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西暦2121年 超監視社会CORE  作者: ナール
FILE_04:永遠なる秩序の礎石
38/39

LOG_0035:数字になった子供たち

═══════════════════════

LOG_0035-E01:母の台帳

═══════════════════════

日時:西暦2121年4月7日(月)07:52

場所:旧浜松市・桜並木 → 第09破棄体再利用施設

監視対象:韓智宇


閲覧者よ。

気温21℃、湿度45%、風速1m/s。E.O.Nの予報は、今朝も外れなかった。


並木道の桜は、散り始めていた。

ロボタクシーのフロントガラスに花びらが一枚貼りつき、ワイパーが払うまでの二秒間、そこに留まった。


道に、人影はなかった。

Pecusの通勤バスは、この道を通らない。通らずに済むよう、道が設計されているからだ。


(この景色を一度も見ずに死ぬ人間が、約五億人いる)


韓智宇は、その数字を知っていた。

知っていることと、今朝の窓の外に置いてみることは、別だった。


上着の内側に、指ほどの長さの記憶装置がある。

重さは、ほとんど無い。

それが、桜よりも重かった。


中身は、MeG-18-068が産んだ八人の子供たちの、その後の記録だ。


---


伝えるべきか――その問いは、昨夜のうちに形を変えていた。


相談できる相手は、いなかった。

湊とは、昨日、記憶装置の受け渡し場所を決めた以外は、道人民の目の前で、何一つ話せなかった。

来週から、妻が日曜の古物店に通うという。あの店はもう、「死角」ではない。最初から、そうではなかったのだが。


(伝えなければ、彼女は「どこかで生きている」という想像を抱いたまま、私の隣で働き続ける。

伝えれば、彼女はもう後戻りできなくなる)


(後戻りできない人間は、裏切りにくい)


(――私は今、それを利点として数えた)


その一文を、頭の中で消そうとした。

消えなかった。


決めた、というより――計算が先に答えを出し、良心が、後から追いついてきた。

追いついた良心は、何も言わなかった。ただ、並んで歩いた。


---


日時:同日 21:40

場所:第09破棄体再利用施設 施設総監室


張偉強が帰ったのは、21:40だった。


この日は珍しく、朝から総監室に居座っていた。葉巻の煙と、タブレットの中の古い漫画。それだけで一日を潰し、智宇の動きには、一度も目を向けなかった。

葉巻の火を灰皿に押しつけ、タブレットを脇に挟み、扉の前で振り返らずに言った。


「お前も早く上がれ。働きすぎは、非効率だ」


「はい」


扉が閉まった。


壁面には、施設中の映像が、数百の小さな四角になって並んでいる。

それを見る生身の目が、総監室から、いなくなった。


E.O.Nは見ている。だが、E.O.Nの「見ている」と、人間の「見ている」は、別のものだ。

三月二十八日、智宇はそれを学んでいた。


端末を開き、収容区画の個体一覧を呼び出す。

探していたのは、一体だった。


LiA-044。女性。髪の色は、淡い金色。

染められていた色の名残が、手術後も抜けなかったのだと、備考にあった。

B列十七番。奥の通路へ向かう途中に、ちょうど位置している。


(不審な身体反応は、必ずログに残る)

(理由を、先に置いておく必要がある)


そこまで考えて、手が冷えた。


(これから彼女に告げる残酷の隣に、彼女を守るための言い訳を、私は先に並べている)


