聞いて 山中は安心したように
微笑んだ
彼女なら大丈夫だ
そう思えた
山中はバスに乗り込んだ
ドアが閉まる
ゆっくりとバスが動き始める
窓の向こうで 皆が手を振っていた
雨実村の景色が少しずつ遠ざかる
山中は静かに目を細めた
道の駅の屋根が見えた
その向こうには山々が続いている
あの日 自分たちが灯した灯りは
もう自分だけのものではない
此れからは別の誰かが受け継いでいく
そう思いながら山中幸一は新しい土地へ
向かうバスの座席に深く腰を下ろした
春はもうすぐそこまで来ていた
四月初旬
春の日差しが山肌を柔らかく照らしていた
瀬河駅前のバスターミナル
新田博は肩から提げた鞄を持ち直しながら
停車中の路線バスを見上げた
「青月村役場前行き」
その途中に
目的地である 雨実村がある
県庁所在地から列車を乗り継ぎ
約二時間ようやくここまで来た
今日から三年間
雨実村役場へ派遣されることになっている
県庁職員として二十年以上働いてきたが
市町村への派遣は初めてだった
鞄の中には人事通知書と
簡単な村の概要資料が入っている
人口約七百六十人
有権者で言えば約六百三十人
高齢者率五十パーセント以上
主産業は農業と観光
二年前に道の駅が開業
資料に書かれているのはそれだけだった
バスの乗降口が開く
新田は無言で乗り込んだ
平日の朝という事もあり
乗客もまばらだった
新田は窓際の席に腰を下ろした
途中のショッピングモール前と
総合病院前から乗り込んでくる客は
それなりにいた 杖を持った老人などいた
市街地を抜けると景色が変わり始めた
住宅街 田畑 そして山々
窓の外には
どこまでも続く山並みが広がっている
新田は腕時計を見た
まだ あと四十分以上かかる
思ったより遠い
資料にはそう書いてあったが
実際に来ると印象が違う
県庁の会議室で眺める数字と
現実の距離は別物だった
やがてバスは細い川沿いの道へ入った
透き通った水面が朝日に光っている
桜の蕾が見えるがまだ咲かない
この辺りの桜は遅咲きだと
以前テレビで見た事があった
景色を眺めながら新田はふと思った
悪くない場所かもしれない
最も それは仕事とは関係ない
三年後には県庁へ戻る
感傷のは必要ない
そう考えながら窓の外へ視線を戻した
さらに十分ほど走る
やがて
車窓には木造造りの大きな建物が見えて来た
駐車場には数台の車が停まり
平日の午前中にも関わらず人影が見える
建物の壁には大きく文字が書かれていた
『道の駅 雨実の里』
新田は少しだけ身を乗り出した
此れが資料に載っていた施設か
思ったより立派だった
バスはその前を通り過ぎ
更に数分車内放送が流れた
「次は雨実村役場前 雨実村役場前です」
新田は立ち上がった
鞄を肩に掛ける
バスがゆっくり停車する ドアが開いた
春の山の空気が流れ込む
新田は一歩 外へ降りた
目の前には二階建ての役場庁舎
決して大きくはない
だが手入れは行き届いていた
玄関前には二人の人物が立っていた
一人は五十代後半と思われる男性
穏やかな表情を浮かべていた
もう一人は若い女性職員だった
新田が近づくと 男性が先に頭を下げた
「お待ちしておりました 奥田です」
続いて女性も頭を下げる
「ふるさと振興課主任の小川菫です」
新田も一礼した
「本日付けで着任しました新田博です
宜しくお願いします」
その瞬間
菫はほんの少しだけ緊張した表情を見せた
新しい上司
県庁から来た人
どんな人物なのか まだ分からない
一方 新田も同じだった
この村で三年間
どんな人達と働くことになるのか
まだ何も知らない
ただ一つ解る事がある
今日から新しい仕事が始まる
山々に囲まれた小さな村で
新田博は 静かに役場の玄関へ足を向けた