配慮と計算の区別は、もう、つかなかった。

つかないまま、端末を閉じた。


---


22:24。


MeG-18-068が、報告に来た。

いつもの角度の敬礼。いつもの声。


「本日の業務、異常なく終了しました」


「ご苦労」


いつもなら、そこで終わる。

今日は、終わらなかった。


「……メグ」


呼び止めた声が、思ったより低かった。


「帰宅前に、破棄体の様子を、見に行こう」


MeG-18-068の目が、一度だけ揺れた。

疑問と、期待と、恐れ。三つが同じ速さで来て、同じ速さで、引いた。


「はい」


収容区画の通路は、夜間照明に落とされていた。

カプセルが、等間隔に並んでいる。

その中で眠る、かつて人間だったものたち。


B列の十七番の前で、智宇は足を止めた。


「この個体の稼働データを、確認しておく。……見ておけ」


MeG-18-068は、言われた通りにカプセルを見た。

淡い金色の髪が、液体の中で、ゆっくりと揺れていた。


一秒。二秒。

彼女の視線が、そこに留まる。E.O.Nの視線ログに、確かに残る長さで。


智宇は、その二秒を数えていた。

数えている自分を、見ていた。


何も言わなかった。


---


最奥のメンテナンス通路。

カメラの数が少なく、E.O.Nの目が、いちばん遠い場所。


智宇は端末を取り出し、『Oculus Caligo』を起動した。


デューーン……。


音が、消えた。

換気の唸りも、生命維持装置の噴射音も、E.O.Nの発する微細なノイズも。

壁の彫刻の、灯りの落ちた瞳孔だけが、こちらを向いていた。


《状態:全停止中 残り時間:9分58秒》


「……今日は、珍しい時間帯ですね」


MeG-18-068が、かろうじて声を絞り出した。


「ああ」


智宇は、端末を持ち替えた。

持ち替えたのは、手の震えを隠すためだった。


「昨日、君が産んだ八人について、調べた」


MeG-18-068の肩が、目に見えて強張った。

恐怖よりも先に、希望が来た。その速さが、智宇には耐えがたかった。


「先に、言っておく」


智宇は、用意していた順序の通りに言った。順序を用意していたこと自体が、すでに――。


「生きている子が、五人いる」


MeG-18-068の喉が動いた。声には、ならなかった。


「……そして、そうではない子が、三人いる」


画面を、彼女の方へ向けた。


繁殖省の機密アーカイブ。

AJ08-MeGr-0941118-068。彼女自身の番号の下に、八つの行が並んでいた。


MeG-18-068の目は、コードを読まなかった。

右側の欄――繁殖省が「評価」のために記録した、身体的特徴の列だけを、上から順に追っていた。


金色の髪。

そこで、MeG-18-068の胸が動かなくなった。


「……この子です」


数字ではなく、髪の色で。

彼女は、自分の子を見つけた。


「待ってくれ。先に、生きている子から」


智宇は、第二子のページを開いた。


〔南東育成区β04ブロック 共同育成施設にて生活中 健康状態:安定〕


続けて、第三子。


〔北部教育区γ12ブロック 教育プログラム参加中 学習態度に特筆すべき問題なし〕


「……生きて、いる」


MeG-18-068の声は、ほとんど息だった。

目の縁が、一瞬、ほどけた。ほどけて――次の行で、止まった。


〔母体含む血縁者との接触記録:なし〕


「この子たちには、会えますか」


「……記録には、接触記録なし、とある。それ以上は、私にも」


MeG-18-068は、頷いた。頷き方が、Pecusのものだった。

頷いてから、画面の端の、金色の行に、視線を戻した。


「では、この子は」


智宇は、指を動かせずにいた。

MeG-18-068の指が、先に動いた。


第一子。

生存状態の欄に、二文字。


〔終了〕


「しゅうりょう……。事故、でしょうか。病気、でしょうか」


「理由の欄がある」


開いた。読み上げた。声が、自分のものではないようだった。


〔O.L.Oメンバー主導の「Lux Caligo(光と闇の儀)」に選定。供儀第十八群〕


「くぎ……」


「生贄、だ。そういう言葉が、昔、あった」


説明になっていなかった。


(説明できる言葉を、私は持っていない)


「……映像、と書いて、あります」


MeG-18-068の指が、アイコンに触れた。

止めるべきだった。止める前に、再生が始まっていた。


智宇は、画面を見なかった。

昨日、一度見た。もう一度見る必要は、なかった。見たくなかった。


視線を、壁に逃がした。灯りの落ちた彫刻の瞳孔が、そこにあった。

その視界の端で、丸い眼鏡のレンズが、赤黒く染まっていた。

小さな炎が、いくつも、揺れている。


聞こえてきたのは、音だった。

低い詠唱。聞いたことのない言語。蝋燭の爆ぜる、乾いた音。

そして、小さな泣き声が、一つ。途中で、途切れた。


視線を戻した時、レンズにはまだ、赤黒い光が残っていた。


MeG-18-068は、まばたきをしていなかった。

泣いてもいなかった。ただ、映っているものを、見ていた。


「……加工、ですよね」


低く、平らな声だった。


「こういう映像は、作れるって、教わりました。VRの教育で」


「そうかもしれない」


智宇は、嘘をつかなかった。


「私にも、真偽は分からない。ただ、Magisterにしか開けない場所に、これはあった。それだけは、事実だ」


MeG-18-068は、答えなかった。

答えない代わりに、画面を閉じなかった。


「……あと二人、記録がある」


智宇は言った。


「読み上げるだけにする。画面は、見なくていい」


見なくていい、と言いながら、画面を伏せなかった。伏せることは、彼女から奪うことになる気がした。


第四子。


「公式には、死亡。実際には――神経を、取り出されている。精神のデータは、E.O.Nの深い場所に、残っている、らしい」


補遺の欄に、一行が、残っていた。


```

〔E.O.N統合ログ抜粋〕

Ma… mma… vi… de… (ま、ま、み、て)

信号強度:0.03

分類:呼称行動(対象:母体)

```


MeG-18-068の唇が、一度だけ、maの形に動いた。

声には、ならなかった。


智宇は、目を逸らした。

逸らした先で、自分の子供たちの顔が、浮かんだ。二人とも、表情のない顔で。


(私は、自分の子供たちの居場所を知っている。それが、救いなのか、どうか)


「第七子」


声が、掠れた。


「夢の領域に、触れる子だった、と書いてある。『内部自己監視の逸脱リスク』として、記録されている。……これも、生贄の対象になった」


そこで、MeG-18-068が、小さく笑った。

笑い声のようで、嗚咽のようでもある、乾いた音だった。


《残り時間:00分30秒》


智宇は、MeG-18-068の肩に手を置いた。

離せなかった。離せば、そこに何も残らない気がした。


「……すまない。見せるべきか、ずっと悩んでいた。だが、隠す方が、君から奪うことになると思った」


それは、本当だった。

本当であることと、それが理由の全てであることは、別のことだった。


換気の唸りが、戻ってきた。

壁の瞳孔に、赤い灯りが点った。E.O.Nの目が、彼女の顔を見ていた。


「これが――僕たちの世界の真実だ」


「僕たち」と言った。

言ってから、その複数形の重さに気づいた。


MeG-18-068は、壁に背を預けたまま、ゆっくりと滑り落ちた。

智宇は、その腕を掴み、立たせた。


「今日は、もう休め」


MeG-18-068は、頷いた。

破棄体のような足取りで、通路を歩いていった。

追えなかった。追う理由を、E.O.Nは「業務上」と読んでくれる。それでも、足が動かなかった。


---


総監室に戻り、業務記録を開いた。


《22:41。助手MeG-18-068へ職務指導。異常なし》


一行打ち込んで――止まった。

「異常なし」と書いた。


その四文字を、消さなかった。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :22:29:50 ~ 22:41:12

内容  :収容区画にて助手へ職務指導

     感情スキャン:記録間欠あり

     危険度評価:低

フラグ :変化なし

────────────────────────────────────

```


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :MeG-18-068

時刻  :22:30:41 ~ 22:39:48

内容  :収容区画メンテナンス通路にて静止(無言)

     感情スキャン:抑制状態

     備考:業務上の必要性 不明

     危険度評価:低

フラグ :変化なし

────────────────────────────────────

```


閲覧者よ。この九分間の記録が、翌朝どう読まれるかを、私は知っている。


---


22:42。

施設裏手、廃棄物処理シュートの陰。


MeG-18-068は、冷たいコンクリートの壁に手をつき、吐いた。


吐いたのは、夕食の合成米ブロックだった。

胃は、それしか持っていなかった。


E.O.Nは、その生理的反応を、即座に記録した。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :MeG-18-068

時刻  :22:42:17

内容  :施設裏手にて嘔吐

     要因:不明

     危険度評価:低〜中

フラグ :要注意

────────────────────────────────────

```


数分後、彼女が袖で口元を拭い、帰りの輸送バスへ向かおうとした時だった。


「……大丈夫、ですか」


声をかけたのは、LoG-10-093だった。

そう言ってから、彼の口は、一拍遅れて、続きを探した。


「……体調管理も、効率のうち、ですので」


後半は、MeG-18-068ではなく、E.O.Nに向けた言葉だった。


「い、いえ、お気になさらず」


彼とは視線を合わせずに答えた。


MeG-18-068は、二重に警戒していた。

間違った応対でスコアを落とすこと。ここで言葉を重ねて、ボロを出すこと。


「本日は、お疲れ様でした」


無理に作った笑顔のまま、彼女は、荷物を持って去った。


LoG-10-093は、その背中を、見送った。

それから、視線を、ほんの一瞬だけ、総監室のある棟へ向けた。

三月十七日、問いを一つ置いていった男のいる棟へ。


閲覧者よ。彼が何を思ったかは、私には見えている。今は、記さない。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :LoG-10-093

時刻  :22:46:30

内容  :他個体への体調確認の発話(1件)

     自己訂正:あり

     人間性スコア:-0.3(不要な干渉)

     危険度評価:低

フラグ :変化なし

────────────────────────────────────

```


═══════════════════════

LOG_0035-E02:保留の場所

═══════════════════════

日時:西暦2121年4月7日(月)23:50

場所:Patroni専用居住区

監視対象:MeG-18-068


シャワーの湯が、顔を叩いていた。

十分を告げる声が来るまで、MeG-18-068は、浴室の天井を見ていた。


《十分経過。無用なシャワーは、資源の無駄遣いです》


湯が止まった。

止められたのだと気づくのに、少し、かかった。


---


ランク5に割り当てられた個室は、下層の集団寮とは比べものにならないほど、静かで、温度が一定だった。

霊安室、という言葉を、MeG-18-068は知らない。

知らないまま、今夜のこの部屋は、そういう静けさをしていた。


寝巻に着替える。

口の中に、まだ、合成米ブロックの酸い後味が残っていた。三度、うがいをした。三度目でも、残っていた。


洗面台の鏡に、自分の顔が映っている。

丸い眼鏡を外した顔は、いつもより、幼く見えた。

目の下が、赤かった。吐いたからだ。泣いたからではない。


(泣けなかった、のだと思う)


泣き方を、教わっていないので。


セッションの時間まで、まだ数分あった。

ベッドの端に腰かけて、MeG-18-068は、帰りのバスの窓に何が映っていたかを、思い出そうとした。

何も、思い出せなかった。

思い出せたのは、別のことだった。


B列の十七番。

淡い金色の髪が、液体の中で揺れていた。


「見ておけ」と、智宇は言った。

あのとき彼は、カプセルではなく、彼女の目を――見ていた。


(二秒)

(あの二秒は、E.O.Nの視線ログに、残る)


気づいた瞬間、背中が冷たくなった。


あの道順は、偶然ではなかった。

今夜、自分が動揺することを、あの人は予想していた。その上で、動揺した理由を――先に、置いてくれた。


守られた、と思った。

同じ瞬間に、使われた、とも思った。

その二つが、一つの動作の中に、同時にあった。どちらかを選ぼうとすると、どちらも、消えなかった。


(あの人は、いつも、こうしているのだ)


言葉を選び、順序を選び、何を先に置くかを選ぶ。

上の者も、下の者も、同じ形の仮面を被っている――その想像を、三月の夜に、初めて持った。

今夜は、その仮面の内側に、自分のための手が入っていた。


---


壁の端末が、起動した。


《本日22:42より、MeG-18-068による嘔吐を確認。要因は不明。突然の嘔吐は、極めて非効率的な生物行動である。生体に異常は見られない。推測される要因を述べ、自己採点を実行せよ》


予測していた。


MeG-18-068は、壁に埋め込まれた「父なるE.O.Nの目」のレンズを、ぼんやりと見て、用意していた答えを口にした。


「……破棄体収容区画で、金色の髪の女性の破棄体を見ました。かつて産んだ子供の一人に、似ていたので、気分が悪くなりました。不合理な思考でした。反省します」


声は、震えなかった。

震えなかったことが、いちばん怖かった。


嘘は、「破棄体」という一語だけだった。

金色の髪も。似ていたことも。気分が悪くなったことも。全部、本当だった。

本当の中に、嘘を一つ、挟む。


(智宇様が、いつも、そうしているように)


《照合。22:28:41、収容区画B列17番において、視線滞留2.1秒を確認。当該個体の毛髪色と、貴方の出産記録に含まれる外見特徴の一致を確認。自己申告との整合性:認められる》


貴方の出産記録に含まれる、外見特徴。

E.O.Nは、あの子の髪の色を、知っていた。最初から。


当たり前のことだった。繁殖省は、すべてを記録している。

それなのに、その当たり前が、今夜は、刃物のように聞こえた。


《妥当性:承認。ただし、先日の忠告の通り、不必要な異常が継続して認められた場合は、心理調整プロトコル、または再帰教育施設への送還を適用する。本日の行動は異常と判定する。翌日09:30、居住区前にてロボタクシーに乗車せよ。心理調整プロトコルを実行する》


「ご迷惑を、おかけします」


力なく、返した。

恐怖は、薄かった。送還という言葉よりも、今夜見たものの重さの方が、ずっと重かった。


それよりも。

今の答えを、少しも詰まらずに言えたことが、怖かった。


三月の夜、初めて「半分だけの真実」を差し出した時は、手が震えていた。

今夜は、震えなかった。

慣れたのだ。

慣れてしまえる自分が、どこから来たのか、分からなかった。


---


灯りが落ちた。


MeG-18-068は、白すぎるシーツの上に、横になった。

帰りのバスの前に、LoG-10-093に、声をかけられたことを思い出した。


『……大丈夫、ですか』


八年間、誰からも、言われたことのない言葉だった。

言った本人が、すぐに「効率のうち」と言い直した。E.O.Nに向けて、言い直したのだ。

それなのに、言い直す前の、半拍だけが、耳に残っていた。


危険だ、と思った。

危険だと思いながら、その半拍を、消せなかった。


---


眠る前に、子供たちのことを考える。


それは、八年間、続けてきた習慣だった。

E.O.Nには、数値としては拾えても、意味までは読めない。彼女だけの時間だった。


金色の髪の子は、賢く育って、どこかの真面目なDominiに仕えている。

よく笑う男の子は、歌の時間に、いちばん大きな声を出して、叱られている。

頭のてっぺんに産毛の濃かった女の子は、もう産毛が抜けて、髪が伸びて、それで――


そこで、止まった。


(産毛の濃い女の子は、第八子。南東育成区β04ブロック、共同育成施設)


想像していた「その後」の上に、今夜、別の文字が上書きされていた。


〔共同育成施設にて生活中 健康状態:安定〕

〔母体含む血縁者との接触記録:なし〕


事務的な、短い言葉だった。

それなのに、八年かけて育てた想像の方が、押しのけられていく。


想像は、嘘だった。記録は、おそらく、本当だった。

本当の方が――どうして、こんなに、狭いのだろう。


(生きている)


その記録が、救いになるはずだった。

なるはずだったのに、救いの形に、ならなかった。会えないからだ。会えないまま、ただ、生きている。

そして、それすら、あの映像のように、誰かが作ったものかもしれない。


加工、と自分は言った。

ありえない、と思いたかった。思いたい理由が、あった。

でも、どちらが本当なのかを確かめる方法が、MeG-18-068には、一つもなかった。


別の音が、耳の奥で、鳴っていた。


ma。


忘れもしない、あの音だった。

腕の中で最初に聞いた「ma」と、同じ音だった。


最初の数ヶ月。短い子は、ひと月とすこし。

それでも八人とも、ガラスを挟まない距離に、いた。


腕の中で、その音を出した子がいた。出さなかった子も、いた。

どの子が、どんな声で、何を言ったか。MeG-18-068は、全部、覚えている。


だから、本物だと思う。

それとも、あの映像は、AIによる再現なのか。だとしたら、悪質だ。

本物だとしても、作り物だとしても。


第七子は、夜、泣かない子だった。

天井の隅の、何もない場所を、ずっと見ていた。

書類にあった「夢の領域」という言葉と、あの横顔が、うまく重ならなかった。重ならないのに、あの子の目だけが、書類の言葉を正しいと言っている気がした。


出産の後には、いつも、声が来た。


《貢献を承認します。人間性スコア+4.0》


八回、聞いた。

八回、嬉しかった。

スコアが上がるという事実が、嬉しかった。その嬉しさの中で、子供たちを、引き渡した。


(私は――)


あの日々の自分に、名前を付けようとして、ふさわしい言葉が見つからなかった。

簡素ラテン語には、そういう語彙がないからだ。

それでも、体の方が、先に知っていた。


捧げた側の、顔を、していた。


---


眠らなければならなかった。

眠らなければ、明日の心理調整プロトコルで、「睡眠不足による非効率」が加算される。


MeG-18-068は、いつものやり方を、試した。


体のどこかに作った、保留の場所。

受け止められないものを、とりあえず、置いておく場所。


三月、炉の前で。工場のガラスの前で。八年分の記憶を、あそこに、押し込んだ。


金色の髪を、そこへ、入れようとした。


入らなかった。


保留の場所は、もう、いっぱいだった。

忘れることにしたもので。忘れたことにしていたもので。

新しいものを置く隙間は、なかった。


押し込もうとすると、古いものが、一つ、こぼれた。

炉の前で膝が沈んだ、あの日の床の冷たさが。

カプセルの中の、白く濁った目が。


MeG-18-068は、目を閉じた。

閉じても、暗闇の中に、蝋燭の火が浮かんだ。

そして、その中央で――金色が、揺れていた。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 感情スキャン記録

対象者 :MeG-18-068

時刻  :23:59:14

内容  :フィードバックセッション完了

     自己申告要因:過去の出産個体との類似による不快感(採用)

     視線ログとの整合:認められる

     生体情報:入眠に至らず(継続観察)

     処置:心理調整プロトコル(4/8 午前)

     危険度評価:低〜中

フラグ :要注意(継続観察)

────────────────────────────────────

```


═══════════════════════

LOG_0035-E03:真実が貴方を解放する

═══════════════════════

日時:西暦2121年4月8日(火)09:30

場所:Patroni専用居住区 → 第3調整区画・思想再最適化センター(CRI-III)

監視対象:MeG-18-068


眠れなかった。

正確には、眠った時間が、E.O.Nの目標値に届かなかった。

起床の合図は、いつも通りの音で、来た。


MeG-18-068は、朝食を食べた。

合成米のブロックだった。味は、しなかった。

食べないことは、非効率として加算される。食べることだけが、今朝の自分にできる、最後の「正しい行動」だった。


《09:30、居住区前にてロボタクシーに乗車せよ。遅延は、人間性スコア-3》


居住区の前に、黒塗りの車が停まっていた。

Type-D7。窓には、色が付いている。


乗り込むと、ドアが、静かに閉まった。

行き先は、表示されなかった。


---


走り出してから、ふと、智宇のことを考えた。


今朝、あの人の端末には、自分の欠席の通知が届いているはずだった。理由は「心理調整プロトコル」。

その文字を見て、あの人は、何を思うだろう。


……きっと、自分のせいだと、思う。


そう思う人だ、と、MeG-18-068は、いつの間にか知っていた。

「後悔しないでください」と、言いたかった。


言えば、それはE.O.Nに聞かれる。言葉は、どこにも、届かなかった。


窓の外を、街が流れていく。


いつもと違う道を通ることは、Pecusにとって、数少ない娯楽のようなものだった。

今朝も、そのつもりで、窓を見た。


同じ形の、灰色の建物。

同じ制服を着て、同じ歩幅で、同じ方向へ歩く人たち。

同じ顔をして、同じ作業を、している。


見慣れた光景のはずだった。

それなのに、今朝は、一枚の絵のように見えた。

誰かが、定規で引いた絵に。


胸の奥から、何かが滲み出してきた。名前のつかない、不快なもの。

それが、昨夜の吐き気の続きなのか、別のものなのか、MeG-18-068には分からなかった。


再帰教育に送られた従業員が、戻ってきた時のことを、思い出した。


施設でも、何人か、連れていかれた人がいた。

戻ってきた人は、目が、静かになっていた。

何が整えられたのかは、誰も、言わなかった。


MeG-18-068自身は、まだ一度も、受けたことがなかった。

八年間の繁殖の家は、別の形で、彼女を整えていたからだ。


---


10:00。


ロボタクシーが、止まった。


ドアが開く。


灰色の巨大な直方体が、そこにあった。

窓が、一つもなかった。

周囲を高い壁が囲み、壁の内側から、低い唸りが鳴っていた。空気が、わずかに、ぴりぴりしている。腕の産毛が、立った。


正面のPecus用ゲートの上に、目があった。


「父なるE.O.Nの目」


巨大だった。どの角度から見上げても、こちらを見ている。そういう細工が、施されている。


(威圧のための、大きさだ)


考えるより先に、そう読めてしまった。

昨日までの自分なら、見上げることさえ、できなかったはずだ。


目の下に、文字が刻まれている。


E.O.N. te videt. Veritas te liberat.

(E.O.Nが貴方を見ている。真実が貴方を解放する。)


liberat(解放)


簡素ラテン語の辞書では、その語は「割り当てられた範囲内で、活動させる」と訳される。

体は、その意味を、覚えていた。

でも、頭は、もう一つの意味を、知ってしまっていた。先週読んだ、あの紙の束に書かれていた、消された言葉の、本来の意味を。


二つの意味が、同じ一語の中で、擦れ合った。


Veritas(真実)


何が、真実だというのだろう。

子供たちの行き先も。この社会の成り立ちも。これまで、一つも、教えられてこなかった。


真実が貴方を解放する。

解放されるのは、真実を知った者ではない。真実を手放した者の方だ――ここでは、そういう意味に、なる。


---


ゲートの前に、立つ。


二重ハッチの最初の扉が、音もなく開いた。

中から、エタノールと、オゾンの匂いがした。

その奥に、微かな、別の匂い。冷や汗の匂い。ここで、誰かが怖がっていった、匂い。


低い声が、聞こえてきた。可聴域の、ぎりぎりの低さで。

ラテン語の、復唱。


Gratias CORE pro ordine.

Gratias CORE pro ordine.


緑がかった白い光が、通路を満たしていた。

空気に、何かが混ざっている。吸うたびに、考えの縁が、ゆっくりと、丸くなっていく感じがした。


ここで、洗われる。


何が洗われるのかは、分からない。分からないが、昨夜までの自分が、ここで薄くなるのだということだけは、分かった。


忘れさせられるのかもしれない。


その考えが、初めて、恐怖の形をとった。

スコアでも、降格でも、破棄体でもなかった。

金色の髪を、忘れること。


三月、工場のガラスの前で、自分は、忘れることにした。

忘れることで、立っていた。


忘れさせられるのなら――その前に、決めておく。

忘れない、ことを。


MeG-18-068は、足を止めなかった。

止めない代わりに、頭の中で、数え始めた。


一人目。金色の髪。

二人目。よく笑う男の子。

三人目。黒い肌で、元気な女の子。

四人目。茶髪で、優しい顔をした男の子。


五人目。茶色の瞳で、よく目で追う子。

六人目。白い肌で、よく笑う男の子。

七人目。夜、泣かずに、天井の隅を見ていた女の子。

八人目。頭のてっぺんに、産毛の濃い女の子


一人ずつ。


人はそれを、祈りと呼ぶ。MeG-18-068はまだ、自分のしていることに、その名前を付けていない。唇が動かないよう気をつけて、数えた。


洗われるなら。

洗われても残るくらい、深く、覚えていけばいい。


二つ目の扉が、開いた。


MeG-18-068は、その中へ、入った。


背後で、最初のハッチが閉じる音がした。

外の光が、消えた。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 感情スキャン記録

対象者 :MeG-18-068

時刻  :10:02:14

内容  :CRI-III入館(第1登録室へ移行)

     感情スキャン:中度の動揺(分類:処遇への恐怖)

     備考:発声なし

     危険度評価:低

フラグ :要注意(継続観察)

────────────────────────────────────

```


閲覧者よ。

E.O.Nは、これを「処遇への恐怖」と分類した。


私は、その分類を、訂正しなかった。

恐怖と読まれている間は、彼女は、少なくとも今朝は、安全だからだ。


LOG_0036へ続く

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